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4 白河藩
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第二章 白河藩
第一話 松平定信
天明三年七月。
浅間山の大噴火の報せは、奥州・白河にも届いた。
信州の山々が燃えたなどという話は、白河から見れば雲の向こうの出来事にすぎない。
だが、今夜届けられた急使の書付と、伝令自身の震える声は、遠さという感覚を押し流すだけの重さを帯びていた。
まず、火が出た。
ただの噴火ではない。山が裂け、空が割れ、昼が夜に変わったという。
熱風が村をなぎ払い、家々は火の舌に飲み込まれ、逃げ惑う者の上に赤い石と灰が降り注いだ。
川は泥に染まり、田は灰で埋まり、稲の葉は黒く焼け落ちた。
灰は昼夜を分かたず降り続き、関東の空を覆い、月の輪郭すら見えなくしたという。
伝令が口にした数字――
焼け落ちた家の数、埋もれた村の名、人の死によう。
どれも生々しすぎて、座敷の者たちは言葉を失った。
「馬鹿な……それほどまでか」
家老の一人が、抑えきれずに呟く。
声は小さいのに、座敷の畳を伝って、皆の耳に重く届いた。
白河の者たちは、噴火そのものよりも、
その先に来る“飢え”の影を見ていた。
関東の田畑が灰に沈めば、米の値は跳ね上がる。
米が高騰すれば、江戸の町は騒ぎ、諸藩は争って買い集める。
買い集めが始まれば、市に流れる米は減り、さらに値は上がる。
――その波が奥州へ届くのに、そう時間はかからない。
誰もがそれを口にしたくて、口に出来ずにいた。
その沈黙を割ったのは、藩主・松平定信だった。
定信は書付を膝の上で静かに広げ直し、
一字一字を確かめるように視線を滑らせた。
眉ひとつ動かさない。
熱や灰の惨状よりも、そこから導かれる“次の一手”を、すでに胸の中で組み立てている表情だった。
しばし沈思。
座敷の空気すら定信の思考に引かれて固まる。
やがて、定信は顔を上げ、低く言った。
「災は遠きにあれど、灰は風に乗り、やがて米を枯らす」
その声に、家臣たちは背筋を伸ばす。
「関東が乱れれば、奥州もただでは済むまい。
遠国の火ではない。
飢えは国境を越えてくる」
“飢え”という言葉を、定信は避けなかった。
避ければ備えが遅れる。
遅れれば領民が死ぬ。
そこまで見越した、容赦のない言い方だった。
定信はすぐに命じる。
「直ちに蔵を点検せよ」
言われた家老たちが身を正す。
「蔵ごとに米の量を洗い出し、
古米・新米・湿り米を分け、傷んだものは捨てずに別に保管せよ。
昨年の備蓄がどれほど残っているか、今この場で数字にせねばならぬ」
“点検せよ”という一言の裏に、作業の速度と精度の要求が詰まっている。
定信はさらに続けた。
「余剰があるなら、早急に移し替えよ。
鼠や湿気に喰われるほどの猶予はない。
今年は凶作を覚悟せねばならぬ」
家臣たちに動揺が走るが、定信は容赦なく言葉を打つ。
「領民の口を守らずして、藩は成り立たぬ。
兵を養う前に、畑を守るのが藩の務めだ」
「はっ……!」
畳に額をつける者が増えた。
定信は畳の向こうの家臣を見渡し、さらに釘を刺す。
「それから――無用の出費はただちに止めよ」
声の低さが一段深くなる。
「祝宴、遊興、贅沢の類はすべて禁ず。
城下の祭りも縮小させ、酒も控えさせよ。
絹や薬の買い付けも見直せ。
民が飢える時に、藩の上が贅を見せれば、恨みが刃になる」
家臣たちの呼吸が浅くなる。
ただの倹約令ではない。
“民心の崩れ”まで視野に入れた命令だと誰もが悟った。
「江戸の商人との取引も改め、
