『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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香塔――  
数日間、固く閉ざされていたその扉が、ようやく音を立てて開いた。

朝の柔らかな光の中、開かれたその瞬間を目撃した生徒が、息を呑むように呟いた。

「……アズナ様が、戻られた……!」

その言葉はすぐに噂として駆け巡り、  
講義室から、寮から、廊下の片隅から――香塔へと人々が集まり始める。

期待と安堵が入り混じる足取り。  
皆の胸には、無意識の願いがあった。

“あの香り”がまた、空気を満たしてくれるのではないか。  
“あの微笑”が再び、心を撫でてくれるのではないか。

けれど、調香室に入った瞬間、その願いは静かに裏切られた。

そこには確かにアズナ=グランフォードがいた。  
だが彼女の手にあったのは、以前使っていた“優しさの調合香”ではなかった。

香炉から立ち上る煙は、ほとんど香りを持たなかった。  
鼻を近づけても、感じるのはただ微かな温度と、無の輪郭だけ。

「……これは、何の香り……?」

誰かが問うた。

アズナは、振り返らなかった。  
けれど、静かに言葉を返した。

「何者の感情も侵さぬ香ですわ」

その声音は穏やかで、けれどどこか遠い。  
まるで、どこにも属さぬ風のように。

「癒やすことも、救うことも、包むことも……もういたしません。  
それが、わたくしの選んだ“終わり”であり、“始まり”ですの」

生徒たちは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。

けれど――たしかに感じた。

これは“赦しの香”ではない。  
“誘導の香”でも、“微笑の香”でもない。  
ただ、“空気に干渉しない”ことだけを目的とした、無の香。

アズナ=グランフォードは、自らを“介入者”から退けた。

彼女はもう、誰の心にも踏み込まない。  
誰かの痛みに手を差し伸べることもなければ、慰めの香を差し出すこともない。

それが彼女なりの“赦しの終焉”だった。

静かに焚かれ続ける、感情を持たぬ香。  
それは奇しくも、誰よりも強い意志の香だった。

“もう、わたくしは皆さまを操らない”  
“それでも、ここに居続けます”

香塔の空気は、あまりにも澄みすぎていて、  
それゆえに、生徒たちははじめて“自分の感情”というものの重さに気づき始めた。

――そして、その空気に、誰ひとり涙も、微笑も浮かべなかった。
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