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35 巫女の役割
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第十八話 巫女の役割
お菊は静かに息を整え、皆の視線を受け止めたまま口を開いた。
「……巫女の役割は、本来、神珠を封じることではございません」
その言葉に、座敷の空気がわずかに揺れる。
「本当の役目は――珠が持つ力を、最大限に引き出すこと。
それが、巫女に課せられた役割なのです」
沈黙。
誰もすぐに言葉へ飛びつけず、ほんの一拍置いてから忠壽が低く問う。
「……最大限に、引き出す?」
「はい」
お菊は頷き、ゆっくりと続けた。
「神珠はひとつひとつに、尋常ならざる力を宿しております。
そして、その力は“応える器”と出会ったとき、さらに深く――強く顕れるのです」
清十郎の胸の奥で、寅の鼓動が微かに脈を打った気がした。
お菊は言葉を選ぶように、一度視線を落とし、また上げる。
「……そして十二の珠が揃ったとき、
この世の理すら動かし得るほどの力が呼び覚まされる、と伝わっております」
場がざわついた。
鉄之介が眉をひそめ、半ば茶化すように鼻で笑う。
「この世の理を動かすって……さすがに大げさじゃねえか?」
お菊は首を振らない。
揺るぎのない目で鉄之介を見返した。
「いいえ。
権力の移り変わる時、国のかたちが変わる時、あるいは他国を呑み込むほどの勢いを得た時――
“そのために珠が用いられた”という言い伝えも、残っております」
鉄之介の口が閉じ、忠壽の眉間に深い皺が刻まれる。
清十郎が、低く息を吐いた。
「……それで、封印を」
「はい」
お菊は頷きながらも、どこか痛みを含んだ表情のまま言う。
「ただ、珠が揃うだけでは何の意味もありません。
その力を“開く者”が必要なのです」
金之助が小さく呟く。
「……それが、巫女様なんですね」
「そのとおりです」
お菊は自分の手を膝の上で重ね、ほんの少しだけ指先を強く握った。
「巫女の力は、善と悪――表と裏、どちらにも傾き得ます。
ゆえに、私たちの存在は、常に刃の上にあるのです」
清十郎の目が細くなる。
「つまり敵は、珠を揃え、巫女に力を引き出させようとしている」
「……そのように思います」
お菊はうなだれた。
その沈み方に、言葉にしきれぬ恐れが見えた。
鉄之介が腕を組み、吐き捨てるように言う。
「だが、奴らはまだ珠を揃えちゃいねえ。
巫女さんの出番は最後ってわけか」
「うむ、そうなる」
忠壽が重く頷く。
金之助が皆を見回しながら、静かに言った。
「珠を持つ俺たちが巫女様を守ってるのは……
あいつらにとって、誤算だったのかもしれませんね」
忠壽がそれを受けて、短く息を吐く。
「それで、さっきの騒ぎ…か」
「武蔵ってデカブツで一気に俺らの珠を奪い、巫女まで攫う。
あの屍人使いのじじいの腹は――おそらくそれだったのだろうな」
鉄之介が清十郎へ視線を投げ、乱暴に言う。
「ところが清十郎の登場で、一気に思惑が狂ったってわけだな」
清十郎はわずかに首を振った。
「私は、そんな大層なことをした覚えはない」
「謙遜すんなって」
鉄之介は裸の本音をそのまま転がす。
「ハッキリ言って、お前がこの中で一番強ぇ。 言いたかねえがな」
忠壽が横目で鉄之介を見た。
「鉄之介、やけに素直だな。
清十郎が気に入ったか?」
「うるせえ。
本当のこと言ったまでだ」
そのぶっきらぼうな返しに、金之助が少しだけ笑う。
清十郎は表情を崩さないまま、皆の言葉を噛み締めていた。