必要なもの以外は買うな。
惰性で払っている金があるならすべて止めよ。 これは命令である」
最後の一句は、畳に錨を打つように重かった。
座敷の者たちは一斉に「御意」と言うでもなく、ただ深く頭を垂れた。
逆らう余地など、最初から存在しない。
定信はなお筆を取り、
すぐさま江戸への書状を書きはじめる。
将軍家治に告げねばならぬ。
関東の飢えは政治の根を揺らす。
諸藩が勝手に動き出す前に、幕府としての方針を早く出さねば、天下は裂ける。
定信の筆は迷いがない。
まるでこれが噴火の報せを受ける前から決まっていたかのように、言葉が整然と紙の上に並んでいく。
ふと筆を止め、定信は障子の向こうを見た。
東の空は鈍く曇り、
夏のはずの光がどこか白く薄い。
遠い灰が、もう空の色を変え始めている。
目に見える距離ではないのに、
皮膚が“これから来る冷え”を先に感じ取っているようだった。
胸中に浮かんだ考えは一つ。
――これは、世を揺るがす前触れに違いない。
声には出さない。
だがその沈黙は、決意の沈黙だった。
そこへ、御用部屋に慌ただしい足音が近づいた。
襖が控えめに開き、家老・本多忠壽(ほんだ ただなが)が深々と拝礼する。
いつもの忠壽なら、足取りも呼吸も乱さぬ。
だが今は違う。
膝をつくまでの動きが僅かに速く、その僅かな速さが、急報の重さを示していた。
「殿。――ただいま急報が参りました」
定信は筆を置き、顔を上げる。
「申せ」
「はっ。
館林藩、壊滅との由。
浅間山の噴火により、城下を含む広きにわたり甚大なる被害が出ている模様にございます」
座敷の空気が、目に見えるほど張りつめた。
城下が壊滅――それは藩が一つ死んだに等しい。
定信の眉が、ほんのわずかに動く。
それだけだ。
だがその刹那、藩主としての冷静と、
兄としての血の熱が、同時に胸を刺したのが分かった。
「……お菊の様子はどうなっておる」
質問は短い。
だが座敷の誰もが息を止めた。
その名がこの場の空気を変えてしまうほど、定信にとって特別だと知っている。
本多忠壽は首を垂れたまま、
慎重に、慎重すぎるほど慎重に答えた。
「恐れながら――
未だご無事の報せは届いておりませぬ」
「なんと……」
定信は、初めて“感情の重さ”を声に滲ませた。
だがすぐに沈黙し、
障子の向こうの曇天を、もう一度見上げる。
この灰の世で、
妹がどこにいるのか。
生きているのか。
誰の手に触れているのか。
考えが胸の底をよぎる前に、定信は姿勢を正した。
次に出る言葉は、兄の願いではなく、藩主の命令でなければならない。
「すぐに館林へ向かえ。
本多、そなた直々に参れ」
声が落ちる。
「妹をこちらへ連れ戻せ。
必ずだ」
「御意――」
本多忠壽は深く拝し、畳に額をつける。
それは主命を受けた家老の礼であり、同時に“奥方様を守り抜く誓いの礼”でもあった。
定信は筆を握り直す。
政治は待たない。
噴火も、飢えも、陰謀も、待たない。
だからこそ、手を止めずに書き続ける。
だが――
その胸の奥底にだけは、妹の名が冷たい影となって広がり続けていた。
第二話 旅の支度
本多忠壽(ほんだ ただなが)は、御用部屋を辞した足で、そのまま藩邸の一室へ戻った。
廊下を踏む足取りは乱れていない。草履の音も一定で、家老としての威厳を崩す気配すらない。
だが、障子を閉めた途端、胸の奥に沈めていた焦りが、ひたりと皮膚の内側へ広がった。
室内は薄暗い。
壁際には槍と弓、鎧櫃が整然と並び、長く使われていない具足の金具が、ほのかな燭の光を反射している。
忠壽は迷いなく鎧櫃の蓋を開け、必要なものだけを静かに取り出した。
まず、胴。
