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27 館林城の危機
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第十章 館林城の危機
第一話 異変
館林領内に入った途端、空気の質が変わった。
町は静かだった。
いや、静かすぎた。
屋根の上には薄く灰が降り積もり、道には足跡ひとつない。
時折、遠くの山腹が「ぼふっ」と小さく噴き、
白い煙と灰を宙に散らせる。
だが――それ以外の音がない。
あれほど蠢いていた黒屍人の影が、ほとんど見当たらなかった。
領民も表には出ていない。
それどころか、家々の障子に人影が揺れる気配すらない。
戸が閉まり、窓も塞がれ、
町全体が息を止めているようだった。
鉄之介が馬上で顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「……不気味じゃねぇか。誰もいねぇってよ。
みんなおっちんじまったのか?」
忠壽は視線を道の先へ据えたまま答えない。
その横顔に、嫌な予感が影のように差している。
金之助殿も黙っていた。
熱は引いたが、身体の芯が冷える感覚がまだ残っている。
辰の珠が、胸の奥で微かに脈を落とした。
どくん。
喉の奥がひりつくような、
理由のないざわめきが、皮膚の裏から湧き上がる。
お菊様が馬を進めながら、低く言う。
「……静かすぎます。
領民の姿が見えぬのは、恐れて隠れているのならまだしも……
気配すらないのが不自然です」
斎藤が周囲を見回し、唾を飲んだ。
「火の手も、争いの跡も……ございませぬ。
ですが、家々が……“空”のように見えます」
吉村が道端に降り積もった灰を二、三度踏み、首を傾げる。
「……つい先ほどまで、人が歩いていた形跡すらない。
まるで“町そのものが一晩で抜け殻になった”ようで……」
鉄之介が鼻を鳴らした。
「一晩で抜け殻?
そんな馬鹿な……けどよ、黒屍人もいねぇ。領民もいねぇ。
残ってんのは灰と空っ風だけだぞ」
忠壽が、ようやく口を開いた。
「……城へ急ぐ。
“戻れ”の命に、これほど簡素な書状を使う理由があるはずだ」
その声は落ち着いている。
だが、底に沈んだ警戒の重さは、誰の耳にもはっきり届いた。
鉄之介は大槌の柄をぎゅっと握り直し、
馬の首を撫でるふりをしながら、小さく呟いた。
「……嫌な静けさだな。
静かってのはよ、なにかが“いなくなった”か、
“出てくる前触れ”か、どっちかだ」
その言葉の直後。
遠く、館林城の方角から――
風に乗って、かすかな鐘の音が聞こえた。
低く、重く、
喪に服すような響きで。
お菊様の指が数珠に触れ、震えが走る。
辰の珠が、金之助殿の胸の中で、もう一度深く脈を打った。
どくん。
――呼ばれている。
それが何なのか、まだ分からない。
だがこの静寂の奥に、館林が隠した“何か”が確かに待っている。
一行は馬を早めた。
灰の町を割り、
息を潜めた領内を貫き、ただ城へ向かって。
城下町に入った――その瞬間だった。
空気が、さっきまでとはまるで違う。
静寂の膜が裂け、代わりに腹の底を這うような低いうなりが、四方から押し寄せてきた。
うぅぅ……おぉぉ……
黒屍人の声だ。
路地の奥、崩れた塀の陰、灰に埋もれた市場跡――
どこもかしこも、ぬめる気配で満ちている。
気づけば、道の先は黒い影で埋まっていた。
人の姿はない。
あるのは、腐臭と、灰と、ゆっくり揺れる無数の亡者だけ。
鉄之介が馬上で顔をしかめ、吐き捨てる。
「なんだ、なんだ……
やつらみんなここに集まってたってことか?」
忠壽は眉を寄せ、城の方角を睨んだ。
「……なんでだ?」
「知るかよ」
鉄之介は大槌の柄をきしませる。
「けどよ、数が変だぞ。
ここだけ濃すぎる……」
黒屍人たちは一斉にこちらへ向き直った。
首の角度も、歩みの速さも、揃いすぎている。
まるで――何かに引かれているように。
お菊様が馬を止め、低く息を呑む。
「……これでは城に近づけません」
黒屍人の波が、城へ向かう一本道を完全に塞いでいた。
正面から突っ込めば、包囲されて終わる。
かといって迂回路も、町の中は同じように影が蠢いている。
忠壽が短く唸った。
「……さあ、どうしたものか」
そのとき。
金之助殿の胸の奥で、辰の珠が どくん と深く脈を打った。
寅の珠も、鞍脇の袋の中で微かに震える。
金之助殿が眉をしかめ、息を整えながら呟いた。
「……呼ばれてる」
「何だと?」
鉄之介が振り返る。
「黒屍人が……城じゃなくて、
もっと近い“何か”に引かれてる感じがする」
忠壽の視線が鋭くなる。
「……珠か?」
お菊様が数珠を握り、うなり声の海を見渡す。
「もしや黒屍人は、珠の気配に惹かれているのやも。
もし城下に強い珠の気配が溢れているなら……
“餌場のように集まる”こともあり得ます」
鉄之介が舌打ちした。