やがて、静かに頷く。
「……なるほど。だいたい分かった」
清十郎はお菊へ視線を戻す。
「封印する意味は、大いにある。
――珠も、巫女も、敵に渡してはならない」
忠壽が深く頷いた。
「そうだ。
我らは、そのためにここにいる」
短い言葉だが、座敷の芯が定まる。
清十郎は、その重さを受け止めたまま、まっすぐ背を伸ばした。
忠壽がゆっくりと清十郎の方へ身を向けた。
「さて……これからどう動くか,でございますな」
その声を合図に、金之助も膝を進める。
「まずは、敵がどこまで珠を集めているのか。
それと、奴らの狙いが――」
清十郎は静かに頷き、皆の話を受け止めようとした。
――そのときだった。
こめかみの奥を、鋭い針が滑り込むような痛みが走った。
「……ッ」
息が詰まり、視界が一瞬揺れる。
白い靄。
血の匂い。
誰かの笑い声――いや、笑い声の“ような”歪んだ響き。
座敷の景色が、薄い水面みたいにたわんで見えた。
その中心に、見覚えのない影が立っている。
黒く、細く、腕だけがやけに長い。
顔があるはずの場所は、何もない。
影が、こちらへ指を伸ばしてくる。
……来るな。
清十郎は思わず目を伏せ、歯を食いしばった。
どくん。
胸の奥、寅の珠の鼓動が強く跳ね、
靄も影も、ぱちりと消える。
残ったのは、鈍い痛みと、喉の奥の乾きだけ。
「清十郎……?」
金之助が、すぐに身を乗り出した。
声がいつもより低く、よくないものを見た顔だ。
「大丈夫ですか。
顔色が――」
鉄之介も身を起こす。
「おい、どうした。
さっきから変な汗かいてるぞ」
清十郎は一度、ゆっくり息を吐き、
痛みの余韻を掌で押し込むみたいに額を撫でた。
「……心配はいらぬ」
声は落ち着いていた。
だが、言葉の端に、まだ微かな揺れが残っている。
「ただ、少し頭が痛んだだけだ。
さっき珠を宿したばかりだろう。
身体が驚いているのだと思う」
お菊が顔を曇らせる。
「……幻のようなものは、見えませんでしたか?」
清十郎は一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに首を振った。
「幻と言うほどのものではない。
目の端が揺れたような……その程度だ」
忠壽が低く唸った。
「珠の力は強い。
器が適っておっても、馴染むまで拒みが出るのは珍しくない」
金之助が巾着の上から寅の鼓動をそっと押さえ、居心地の悪そうな顔で笑う。
「……俺も、最初はそうでした。
胸の奥が焼けるみたいになって、
夜に息が詰まることもあった」
鉄之介が目を丸くする。
「お前、そんなことあったのかよ」
「ありますよ。
口に出さなかっただけです」
金之助は肩をすくめ、いつもの調子に戻そうとする。
「珠は、力の強さで身体を押すことがある。
だから清十郎の反応も、変じゃないです。
俺も今だって……時々、拒まれてる感じがする」
清十郎はその言葉を聞き、
ちらりと金之助へ視線を向けた。
少年にしか見えぬ身体。
だが、その奥に沈むものは、ただの子どもの器ではない。
「……そうか」
短く言って、清十郎はゆっくりと背筋を伸ばした。
「ならば、なおさら急ぐべきなのだろうな。
珠が馴染むまでの間に、敵が動けば厄介だ」
忠壽が静かに頷く。
「うむ。
清十郎殿の身体のことは我らで気を配る。
だが、今は策だ」
鉄之介が座敷の空気を裂くように言う。
「まず敵の居場所だ。
連中がどこまで珠を持ってるか、探らねえと話にならねえ」
金之助も頷き、清十郎へ柔らかく笑いかけた。
「無理はさせません。
でも――一緒に考えましょう。