手に取ると、金属の冷たさが掌に伝わる。
その冷たさが、逆に自分の内側の熱を自覚させた。
袴を整え、懐刀を腰に差す。
帯の締まり具合を一度確かめ、黒羽織を肩に掛ける。
動作はすべて、普段の稽古のままに滑らかで無駄がない。
供の侍が控え、忠壽の指示を待つ。
忠壽は短く命じた。
「馬を用意せよ。
街道の様子を探らせ、替え馬の手配も怠るな。
道中の兵糧は軽く、だが水は確保しておけ」
「はっ」
供の侍たちがきびきびと動き出す。
忠壽はその背を見送りながら、息を一つ押し殺すように吸った。
――お菊様。
名を心中で呼ぶだけで、胸が微かに痛んだ。
定信公のたったひとりの妹。
館林藩へ嫁がれ、奥方として過ごされていた御方。
白河でも、館林でも、あの方の清らかな品格と慈しみ深い気立ちは知られている。
人を威で従わせるのではなく、心で支える方。
だからこそ、いまの災厄の只中で、まずあの方が矢面に立っているであろうことが、忠壽には痛いほど分かっていた。
だが――
お菊様の身には、世に知られぬ重い宿命がある。
――巫女の血。
田保(たやす)徳川家の中でも選ばれし女のみが受け継ぐ、古い血筋。
その血はただの名門の証ではない。
代々「十二輝の封印」を支える巫女の一族として、忍神〈シノビガミ〉の珠を沈め、世の均衡を保つ“鎖”の役目を負ってきた。
巫女は戦わない。
武器を取らず、祈りと儀式によって世の災いを封じる。
だが、その祈りがあるからこそ、人々は知らぬまま平穏に暮らせてきた。
封が揺らげば、災いは人の暮らしの表へ溢れ出す。
忠壽は、具足の紐を結びながら、定信公の顔を思い浮かべた。
倹約と民政の藩主として世に名高い定信公。
だがその裏には、十二輝の封印という宿命に縛られた“徳川の影”がある。
表の政を守るために、裏の鎖を決して切らせぬ覚悟。
そして――お菊様こそが、その鎖の唯一の継ぎ手。
浅間山の噴火は、ただの自然の怒りではない。
十二輝の均衡が崩れつつある兆し。
もし封の柱である巫女が倒れれば、藩の安泰どころか、天下が揺らぐ。
本多忠壽は支度を整え、主より託された書状を懐深くに収めた。
紙の厚みと印の重さが、肌越しに伝わる。
それは命令であり、信頼であり、そして兄の焦りの塊でもあった。
庭先で馬が嘶いた。
まだ夜が薄く残る空気が、鼻の奥へ冷たく満ちる。
忠壽は一度だけ目を閉じ、静かに心を整えた。
そして胸中で、言葉にせぬ誓いを一つ結ぶ。
――必ず、お菊様をお連れ戻す。
夜明けを待たず、白河城を発った。
館林へ向かう街道へ、馬の蹄が乾いた音を刻みはじめる。
噴火から数日。
館林城下は、もはや城下と呼べる姿を失っていた。
街道は灰と岩屑で寸断され、
家々は半ば焼け落ち、半ば埋もれ、
見慣れたはずの町並みは、ただ鈍い灰色の地形へ変わっている。
風が吹くたび、火山灰が舞い上がり、
人の喉にも、目にも、衣の隙間にも入る。
人々は咳き込み、涙を流し、
それでも泣き暮らす暇もないほど飢えと恐怖に追われていた。
藩士の多くは戦わずして命を落とした。
噴火は刃よりも容赦なく、鎧よりも厚い灰が人を押し潰した。
城の威容も、壁が裂け、櫓が崩れ、
“藩の中心”という形すら曖昧になっている。
――誰ひとり、この災厄に抗う術を知らぬ。
そう見える光景の只中に、ただ一つ、生きた光があった。
「水を、まずは子供たちへ回して。
年寄りには温めた粥を……」
煤にまみれ、袖も裾も焦げた白衣姿。
瓦礫の間を歩き回り、民へ指示を飛ばす、ひとりの女。
松平定信の妹、お菊である。
彼女自身も負傷していた。
腕には粗い包帯が巻かれ、
額の傷は乾きかけているのに、時折また血が滲む。