「つまり誰かが、わざと呼んでんのかよ。
城へ戻れって命じた直後にこれってのも、出来すぎてるしな」
忠壽は一歩、馬を進めかけて止まる。
黒屍人の群れが、じわりと反応し、こちらへ滲み寄ったからだ。
「……正面は無理だ」
忠壽はすぐに判断を下す。
「裏から入るしかない。
城へ続く地下道、あるいは城外の水路――
この数を抜ける手立てを探す」
「地下か水路か……」
鉄之介が眉を吊り上げる。
「そんな都合のいい道が、すぐ見つかりゃいいけどよ」
お菊様が城の方角を見据え、静かに言う。
「……城が“戻れ”と言った理由は、ここにあるのでしょう。
黒屍人がこれほど集まっているのは、
城がすでに危機に瀕している証です」
うなり声が、いよいよ大きくなる。
群れの端が、こちらへと雪崩のように動き始めた。
鉄之介が歯を食いしばり、槌を構える。
「ちっ……考えてる暇、ねぇみてぇだぜ」
忠壽は刀に手を置いたまま、低く命じる。
「吉村、斎藤。左右を固めろ。
金之助殿とお菊様を中心に、退きながら道を探す」
「はっ!」
馬が後ずさり、灰が舞う。
黒屍人の影が、じりじりと間合いを詰めてくる。
その中心で、金之助殿の辰が、低く、深く、戦(いくさ)の鼓動を刻み始めていた。
黒屍人の波がじりじりと迫る、その前方――
灰の道の中央に、ひとりの影がすっと現れた。
やせこけた老人だった。
背は曲がり、頬は落ち、風が吹けばそのまま折れてしまいそうな細さ。
だが、手にしたものだけが異様に目を引いた。
大きく、長い杖。
竜の骨のように節くれ立ち、先端には鈍く青い光が宿っている。
まるで夜の底で冷たく燃える鬼火のように、揺らめいていた。
老人の周りには黒屍人が幾重にも蠢いている。
だが、誰ひとりとして老人に手を伸ばさない。
むしろ、老人の歩みに合わせて道を開け、首を垂れるようにうごめいていた。
――従えている。
そうとしか見えぬ不気味さ。
鉄之介が馬上で目を細め、唸る。
「なんだありゃ? じいさんか?
なんで襲われてねぇ」
忠壽は青い光を凝視したまま、低く言った。
「あれは……珠だ。
青く光る、新手の珠……」
その声に、お菊様が息を呑み、数珠を強く握る。
「……未の珠」
ぽつりとこぼれた名に、空気がさらに冷える。
お菊様は青い杖から目を逸らさぬまま、静かに続けた。
「未の珠は、“まやかしの珠”と呼ばれます。
人や動物の心を絡め取り、
おもいのままに操る力を持つと……」
「なんだと?」
鉄之介の声が跳ねる。
「操るだと?」
忠壽の眼が鋭く細まる。
お菊様は一度頷いた。
「はい。
死せるものすら縛ると伝えられております。
……ならば、あの翁が黒屍人を操っているのでしょう」
鉄之介が舌打ちし、槌の柄をきしませた。
「じゃあ、あれが黒屍人、全部引き連れてここに溜めてたってわけかよ」
老人が杖をとん、と地につく。
青い光が脈打ち、黒屍人のうなりが一段深く揃った。
忠壽が短く言う。
「敵だな…」
「考えるまでもねぇ」
鉄之介が低く吐き捨てる。
「味方じゃねぇ。あれは」
忠壽は刀の柄に手を置いたまま、ひと息だけ重く息を吐く。
「そう…だな…」
青い杖の光が、灰の中で冷たく揺れる。
黒屍人の群れが老人の背に従い、ゆらりとこちらへ向き直った。
城下の静寂は終わり、
今、別の“意志”がこの場を支配し始めていた。
第二話 黒屍人の群れ
――三日前。
佐野の宿舎は、灰の匂いをまだ夜気に残していた。
城下の混乱が続く中、佐野政親のもとに配下の伊賀者が血相を変えて駆け込んでくる。
「殿! お菊様の姿が見えませぬ!
昨日までは確かに城内にいらしたのですが……!」
佐野の声が裏返った。
「なんだと!」
畳に片肘をつき、けだるそうに酒椀を回していた武蔵が、鼻で笑う。
「おいおい。
お前ら、ちゃんと見張ってたのかぁ?
忍びのくせによぉ」
伊賀者は額を床に擦りつけるように伏した。
「申し訳ございません……!
昼餉の刻までは確かに――その後、忽然と……」
佐野は苛立ちを噛み殺し、低く言う。
「どこへ消えた。
城を抜けたのか、まだ内にいるのか」
「いえ……今、手分けして情報を……」
虎之進が静かに口を挟んだ。
「そう遠くに行ってはおらぬでしょう。
――早急に突き止めるべきかと」
「分かっている!」
佐野が声を荒げ、すぐに抑え直す。
「城下がこの有様だ。
お菊様を失えば、我らの策は成り立たぬ。 急ぎ探せ」
「はっ!」
伊賀者が退こうとした、その時だった。
表の方で、どん――! と、地を叩くような大きな音。
続いて、低いうなり声が波のように押し寄せた。
「おいおい……なんだ?」
武蔵が椀を置く。
虎之進がすっと立ち上がり、刀に手を添える。
「しばし、拙者が見てまいる」
佐野が頷くや否や、虎之進は外へ消えた。
宿舎の中には、急に嫌な沈黙だけが残る。
……しばらくして。
虎之進が走り込むように戻ってきた。
額に汗、声は切迫している。
「殿!
