『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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春の夜気が校舎を包み込み、寮の灯りが一つ、また一つと消えていく頃――  
学園全体に、ほのかに似通った香りが漂い始めていた。

それはどこかで嗅いだことのあるような、甘くてやわらかく、それでいて決して強すぎず、意識の底にまで染み込んでくるような香。

「アズナ様の香り……これに近いと思うの」

ある生徒が、誇らしげに語った。

最近、生徒の間では“アズナ香”と呼ばれる独自調香が密かなブームとなっていた。彼女が香塔で用いる香の組み合わせを真似し、少しずつ自分好みにアレンジしながら、“あの安心”を手に入れようとする試み。

香水瓶が、寮の部屋ごとに並べられ、夜ごとそれぞれの調合が焚かれる。

「これがあれば、眠る前に気持ちが落ち着くの」  
「悪夢を見なくなった。まるで祝福されているみたい」  

やがて――それは、現実に異変をもたらす。

その夜、学院の生徒たちは皆、同じ夢を見た。

静かで白い花畑。  
風に揺れる無数の花の中、遠くから歩いてくるひとりの少女。  
微笑を浮かべ、誰かを選ぶでもなく、拒むでもなく、ただ穏やかに歩いてくる。  
その名は、アズナ。

彼女の微笑に包まれ、誰もが静かに目を閉じ、眠りの中で深く満たされていく。

翌朝、談話室や講義前の廊下では、“同じ夢”の話で持ちきりだった。

「あなたも見たの?」  
「ええ……まるで本当に祝福された気がした」  
「私も、私も……こんな偶然、あるのかしら?」

だが、その話を傍らで黙って聞いていた教師がいた。

ライナス=グレイブ。

その日、職員控室で彼は報告書を投げ出し、低く呟いた。

「これは、偶然ではない……」

報告によれば、夜間の調香室利用者が通常の三倍。  
校舎内で採取された空気には、複数種の鎮静系香成分が混在しており、しかもその一部は“感情誘導系”に分類される可能性が高かった。

ライナスは深く椅子にもたれ、目を伏せた。

「香が……個人の範囲を越え、空気そのものを支配し始めている」

そして、その中にあるのは“意図的な強制”ではない。  
“望まれているからこそ自然に広がった支配”――  
それが最も厄介で、証明しにくい“依存の網”だった。

「言葉も命令もいらない。ただ静かに香らせるだけで、皆が同じ夢を見て、同じ感情を持つ……これは、まぎれもなく支配の証明だ」

けれど、その支配の主体は、何も語らない。

アズナは何も命じていない。何も強いていない。  
ただ、そこに在るだけで――周囲が勝手に彼女の存在に“寄り添っていく”。

ライナスは立ち上がった。

「ここで止めねば、手遅れになる」

静かすぎる夜に、ほのかに漂う香は――  
心の奥へと、音もなく染み渡っていた。
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