衣の一部は破れ、袖口の白は灰に染まり、それでも彼女は顔色を曇らせない。
痛みを押し殺しているのではない。
痛みの前に、民の苦しみが見えている。
だからこそ、立っていられる。
崩れた蔵の前で泣き叫ぶ農夫の肩を抱き、灰の中でうずくまる老人に粥を運ばせ、飢えに倒れた子を抱き起こし、濡れた布で唇を湿らせる。
彼女の声は大きくない。
けれど不思議なほど澄み、
荒れた空気の中でも一筋の水のように通った。
「……心配いりませぬ。
必ず立ち直れます。
ここで倒れてはなりませぬ」
声は弱々しくも、折れていない。
その響きは人の胸に沁み、
絶望で重く沈んでいた目を、少しずつ上へ向けさせた。
誰かが立ち上がる。
その姿を見て、別の誰かも立ち上がる。
それが連鎖し、人々は次第にお菊を“中心”として動き始めた。
ある藩士が、灰に汚れた頬を涙で濡らしながら言った。
「……このままでは館林は滅びる。
だが、お菊様がおられる。
まだ道はある」
別の侍女が、すすり泣きながら声を上げる。
「……このことを、兄上様の――白河の殿に知らせねばなりません」
お菊は静かに首を振った。
否定ではなく、責務の引き受けとして。
「兄上を煩わせるには及びませぬ。
いまは領民を支えることこそ、わたくしの務め……」
それは奥方としての務めであり、
巫女としての務めでもある。
この場が崩れれば、封の柱も揺らぐ。
お菊はそれを誰より知っている。
周囲の人々も、うすうす感じていた。
ただ優しい奥方だから、ここまで身を削っているのではない。
この御方の背には、古より「十二輝の封印」を担う巫女の血が流れている。
いまこの館林で、
最後の支えは城ではない。
武威でもない。
この御方が立っていることそのものが、
領民にとっての命綱だった。
第一話 松平定信
天明三年七月。
浅間山の大噴火の報せは、奥州・白河にも届いた。
信州の山々が燃えたなどという話は、白河から見れば雲の向こうの出来事にすぎない。
だが、今夜届けられた急使の書付と、伝令自身の震える声は、遠さという感覚を押し流すだけの重さを帯びていた。
まず、火が出た。
ただの噴火ではない。山が裂け、空が割れ、昼が夜に変わったという。
熱風が村をなぎ払い、家々は火の舌に飲み込まれ、逃げ惑う者の上に赤い石と灰が降り注いだ。
川は泥に染まり、田は灰で埋まり、稲の葉は黒く焼け落ちた。
灰は昼夜を分かたず降り続き、関東の空を覆い、月の輪郭すら見えなくしたという。
伝令が口にした数字――
焼け落ちた家の数、埋もれた村の名、人の死によう。
どれも生々しすぎて、座敷の者たちは言葉を失った。
「馬鹿な……それほどまでか」
家老の一人が、抑えきれずに呟く。
声は小さいのに、座敷の畳を伝って、皆の耳に重く届いた。
白河の者たちは、噴火そのものよりも、
その先に来る“飢え”の影を見ていた。
関東の田畑が灰に沈めば、米の値は跳ね上がる。
米が高騰すれば、江戸の町は騒ぎ、諸藩は争って買い集める。
買い集めが始まれば、市に流れる米は減り、さらに値は上がる。
――その波が奥州へ届くのに、そう時間はかからない。
誰もがそれを口にしたくて、口に出来ずにいた。
その沈黙を割ったのは、藩主・松平定信だった。
定信は書付を膝の上で静かに広げ直し、
一字一字を確かめるように視線を滑らせた。
眉ひとつ動かさない。
熱や灰の惨状よりも、そこから導かれる“次の一手”を、すでに胸の中で組み立てている表情だった。
しばし沈思。
座敷の空気すら定信の思考に引かれて固まる。
やがて、定信は顔を上げ、低く言った。
「災は遠きにあれど、灰は風に乗り、やがて米を枯らす」
その声に、家臣たちは背筋を伸ばす。