外が黒屍人で囲まれております。
門を破って、一部こちらへ――!」
「なんだと……!」
佐野が立ち上がる。
「村井様が伊賀衆と食い止めておりますが、数が多く、長くは持たぬかと!」
虎之進は即座に刀を抜きかけ、佐野へ言い切る。
「拙者も直ぐに戻って蹴散らしましょう!」
その横で、武蔵がにやりと口角を上げた。
「おいおい、ここは俺の出番だろうが」
次の瞬間、武蔵は跳ねるように外へ飛び出した。
床板が鳴り、風が巻き込まれる。
「武蔵!」
佐野の呼び止める声も届かない。
虎之進が歯を食いしばり、後を追う。
「拙者も参る!」
さらにもうひとつ、衣擦れの音。
お蘭が静かな足取りで続いた。
「……私も行きます。
ここで崩されては、探し物もできませんからね」
その眼は冷たく冴え、
巳の珠の青い気配を胸の奥に沈めたまま、黒屍人のうなりの渦へ歩み出ていった。
宿舎の外では、すでに灰の街道が黒い波で埋め尽くされている。
門は軋み、悲鳴と鉄の音が混じり合う。
そして佐野は、奥歯を噛みしめた。
――お菊を失った上に、この黒屍人の群れ。
何かが、確実に“狂い始めている”。
その予感だけが、冷たい汗となって背を伝っていた。
門を越え、宿の中へ雪崩れ込んだ黒屍人を、武蔵は文字通り“押し返した”。
鉞をふるうたび、腐肉と灰が弾け散り、うなり声の塊が後ろへ押し流される。
「邪魔だ、邪魔だぁ!」
武蔵は笑い混じりに吠えながら、畳の上を踏み抜く勢いで前へ出た。
黒屍人の肩を砕き、首を断ち、まとめて門の向こうへ叩き返す。
――ひと息。
武蔵が通りへ躍り出ると、そこには数えきれぬ黒屍人の群れが道一面を埋めていた。
だが群れは、武蔵の鉞に怯えたわけではない。
何かに従うように一斉に割れた。
まるで、道を開けるために。
その奥から、ひとりの老人が姿を現す。
やせこけた身体。 骨ばった手。
そして何より目を引く、異様に長い杖。
杖の先で、鈍く青い光が脈を打っていた。
青は冷たく、灰の闇の中でいっそう際立つ。
老人は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
黒屍人はその足元を塞がず、左右に揺れて道を譲った。
……従っている。そうとしか見えぬ。
「なんだ? あいつは」
武蔵が目を細め、鉞を肩に載せる。
後ろから足音が駆け込み、虎之進が息を切らして並び立った。
「武蔵殿、いかがした? どうなっておる」
さらに一拍遅れて、お蘭が現れる。
青い瞳が老人と杖に吸い寄せられた。
「なんだい、あのじじい……」
老人が、喉の奥で乾いた笑いを漏らした。
「ひょう、ひょう、ひょう……」
その笑いは、骨の擦れる音のように不気味だった。
「ここにおるのは、佐野政親様の一行とお見受けした」
「何?」
虎之進の眉が跳ねる。
武蔵は面倒くさそうに口を尖らせた。
「おい、じじい。それがどうした」
老人は杖をとん、と地につく。
青い光が一度、深く脈を落とした。
「お話がございます。佐野様をお呼び願いたい」
「何でだ?」
お蘭が鋭く口を挟む。
武蔵が眉をひそめ、老人の背後の黒屍人を顎で示す。
「それよりじじい、なんで黒屍人に囲まれて、おめえは平気なんだ?」
「おお、こやつらですか?」
「そうだ、うすのろの野郎どもだ」
老人は、まるで畑の作物でも語るように、淡々と笑った。
「こやつらは、ワシの手下でしてな」
「手下だと。どういうことだ?」
虎之進の声が低くなる。
刀の柄にかかった手の力がわずかに強まった。
老人は杖を軽く持ち上げ、群れへ向ける。
それだけで黒屍人のうなりが揃い、
数歩だけ前へにじり寄った。
「見ての通りで、こやつらはワシの言うことは聞く」
武蔵が口の端を吊り上げる。
「まさか、じじい……その杖か?
