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香塔の上階、夜間立ち入りが禁じられている区域に、淡い光が灯っていた。
巡回当番だったギルバート=エインズワースは、その微かな光を見て足を止めた。
こんな時間に、人の気配。
誰かが――香を焚いている。
恐る恐る階段を上がる。足音を忍ばせ、扉の隙間から覗いたその先。
そこにいたのは、アズナ=グランフォードだった。
彼女は、ひとりで香炉の前に膝をつき、静かに目を閉じていた。
香材は月光の香。心を落ち着かせ、記憶の輪郭を薄める効能を持つ淡香。
部屋は満たされていた。香と、沈黙と、祈りのような空気で。
アズナはいつものように、微笑んでいた。
その顔を見た瞬間、ギルバートは“記録魔法”の起動を止めた。
本能的に、それを記録してはならないと感じたのだ。
その笑顔が、あまりに――“脆かった”から。
彼女は誰もいない空間で、誰に向けるでもない微笑を湛えていた。
その頬には、確かに、涙の跡が残っていた。
拭った様子もない。
乾ききらないまま、皮膚に薄く残るその痕跡。
アズナはゆっくりと香炉の蓋を閉じ、
香が薄れていくのを見届けながら、ただ小さく呟いた。
「……これで、少しは、眠れますわね」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
でも――彼女自身の心に、そっと灯すための言葉だった。
ギルバートは、その場を静かに離れた。
記録部屋に戻ると、手が震えていた。
それでも、彼はペンを握り、日誌にこう書き記した。
《これは、笑顔ではない。
誰かを赦すためでも、慰めるためでもない。
この“微笑”は、彼女自身が倒れないための――仮面だ》
ページの上に落ちたインクのしずくが、涙と見分けがつかないほど滲んでいた。
アズナ=グランフォード。
すべてを許すと語り、すべてに微笑を向ける存在。
けれどその夜、ギルバートは知ってしまった。
その微笑の奥には、誰にも届かない、かすかな叫びが隠されていることを。
そして、それが――“人間”としての、彼女の唯一の証だった。
巡回当番だったギルバート=エインズワースは、その微かな光を見て足を止めた。
こんな時間に、人の気配。
誰かが――香を焚いている。
恐る恐る階段を上がる。足音を忍ばせ、扉の隙間から覗いたその先。
そこにいたのは、アズナ=グランフォードだった。
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香材は月光の香。心を落ち着かせ、記憶の輪郭を薄める効能を持つ淡香。
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本能的に、それを記録してはならないと感じたのだ。
その笑顔が、あまりに――“脆かった”から。
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その頬には、確かに、涙の跡が残っていた。
拭った様子もない。
乾ききらないまま、皮膚に薄く残るその痕跡。
アズナはゆっくりと香炉の蓋を閉じ、
香が薄れていくのを見届けながら、ただ小さく呟いた。
「……これで、少しは、眠れますわね」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
でも――彼女自身の心に、そっと灯すための言葉だった。
ギルバートは、その場を静かに離れた。
記録部屋に戻ると、手が震えていた。
それでも、彼はペンを握り、日誌にこう書き記した。
《これは、笑顔ではない。
誰かを赦すためでも、慰めるためでもない。
この“微笑”は、彼女自身が倒れないための――仮面だ》
ページの上に落ちたインクのしずくが、涙と見分けがつかないほど滲んでいた。
アズナ=グランフォード。
すべてを許すと語り、すべてに微笑を向ける存在。
けれどその夜、ギルバートは知ってしまった。
その微笑の奥には、誰にも届かない、かすかな叫びが隠されていることを。
そして、それが――“人間”としての、彼女の唯一の証だった。
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