「関東が乱れれば、奥州もただでは済むまい。
遠国の火ではない。
飢えは国境を越えてくる」
“飢え”という言葉を、定信は避けなかった。
避ければ備えが遅れる。
遅れれば領民が死ぬ。
そこまで見越した、容赦のない言い方だった。
定信はすぐに命じる。
「直ちに蔵を点検せよ」
言われた家老たちが身を正す。
「蔵ごとに米の量を洗い出し、
古米・新米・湿り米を分け、傷んだものは捨てずに別に保管せよ。
昨年の備蓄がどれほど残っているか、今この場で数字にせねばならぬ」
“点検せよ”という一言の裏に、作業の速度と精度の要求が詰まっている。
定信はさらに続けた。
「余剰があるなら、早急に移し替えよ。
鼠や湿気に喰われるほどの猶予はない。
今年は凶作を覚悟せねばならぬ」
家臣たちに動揺が走るが、定信は容赦なく言葉を打つ。
「領民の口を守らずして、藩は成り立たぬ。
兵を養う前に、畑を守るのが藩の務めだ」
「はっ……!」
畳に額をつける者が増えた。
定信は畳の向こうの家臣を見渡し、さらに釘を刺す。
「それから――無用の出費はただちに止めよ」
声の低さが一段深くなる。
「祝宴、遊興、贅沢の類はすべて禁ず。
城下の祭りも縮小させ、酒も控えさせよ。
絹や薬の買い付けも見直せ。
民が飢える時に、藩の上が贅を見せれば、恨みが刃になる」
家臣たちの呼吸が浅くなる。
ただの倹約令ではない。
“民心の崩れ”まで視野に入れた命令だと誰もが悟った。
「江戸の商人との取引も改め、
必要なもの以外は買うな。
惰性で払っている金があるならすべて止めよ。 これは命令である」
最後の一句は、畳に錨を打つように重かった。
座敷の者たちは一斉に「御意」と言うでもなく、ただ深く頭を垂れた。
逆らう余地など、最初から存在しない。
定信はなお筆を取り、
すぐさま江戸への書状を書きはじめる。
将軍家治に告げねばならぬ。
関東の飢えは政治の根を揺らす。
諸藩が勝手に動き出す前に、幕府としての方針を早く出さねば、天下は裂ける。
定信の筆は迷いがない。
まるでこれが噴火の報せを受ける前から決まっていたかのように、言葉が整然と紙の上に並んでいく。
ふと筆を止め、定信は障子の向こうを見た。
東の空は鈍く曇り、
夏のはずの光がどこか白く薄い。
遠い灰が、もう空の色を変え始めている。
目に見える距離ではないのに、
皮膚が“これから来る冷え”を先に感じ取っているようだった。
胸中に浮かんだ考えは一つ。
――これは、世を揺るがす前触れに違いない。
声には出さない。
だがその沈黙は、決意の沈黙だった。
そこへ、御用部屋に慌ただしい足音が近づいた。
襖が控えめに開き、家老・本多忠壽(ほんだ ただなが)が深々と拝礼する。
いつもの忠壽なら、足取りも呼吸も乱さぬ。
だが今は違う。
膝をつくまでの動きが僅かに速く、その僅かな速さが、急報の重さを示していた。
「殿。――ただいま急報が参りました」
定信は筆を置き、顔を上げる。
「申せ」
「はっ。
館林藩、壊滅との由。
浅間山の噴火により、城下を含む広きにわたり甚大なる被害が出ている模様にございます」
座敷の空気が、目に見えるほど張りつめた。
城下が壊滅――それは藩が一つ死んだに等しい。
定信の眉が、ほんのわずかに動く。
それだけだ。
だがその刹那、藩主としての冷静と、
兄としての血の熱が、同時に胸を刺したのが分かった。
「……お菊の様子はどうなっておる」
質問は短い。
だが座敷の誰もが息を止めた。
その名がこの場の空気を変えてしまうほど、定信にとって特別だと知っている。
本多忠壽は首を垂れたまま、
慎重に、慎重すぎるほど慎重に答えた。
「恐れながら――