珠遣いか?」
老人の笑みが、さらに薄く伸びた。
「……ひょう。
そなたら、目は利くようじゃな」
青い光が、杖の先でどくんとひとつ強く脈を打つ。
それに応えるように黒屍人の群れがざわりと震え、三人の背後の空気が、じわりと締め上がった。
「話は佐野様へ。
――そなたらは道を開けよ。
ワシの言葉を拒めば、この手下どもも“我慢”が効かぬでな」
武蔵の目が細く笑ったまま、冷たくなる。
「……へぇ。脅しかよ」
虎之進は一歩、前へ出る。
「貴様の正体は何だ。
名を名乗れ」
老人は答えず、ただ青い杖を静かに掲げた。
その光が夜の闇を舐め、黒屍人の群れがゆっくりと三人を囲むように動き始める。
お蘭が、唇を薄く開いた。
「……佐野様を呼ぶしかないか。
この数、ここで潰すのは骨が折れる」
武蔵は肩を鳴らし、鉞を握り直す。
「呼ぶなら呼べ。
けどよ――じじい。
俺に偉そうに命令したこと、きっと後悔するぜ」
老人は、ひょうひょうと笑った。
「後悔するのは……どちらかのう」
青い光が、もう一度、深く脈を打った。
黒屍人のうなりが、城下に満ちていく。
佐野政親を呼ぶか。
ここで斬り開くか。
決断の猶予は、もはや一息分しか残されていなかった。
呼びに行かせるまでもなかった。
黒屍人の群れの奥、割れた道の向こうから、足音と人の気配が近づいてくる。
灰を踏む音は多い。
だがその中心の歩みだけは迷いがない。
やがて現れたのは、佐野政親だった。
その後ろに伊賀衆が槍を構えている。
佐野は黒屍人の海を一瞥し、老人の杖の青い光を見据えて止まった。
「――老人。私に何用だ?」
背後から響いた声に、武蔵たち三人が一斉に振り返る。
「殿、お気をつけてくだされ」
左門が低く言う。
「分かっておる」
佐野は冷静に返した。
「ここに三人も猛者がいる。心配はない」
老人は杖を軽く傾け、ひょうひょうと笑った。
「おお、あなたが佐野政親様ですか。
お会いできて光栄です」
その口調は丁寧だが、底の知れぬ冷たさがある。
佐野は眉ひとつ動かさない。
「名を名乗れ」
「ワシは根来の虚舟(こしゅう)と申す」
「根来?」
虎之進の眉が跳ねる。
武蔵が鼻で笑った。
「根来の忍びか?」
「根来衆は豊臣に滅ぼされ、今は存在せぬはず」
虎之進が低く言う。
虚舟は楽しげに目を細めた。
「よくご存じで。
根来は滅びました。――しかし、我が一族は今も生き延びております」
「この珠を守る役割がありましたから」
佐野の眼が鋭くなる。
「珠とな。忍神の珠か?」
「さよう」
虚舟は杖をとん、と地についた。
青い光が鈍く脈打ち、黒屍人のうなりが揃う。
「この未の珠は代々受け継がれし、根来の守り神じゃ」
武蔵が肩を揺らして笑う。
「おい、じいさん。
その守り神、秀吉には勝てなかったみてぇだが、大丈夫か? そんな弱ぇ神でよ」
「武蔵殿!」
言い過ぎた武蔵を、虎之進が鋭く制す。
虚舟は怒るでもなく、ただ静かに笑みを深くした。
「ワシらを攻めたゆえ、豊臣の世が終わったのじゃよ」
「ものは言いようだな、じいさん」
武蔵が鼻を鳴らす。
佐野が一歩、前へ出た。
黒屍人がざわりと反応するが、虚舟が杖を軽く揺らすだけで、ぴたりと止まる。
「で、私になんの用だ、老人」
佐野の声は低く、鋼のようだった。
虚舟はその鋼の前に、まるで枯れ木が風に揺れるように首をかしげて見せる。
「用はひとつ。
佐野様――あなたに、この珠を預けに参った」
佐野の眉が微かに動く。
「預ける、だと?」
「さよう」
虚舟は杖の青い光を指でなぞり、ゆっくりと続ける。
「未の珠は“まやかしの珠”。
人の心も、死した肉も、縛り従えさせる。
……しかしそれは、正しく用いられてこそ意味がある」
虎之進が警戒を強める。
「貴様が持っておればよいではないか。
なぜ佐野様へ渡す」
虚舟は、まるで当然の理を語るように答えた。
「根来の守は“珠を抱えて死ぬこと”ではない。
珠が求める“時”に、然るべき器へ渡すことじゃ」
その言葉に、青い光がふっと揺れた。
黒屍人が再び、ざわりと波を起こす。
佐野は虚舟を睨む。
「……私が“器”だと言うのか」
「いや」
虚舟は首を振る。
「あなたは器ではない。
しかし――器を集める者だ」
佐野の眼に、欲と警戒が同時に宿る。
「……何が狙いだ、虚舟」
虚舟は笑った。
骨の擦れるような笑い。
「狙いなどない。
ただ“根来の定め”を果たしに来ただけじゃよ」
武蔵が鉞を肩に載せ直し、低く言う。
「信用できねぇな。
預けるとか言いながら、黒屍人引き連れて乗り込んでくるジジイがどこにいる」
虚舟は武蔵を見ず、佐野だけを見る。
「疑うのは当然。
――だからこそ、佐野様。
まずは話を聞く場をいただきたい」
佐野は一瞬、黙した。
黒屍人のうなりが、城下全体をじくじくと満たしていく。
そして静かに言った。
「……よかろう。
だが一つでも虚言があれば、ここで首を落とす」
虚舟は、ひょろりと頭を下げた。
「承知いたしました」