清十郎がいるなら、できることが増える」
清十郎は、まだ奥に残る鈍痛を無視するように、静かに頷いた。
「……ああ。
私も、力を貸そう」
座敷の空気が、再び前へ進み始めた。
清十郎の胸の奥で、寅の鼓動が微かに応えるように鳴っていた。
第十九話 加藤の葛藤
一時前、清十郎が武蔵と戦っていた頃――
館林城下の屋敷――表向きは静かだが、奥へ進むほど空気が重い。
藩主の居間。
冬の薄明かりが障子に滲み、炭の匂いが甘く漂っている。
床の間の前に、館林藩主 松平武寛が座していた。
年のわりに肌は白く、指は細い。
だが、その指先は今、盃の縁をせわしなく撫で続けている。
その脇、少し下がった位置に加藤が控えていた。
背は伸び、視線は落とし、呼吸まで整然としている。
刀の柄に触れてもいないのに、そこに「刃の気配」がある――そういう男だった。
「……なあ、加藤」
藩主が、声を潜めるように呼んだ。
「は」
「本当に、あの者らは話が終われば出ていくのだな。
佐野とやらは……城下に黒屍人があふれていると聞くが…」
加藤は一拍置いて答えた。
「家臣の報せによれば、すぐに屋敷を出ていくと…」
「そうか……そうか……」
藩主は、胸を撫で下ろすように大きく息を吐き、そのまま盃をあおった。
酒が喉を鳴らす音が、やけに大きい。
「まったく……物騒な世よ。
忍びだの、珠だの、黒屍人だの……
わしは、そんな化け物じみた話は好かん」
加藤は黙したまま、藩主の横顔を見ていた。
――好かん、ではない。
怖いのだ。
怖いから、認めたくないのだ。
加藤はその癖を、もう何度見ただろう。
藩主は杯を置き、今度は加藤の顔を覗き込むように言った。
「お前はどう思う。
なに、あの連中に力を貸すのか?
わしの屋敷で勝手な真似をされては困るぞ」
「殿の御心に従うまで」
加藤は即答した。
それは武士の言葉だ。
けれど、胸の底で何かがわずかに擦れた。
武寛が鼻で笑う。
「ふん。お前は堅いな。
だが……わしは嫌だぞ。
万が一にも、やつらが戻って来て、
この館林を戦場にでもしたらどうする」
加藤は目を伏せた。
館林を守る。
そのために自分はここにいる。
だが藩主 松平武寛が言う「守る」は、
民を守るでも、藩を守るでもなく――自分の身を守ることだけだ。
胸の中で、忠義の礎が小さく揺れた。
「加藤。お前は強い。
こういう時こそ、わしの側を離れるなよ」
武寛は笑った。
だがその笑いには、安心ではなく、縋りつく色が濃い。
「……承知いたしました」
言った瞬間、加藤は腹の奥で苦いものを噛んだ。
――“侍としては何があろうと主君に仕えるべき”。
幼い頃から叩き込まれた言葉だ。
それが揺れる瞬間など、あってはならない。
だが、揺れている。
武寛がまた酒を注がせ、ぽつりと漏らす。
「武士は気楽でいいな。
命さえ張っていれば、何も考えなくていい。
わしは、こういう危ない世に生まれたくなかったよ……」
加藤の拳が、膝の上でほんの少し固くなった。
“命を張る”のは誰のためだ。
この方のためか。
それとも、この館林のためか。
そこへ、襖の向こうから控えの者が申し出た。
「加藤様、少々お耳に」
武寛が嫌そうに手を振った。
「なんだ、今は話の最中だぞ」
加藤は一礼し、いったん廊下へ出た。
そこには虎之進が立っていた。
忍びらしい気配の薄さ、目の奥の落ち着き。
虎之進は声をほとんど出さずに言う。
「……佐野様より。
“加藤殿の働き、幕府筋も高く見ておられる”と」
加藤の眉がわずかに動く。
虎之進は続けた。
「“田沼様の目にも留まった。
館林に終生縛られる器ではない。