未だご無事の報せは届いておりませぬ」
「なんと……」
定信は、初めて“感情の重さ”を声に滲ませた。
だがすぐに沈黙し、
障子の向こうの曇天を、もう一度見上げる。
この灰の世で、
妹がどこにいるのか。
生きているのか。
誰の手に触れているのか。
考えが胸の底をよぎる前に、定信は姿勢を正した。
次に出る言葉は、兄の願いではなく、藩主の命令でなければならない。
「すぐに館林へ向かえ。
本多、そなた直々に参れ」
声が落ちる。
「妹をこちらへ連れ戻せ。
必ずだ」
「御意――」
本多忠壽は深く拝し、畳に額をつける。
それは主命を受けた家老の礼であり、同時に“奥方様を守り抜く誓いの礼”でもあった。
定信は筆を握り直す。
政治は待たない。
噴火も、飢えも、陰謀も、待たない。
だからこそ、手を止めずに書き続ける。
だが――
その胸の奥底にだけは、妹の名が冷たい影となって広がり続けていた。
第二話 旅の支度
本多忠壽(ほんだ ただなが)は、御用部屋を辞した足で、そのまま藩邸の一室へ戻った。
廊下を踏む足取りは乱れていない。草履の音も一定で、家老としての威厳を崩す気配すらない。
だが、障子を閉めた途端、胸の奥に沈めていた焦りが、ひたりと皮膚の内側へ広がった。
室内は薄暗い。
壁際には槍と弓、鎧櫃が整然と並び、長く使われていない具足の金具が、ほのかな燭の光を反射している。
忠壽は迷いなく鎧櫃の蓋を開け、必要なものだけを静かに取り出した。
まず、胴。
手に取ると、金属の冷たさが掌に伝わる。
その冷たさが、逆に自分の内側の熱を自覚させた。
袴を整え、懐刀を腰に差す。
帯の締まり具合を一度確かめ、黒羽織を肩に掛ける。
動作はすべて、普段の稽古のままに滑らかで無駄がない。
供の侍が控え、忠壽の指示を待つ。
忠壽は短く命じた。
「馬を用意せよ。
街道の様子を探らせ、替え馬の手配も怠るな。
道中の兵糧は軽く、だが水は確保しておけ」
「はっ」
供の侍たちがきびきびと動き出す。
忠壽はその背を見送りながら、息を一つ押し殺すように吸った。
――お菊様。
名を心中で呼ぶだけで、胸が微かに痛んだ。
定信公のたったひとりの妹。
館林藩へ嫁がれ、奥方として過ごされていた御方。
白河でも、館林でも、あの方の清らかな品格と慈しみ深い気立ちは知られている。
人を威で従わせるのではなく、心で支える方。
だからこそ、いまの災厄の只中で、まずあの方が矢面に立っているであろうことが、忠壽には痛いほど分かっていた。
だが――
お菊様の身には、世に知られぬ重い宿命がある。
――巫女の血。
田保(たやす)徳川家の中でも選ばれし女のみが受け継ぐ、古い血筋。
その血はただの名門の証ではない。
代々「十二輝の封印」を支える巫女の一族として、忍神〈シノビガミ〉の珠を沈め、世の均衡を保つ“鎖”の役目を負ってきた。
巫女は戦わない。
武器を取らず、祈りと儀式によって世の災いを封じる。
だが、その祈りがあるからこそ、人々は知らぬまま平穏に暮らせてきた。
封が揺らげば、災いは人の暮らしの表へ溢れ出す。
忠壽は、具足の紐を結びながら、定信公の顔を思い浮かべた。
倹約と民政の藩主として世に名高い定信公。
だがその裏には、十二輝の封印という宿命に縛られた“徳川の影”がある。
表の政を守るために、裏の鎖を決して切らせぬ覚悟。
そして――お菊様こそが、その鎖の唯一の継ぎ手。
浅間山の噴火は、ただの自然の怒りではない。
十二輝の均衡が崩れつつある兆し。
もし封の柱である巫女が倒れれば、藩の安泰どころか、天下が揺らぐ。
本多忠壽は支度を整え、主より託された書状を懐深くに収めた。
紙の厚みと印の重さが、肌越しに伝わる。