青い杖が、もう一度、深く脈を落とす。
黒屍人が道を割り、まるで主君を通す家臣のように道を開けた。
虚舟はその開いた道を、ゆっくりと進み出す。
「では――佐野様。
“未の珠”がなぜあなたを選んだか、
その理由をお話し申そう」
佐野の背に冷たい風が当たる。
その目は決して老人から離れなかった。
第一話 異変
館林領内に入った途端、空気の質が変わった。
町は静かだった。
いや、静かすぎた。
屋根の上には薄く灰が降り積もり、道には足跡ひとつない。
時折、遠くの山腹が「ぼふっ」と小さく噴き、
白い煙と灰を宙に散らせる。
だが――それ以外の音がない。
あれほど蠢いていた黒屍人の影が、ほとんど見当たらなかった。
領民も表には出ていない。
それどころか、家々の障子に人影が揺れる気配すらない。
戸が閉まり、窓も塞がれ、
町全体が息を止めているようだった。
鉄之介が馬上で顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「……不気味じゃねぇか。誰もいねぇってよ。
みんなおっちんじまったのか?」
忠壽は視線を道の先へ据えたまま答えない。
その横顔に、嫌な予感が影のように差している。
金之助殿も黙っていた。
熱は引いたが、身体の芯が冷える感覚がまだ残っている。
辰の珠が、胸の奥で微かに脈を落とした。
どくん。
喉の奥がひりつくような、
理由のないざわめきが、皮膚の裏から湧き上がる。
お菊様が馬を進めながら、低く言う。
「……静かすぎます。
領民の姿が見えぬのは、恐れて隠れているのならまだしも……
気配すらないのが不自然です」
斎藤が周囲を見回し、唾を飲んだ。
「火の手も、争いの跡も……ございませぬ。
ですが、家々が……“空”のように見えます」
吉村が道端に降り積もった灰を二、三度踏み、首を傾げる。
「……つい先ほどまで、人が歩いていた形跡すらない。
まるで“町そのものが一晩で抜け殻になった”ようで……」
鉄之介が鼻を鳴らした。
「一晩で抜け殻?
そんな馬鹿な……けどよ、黒屍人もいねぇ。領民もいねぇ。
残ってんのは灰と空っ風だけだぞ」
忠壽が、ようやく口を開いた。
「……城へ急ぐ。
“戻れ”の命に、これほど簡素な書状を使う理由があるはずだ」
その声は落ち着いている。
だが、底に沈んだ警戒の重さは、誰の耳にもはっきり届いた。
鉄之介は大槌の柄をぎゅっと握り直し、
馬の首を撫でるふりをしながら、小さく呟いた。
「……嫌な静けさだな。
静かってのはよ、なにかが“いなくなった”か、
“出てくる前触れ”か、どっちかだ」
その言葉の直後。
遠く、館林城の方角から――
風に乗って、かすかな鐘の音が聞こえた。
低く、重く、
喪に服すような響きで。
お菊様の指が数珠に触れ、震えが走る。
辰の珠が、金之助殿の胸の中で、もう一度深く脈を打った。
どくん。
――呼ばれている。
それが何なのか、まだ分からない。
だがこの静寂の奥に、館林が隠した“何か”が確かに待っている。
一行は馬を早めた。
灰の町を割り、
息を潜めた領内を貫き、ただ城へ向かって。
城下町に入った――その瞬間だった。
空気が、さっきまでとはまるで違う。
静寂の膜が裂け、代わりに腹の底を這うような低いうなりが、四方から押し寄せてきた。
うぅぅ……おぉぉ……
黒屍人の声だ。
路地の奥、崩れた塀の陰、灰に埋もれた市場跡――
どこもかしこも、ぬめる気配で満ちている。
気づけば、道の先は黒い影で埋まっていた。
人の姿はない。
あるのは、腐臭と、灰と、ゆっくり揺れる無数の亡者だけ。
鉄之介が馬上で顔をしかめ、吐き捨てる。
「なんだ、なんだ……
やつらみんなここに集まってたってことか?」
忠壽は眉を寄せ、城の方角を睨んだ。
「……なんでだ?」
「知るかよ」
鉄之介は大槌の柄をきしませる。
「けどよ、数が変だぞ。
ここだけ濃すぎる……」
黒屍人たちは一斉にこちらへ向き直った。
首の角度も、歩みの速さも、揃いすぎている。
まるで――何かに引かれているように。
お菊様が馬を止め、低く息を呑む。
「……これでは城に近づけません」
黒屍人の波が、城へ向かう一本道を完全に塞いでいた。
正面から突っ込めば、包囲されて終わる。
かといって迂回路も、町の中は同じように影が蠢いている。
忠壽が短く唸った。
「……さあ、どうしたものか」
そのとき。
金之助殿の胸の奥で、辰の珠が どくん と深く脈を打った。
寅の珠も、鞍脇の袋の中で微かに震える。
金之助殿が眉をしかめ、息を整えながら呟いた。
「……呼ばれてる」
「何だと?」
鉄之介が振り返る。
「黒屍人が……城じゃなくて、
もっと近い“何か”に引かれてる感じがする」
忠壽の視線が鋭くなる。
「……珠か?」
お菊様が数珠を握り、うなり声の海を見渡す。
「もしや黒屍人は、珠の気配に惹かれているのやも。
もし城下に強い珠の気配が溢れているなら……
“餌場のように集まる”こともあり得ます」