それは命令であり、信頼であり、そして兄の焦りの塊でもあった。
庭先で馬が嘶いた。
まだ夜が薄く残る空気が、鼻の奥へ冷たく満ちる。
忠壽は一度だけ目を閉じ、静かに心を整えた。
そして胸中で、言葉にせぬ誓いを一つ結ぶ。
――必ず、お菊様をお連れ戻す。
夜明けを待たず、白河城を発った。
館林へ向かう街道へ、馬の蹄が乾いた音を刻みはじめる。
噴火から数日。
館林城下は、もはや城下と呼べる姿を失っていた。
街道は灰と岩屑で寸断され、
家々は半ば焼け落ち、半ば埋もれ、
見慣れたはずの町並みは、ただ鈍い灰色の地形へ変わっている。
風が吹くたび、火山灰が舞い上がり、
人の喉にも、目にも、衣の隙間にも入る。
人々は咳き込み、涙を流し、
それでも泣き暮らす暇もないほど飢えと恐怖に追われていた。
藩士の多くは戦わずして命を落とした。
噴火は刃よりも容赦なく、鎧よりも厚い灰が人を押し潰した。
城の威容も、壁が裂け、櫓が崩れ、
“藩の中心”という形すら曖昧になっている。
――誰ひとり、この災厄に抗う術を知らぬ。
そう見える光景の只中に、ただ一つ、生きた光があった。
「水を、まずは子供たちへ回して。
年寄りには温めた粥を……」
煤にまみれ、袖も裾も焦げた白衣姿。
瓦礫の間を歩き回り、民へ指示を飛ばす、ひとりの女。
松平定信の妹、お菊である。
彼女自身も負傷していた。
腕には粗い包帯が巻かれ、
額の傷は乾きかけているのに、時折また血が滲む。
衣の一部は破れ、袖口の白は灰に染まり、それでも彼女は顔色を曇らせない。
痛みを押し殺しているのではない。
痛みの前に、民の苦しみが見えている。
だからこそ、立っていられる。
崩れた蔵の前で泣き叫ぶ農夫の肩を抱き、灰の中でうずくまる老人に粥を運ばせ、飢えに倒れた子を抱き起こし、濡れた布で唇を湿らせる。
彼女の声は大きくない。
けれど不思議なほど澄み、
荒れた空気の中でも一筋の水のように通った。
「……心配いりませぬ。
必ず立ち直れます。
ここで倒れてはなりませぬ」
声は弱々しくも、折れていない。
その響きは人の胸に沁み、
絶望で重く沈んでいた目を、少しずつ上へ向けさせた。
誰かが立ち上がる。
その姿を見て、別の誰かも立ち上がる。
それが連鎖し、人々は次第にお菊を“中心”として動き始めた。
ある藩士が、灰に汚れた頬を涙で濡らしながら言った。
「……このままでは館林は滅びる。
だが、お菊様がおられる。
まだ道はある」
別の侍女が、すすり泣きながら声を上げる。
「……このことを、兄上様の――白河の殿に知らせねばなりません」
お菊は静かに首を振った。
否定ではなく、責務の引き受けとして。
「兄上を煩わせるには及びませぬ。
いまは領民を支えることこそ、わたくしの務め……」
それは奥方としての務めであり、
巫女としての務めでもある。
この場が崩れれば、封の柱も揺らぐ。
お菊はそれを誰より知っている。
周囲の人々も、うすうす感じていた。
ただ優しい奥方だから、ここまで身を削っているのではない。
この御方の背には、古より「十二輝の封印」を担う巫女の血が流れている。
いまこの館林で、
最後の支えは城ではない。
武威でもない。
この御方が立っていることそのものが、
領民にとっての命綱だった。
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第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
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