鉄之介が舌打ちした。
「つまり誰かが、わざと呼んでんのかよ。
城へ戻れって命じた直後にこれってのも、出来すぎてるしな」
忠壽は一歩、馬を進めかけて止まる。
黒屍人の群れが、じわりと反応し、こちらへ滲み寄ったからだ。
「……正面は無理だ」
忠壽はすぐに判断を下す。
「裏から入るしかない。
城へ続く地下道、あるいは城外の水路――
この数を抜ける手立てを探す」
「地下か水路か……」
鉄之介が眉を吊り上げる。
「そんな都合のいい道が、すぐ見つかりゃいいけどよ」
お菊様が城の方角を見据え、静かに言う。
「……城が“戻れ”と言った理由は、ここにあるのでしょう。
黒屍人がこれほど集まっているのは、
城がすでに危機に瀕している証です」
うなり声が、いよいよ大きくなる。
群れの端が、こちらへと雪崩のように動き始めた。
鉄之介が歯を食いしばり、槌を構える。
「ちっ……考えてる暇、ねぇみてぇだぜ」
忠壽は刀に手を置いたまま、低く命じる。
「吉村、斎藤。左右を固めろ。
金之助殿とお菊様を中心に、退きながら道を探す」
「はっ!」
馬が後ずさり、灰が舞う。
黒屍人の影が、じりじりと間合いを詰めてくる。
その中心で、金之助殿の辰が、低く、深く、戦(いくさ)の鼓動を刻み始めていた。
黒屍人の波がじりじりと迫る、その前方――
灰の道の中央に、ひとりの影がすっと現れた。
やせこけた老人だった。
背は曲がり、頬は落ち、風が吹けばそのまま折れてしまいそうな細さ。
だが、手にしたものだけが異様に目を引いた。
大きく、長い杖。
竜の骨のように節くれ立ち、先端には鈍く青い光が宿っている。
まるで夜の底で冷たく燃える鬼火のように、揺らめいていた。
老人の周りには黒屍人が幾重にも蠢いている。
だが、誰ひとりとして老人に手を伸ばさない。
むしろ、老人の歩みに合わせて道を開け、首を垂れるようにうごめいていた。
――従えている。
そうとしか見えぬ不気味さ。
鉄之介が馬上で目を細め、唸る。
「なんだありゃ? じいさんか?
なんで襲われてねぇ」
忠壽は青い光を凝視したまま、低く言った。
「あれは……珠だ。
青く光る、新手の珠……」
その声に、お菊様が息を呑み、数珠を強く握る。
「……未の珠」
ぽつりとこぼれた名に、空気がさらに冷える。
お菊様は青い杖から目を逸らさぬまま、静かに続けた。
「未の珠は、“まやかしの珠”と呼ばれます。
人や動物の心を絡め取り、
おもいのままに操る力を持つと……」
「なんだと?」
鉄之介の声が跳ねる。
「操るだと?」
忠壽の眼が鋭く細まる。
お菊様は一度頷いた。
「はい。
死せるものすら縛ると伝えられております。
……ならば、あの翁が黒屍人を操っているのでしょう」
鉄之介が舌打ちし、槌の柄をきしませた。
「じゃあ、あれが黒屍人、全部引き連れてここに溜めてたってわけかよ」
老人が杖をとん、と地につく。
青い光が脈打ち、黒屍人のうなりが一段深く揃った。
忠壽が短く言う。
「敵だな…」
「考えるまでもねぇ」
鉄之介が低く吐き捨てる。
「味方じゃねぇ。あれは」
忠壽は刀の柄に手を置いたまま、ひと息だけ重く息を吐く。
「そう…だな…」
青い杖の光が、灰の中で冷たく揺れる。
黒屍人の群れが老人の背に従い、ゆらりとこちらへ向き直った。
城下の静寂は終わり、
今、別の“意志”がこの場を支配し始めていた。
第二話 黒屍人の群れ
――三日前。
佐野の宿舎は、灰の匂いをまだ夜気に残していた。
城下の混乱が続く中、佐野政親のもとに配下の伊賀者が血相を変えて駆け込んでくる。
「殿! お菊様の姿が見えませぬ!
昨日までは確かに城内にいらしたのですが……!」
佐野の声が裏返った。
「なんだと!」
畳に片肘をつき、けだるそうに酒椀を回していた武蔵が、鼻で笑う。
「おいおい。
お前ら、ちゃんと見張ってたのかぁ?
忍びのくせによぉ」
伊賀者は額を床に擦りつけるように伏した。
「申し訳ございません……!
昼餉の刻までは確かに――その後、忽然と……」
佐野は苛立ちを噛み殺し、低く言う。
「どこへ消えた。
城を抜けたのか、まだ内にいるのか」
「いえ……今、手分けして情報を……」
虎之進が静かに口を挟んだ。
「そう遠くに行ってはおらぬでしょう。
――早急に突き止めるべきかと」
「分かっている!」
佐野が声を荒げ、すぐに抑え直す。
「城下がこの有様だ。
お菊様を失えば、我らの策は成り立たぬ。 急ぎ探せ」
「はっ!」
伊賀者が退こうとした、その時だった。
表の方で、どん――! と、地を叩くような大きな音。
続いて、低いうなり声が波のように押し寄せた。
「おいおい……なんだ?」
武蔵が椀を置く。
虎之進がすっと立ち上がり、刀に手を添える。
「しばし、拙者が見てまいる」
佐野が頷くや否や、虎之進は外へ消えた。
宿舎の中には、急に嫌な沈黙だけが残る。
……しばらくして。
虎之進が走り込むように戻ってきた。
額に汗、声は切迫している。
「殿!
外が黒屍人で囲まれております。
門を破って、一部こちらへ――!」
「なんだと……!」
佐野が立ち上がる。
「村井様が伊賀衆と食い止めておりますが、数が多く、長くは持たぬかと!」
虎之進は即座に刀を抜きかけ、佐野へ言い切る。
「拙者も直ぐに戻って蹴散らしましょう!」
その横で、武蔵がにやりと口角を上げた。
「おいおい、ここは俺の出番だろうが」
次の瞬間、武蔵は跳ねるように外へ飛び出した。
床板が鳴り、風が巻き込まれる。
「武蔵!」
佐野の呼び止める声も届かない。
虎之進が歯を食いしばり、後を追う。
「拙者も参る!」
さらにもうひとつ、衣擦れの音。
お蘭が静かな足取りで続いた。
「……私も行きます。
ここで崩されては、探し物もできませんからね」
その眼は冷たく冴え、
巳の珠の青い気配を胸の奥に沈めたまま、黒屍人のうなりの渦へ歩み出ていった。
宿舎の外では、すでに灰の街道が黒い波で埋め尽くされている。
門は軋み、悲鳴と鉄の音が混じり合う。
そして佐野は、奥歯を噛みしめた。
――お菊を失った上に、この黒屍人の群れ。
何かが、確実に“狂い始めている”。
その予感だけが、冷たい汗となって背を伝っていた。
門を越え、宿の中へ雪崩れ込んだ黒屍人を、武蔵は文字通り“押し返した”。
鉞をふるうたび、腐肉と灰が弾け散り、うなり声の塊が後ろへ押し流される。
「邪魔だ、邪魔だぁ!」
武蔵は笑い混じりに吠えながら、畳の上を踏み抜く勢いで前へ出た。
黒屍人の肩を砕き、首を断ち、まとめて門の向こうへ叩き返す。
――ひと息。
武蔵が通りへ躍り出ると、そこには数えきれぬ黒屍人の群れが道一面を埋めていた。
だが群れは、武蔵の鉞に怯えたわけではない。
何かに従うように一斉に割れた。
まるで、道を開けるために。
その奥から、ひとりの老人が姿を現す。
やせこけた身体。 骨ばった手。
そして何より目を引く、異様に長い杖。
杖の先で、鈍く青い光が脈を打っていた。
青は冷たく、灰の闇の中でいっそう際立つ。
老人は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
黒屍人はその足元を塞がず、左右に揺れて道を譲った。
……従っている。そうとしか見えぬ。
「なんだ? あいつは」
武蔵が目を細め、鉞を肩に載せる。
後ろから足音が駆け込み、虎之進が息を切らして並び立った。
「武蔵殿、いかがした? どうなっておる」
さらに一拍遅れて、お蘭が現れる。
青い瞳が老人と杖に吸い寄せられた。
「なんだい、あのじじい……」
老人が、喉の奥で乾いた笑いを漏らした。
「ひょう、ひょう、ひょう……」
その笑いは、骨の擦れる音のように不気味だった。
「ここにおるのは、佐野政親様の一行とお見受けした」
「何?」
虎之進の眉が跳ねる。
武蔵は面倒くさそうに口を尖らせた。
「おい、じじい。それがどうした」
老人は杖をとん、と地につく。
青い光が一度、深く脈を落とした。
「お話がございます。佐野様をお呼び願いたい」
「何でだ?」
お蘭が鋭く口を挟む。
武蔵が眉をひそめ、老人の背後の黒屍人を顎で示す。
「それよりじじい、なんで黒屍人に囲まれて、おめえは平気なんだ?」
「おお、こやつらですか?」
「そうだ、うすのろの野郎どもだ」
老人は、まるで畑の作物でも語るように、淡々と笑った。
「こやつらは、ワシの手下でしてな」
「手下だと。どういうことだ?」
虎之進の声が低くなる。
刀の柄にかかった手の力がわずかに強まった。
老人は杖を軽く持ち上げ、群れへ向ける。
それだけで黒屍人のうなりが揃い、
数歩だけ前へにじり寄った。
「見ての通りで、こやつらはワシの言うことは聞く」
武蔵が口の端を吊り上げる。
「まさか、じじい……その杖か?
珠遣いか?」
老人の笑みが、さらに薄く伸びた。
「……ひょう。
そなたら、目は利くようじゃな」
青い光が、杖の先でどくんとひとつ強く脈を打つ。
それに応えるように黒屍人の群れがざわりと震え、三人の背後の空気が、じわりと締め上がった。
「話は佐野様へ。
――そなたらは道を開けよ。
ワシの言葉を拒めば、この手下どもも“我慢”が効かぬでな」
武蔵の目が細く笑ったまま、冷たくなる。
「……へぇ。脅しかよ」
虎之進は一歩、前へ出る。
「貴様の正体は何だ。
名を名乗れ」
老人は答えず、ただ青い杖を静かに掲げた。
その光が夜の闇を舐め、黒屍人の群れがゆっくりと三人を囲むように動き始める。
お蘭が、唇を薄く開いた。
「……佐野様を呼ぶしかないか。
この数、ここで潰すのは骨が折れる」
武蔵は肩を鳴らし、鉞を握り直す。
「呼ぶなら呼べ。
けどよ――じじい。
俺に偉そうに命令したこと、きっと後悔するぜ」
老人は、ひょうひょうと笑った。
「後悔するのは……どちらかのう」
青い光が、もう一度、深く脈を打った。
黒屍人のうなりが、城下に満ちていく。
佐野政親を呼ぶか。
ここで斬り開くか。
決断の猶予は、もはや一息分しか残されていなかった。
呼びに行かせるまでもなかった。
黒屍人の群れの奥、割れた道の向こうから、足音と人の気配が近づいてくる。
灰を踏む音は多い。
だがその中心の歩みだけは迷いがない。
やがて現れたのは、佐野政親だった。
その後ろに伊賀衆が槍を構えている。
佐野は黒屍人の海を一瞥し、老人の杖の青い光を見据えて止まった。
「――老人。私に何用だ?」
背後から響いた声に、武蔵たち三人が一斉に振り返る。
「殿、お気をつけてくだされ」
左門が低く言う。
「分かっておる」
佐野は冷静に返した。
「ここに三人も猛者がいる。心配はない」
老人は杖を軽く傾け、ひょうひょうと笑った。
「おお、あなたが佐野政親様ですか。
お会いできて光栄です」
その口調は丁寧だが、底の知れぬ冷たさがある。
佐野は眉ひとつ動かさない。
「名を名乗れ」
「ワシは根来の虚舟(こしゅう)と申す」
「根来?」
虎之進の眉が跳ねる。
武蔵が鼻で笑った。
「根来の忍びか?」
「根来衆は豊臣に滅ぼされ、今は存在せぬはず」
虎之進が低く言う。
虚舟は楽しげに目を細めた。
「よくご存じで。
根来は滅びました。――しかし、我が一族は今も生き延びております」
「この珠を守る役割がありましたから」
佐野の眼が鋭くなる。
「珠とな。忍神の珠か?」
「さよう」
虚舟は杖をとん、と地についた。
青い光が鈍く脈打ち、黒屍人のうなりが揃う。
「この未の珠は代々受け継がれし、根来の守り神じゃ」
武蔵が肩を揺らして笑う。
「おい、じいさん。
その守り神、秀吉には勝てなかったみてぇだが、大丈夫か? そんな弱ぇ神でよ」
「武蔵殿!」
言い過ぎた武蔵を、虎之進が鋭く制す。
虚舟は怒るでもなく、ただ静かに笑みを深くした。
「ワシらを攻めたゆえ、豊臣の世が終わったのじゃよ」
「ものは言いようだな、じいさん」
武蔵が鼻を鳴らす。
佐野が一歩、前へ出た。
黒屍人がざわりと反応するが、虚舟が杖を軽く揺らすだけで、ぴたりと止まる。
「で、私になんの用だ、老人」
佐野の声は低く、鋼のようだった。
虚舟はその鋼の前に、まるで枯れ木が風に揺れるように首をかしげて見せる。
「用はひとつ。
佐野様――あなたに、この珠を預けに参った」
佐野の眉が微かに動く。
「預ける、だと?」
「さよう」
虚舟は杖の青い光を指でなぞり、ゆっくりと続ける。
「未の珠は“まやかしの珠”。
人の心も、死した肉も、縛り従えさせる。
……しかしそれは、正しく用いられてこそ意味がある」
虎之進が警戒を強める。
「貴様が持っておればよいではないか。
なぜ佐野様へ渡す」
虚舟は、まるで当然の理を語るように答えた。
「根来の守は“珠を抱えて死ぬこと”ではない。
珠が求める“時”に、然るべき器へ渡すことじゃ」
その言葉に、青い光がふっと揺れた。
黒屍人が再び、ざわりと波を起こす。
佐野は虚舟を睨む。
「……私が“器”だと言うのか」
「いや」
虚舟は首を振る。
「あなたは器ではない。
しかし――器を集める者だ」
佐野の眼に、欲と警戒が同時に宿る。
「……何が狙いだ、虚舟」
虚舟は笑った。
骨の擦れるような笑い。
「狙いなどない。
ただ“根来の定め”を果たしに来ただけじゃよ」
武蔵が鉞を肩に載せ直し、低く言う。
「信用できねぇな。
預けるとか言いながら、黒屍人引き連れて乗り込んでくるジジイがどこにいる」
虚舟は武蔵を見ず、佐野だけを見る。
「疑うのは当然。
――だからこそ、佐野様。
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佐野は一瞬、黙した。
黒屍人のうなりが、城下全体をじくじくと満たしていく。
そして静かに言った。
「……よかろう。
だが一つでも虚言があれば、ここで首を落とす」
虚舟は、ひょろりと頭を下げた。
「承知いたしました」
青い杖が、もう一度、深く脈を落とす。
黒屍人が道を割り、まるで主君を通す家臣のように道を開けた。
虚舟はその開いた道を、ゆっくりと進み出す。
「では――佐野様。
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その目は決して老人から離れなかった。
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