しかるべき席を用意したい”――
そう申されております」
胸に、冷たい風が吹き込む。
“召し抱え”。
つまり藩を越え、幕府筋へ。
佐野の背には老中 田沼意次。
その名の重さを、加藤は知らぬわけがない。
虎之進は、じっと加藤の目を見た。
「返事は急がなくてよい、とも。
だが、加藤殿が迷う理由が
この家にあるなら――
いずれ、決めねばならぬと」
加藤は黙って頷くしかなかった。
虎之進はすっと影のように引き、廊下の空気だけが残る。
……迷う理由は、ある。
加藤は襖へ戻る途中、
一瞬、足が止まった。
障子越しに聞こえる藩主の声。
「結局な……この世は力だ。
力があるところへ付くのが賢い。
わしは賢くありたいのだ」
加藤の胸が、またわずかに軋んだ。
――力があるところへ付くのが賢い。
それは藩主自身が、己の弱さを覆うために吐く言葉だ。
だが今、同じ言葉が
加藤の中でも別の意味を持ち始めている。
襖を開け、再び控えの位置へ戻る。
藩主は何事もなかったように笑いかけた。
「加藤。
さっきの話だがな――
あの忍びども、
都合が悪くなればまた逃げる。
結局、わしらとは違う者たちよ。
信じるに足らん」
加藤は静かに答えた。
「……軽々に信を置くべきではないかと」
藩主は満足げに頷く。
「そうだ。お前はわしの頼りだ。
わしのために働け。
それが武士の本懐というものだろう?」
加藤は――
いつも通り、頭を下げた。
「御意」
だが、その「御意」は、
今までより少しだけ重かった。
忠義はまだ折れてはいない。
けれど、どこかにひびが入った。
そのひびの向こう側で、虎之進の言葉と、田沼の名が静かに、現実味を帯びて響いていた。
館林の城下を抜けるころ、空は暮色に沈みかけていた。
街道沿いの杉木立が風を受け、葉擦れの音が夜気に混じる。
先を行く佐野の黒駿馬が、蹄で乾いた土を叩く。
その並び、半頭ぶん後ろに左門の馬がつき、手綱の音だけが淡く重なった。
馬の影が伸び、月明かりを裂いて進む。
その後ろに、人の列が縦に続く。
館林藩の家臣が数名。
足音は揃えているが、肩の力を抜いた歩き方ではない。
ときおり互いの距離を測るように、沈黙のまま目配せを交わす。
さらにその外側――木立の暗がりや道端の影に、伊賀衆が散っている。
列に混ざっているようで混ざっていない。
誰がどこにいるかは一見して掴めないのに、気配の網だけは一定の張りを保っていた。
列の中程、武蔵が歩く。
夜目にも黒い岩のような巨体。
失われたはずの右腕は、今そこにある。
布が巻かれ、縫い目のような黒い筋が肩口を走っているが――
腕そのものは重々しく揺れ、指がきちんと握りを作っている。
武蔵は無言で握り飯をちぎり、口へ放り込む。
噛むたび、喉が鳴るたび、
右腕の筋がわずかに脈を打ち、つなぎ目の布に新しい赤が滲んでは乾いていった。
隣をお蘭が、落ち着かない目で見上げている。
さっきから何度も武蔵の肩へ視線を滑らせ、確かめるように、そして怖がるように、息を飲む。
「……ほんとに、動いてる」
お蘭が小さく漏らした。
武蔵は返事をしない。
ただ、右腕を一度だけ持ち上げ、肘を曲げ、開き、指を握って……
何事もなかったかのように、また歩き出す。
そのさらに後ろ、列の影に溶けるように虎之進がいる。
あの広場で一瞬だけ息を呑んだ蒼い目は、いまは何も映さない。
冷たい水面のように、ただ前だけを見ていた。
近くを虚舟が歩く。
背は低いが衣の裾を乱さぬ足運びは妙に正確で、歩く速度すら隊の呼吸に合わせている。
その口の中だけで、言葉が何度も擦れる。
「……おかしい。
確かに術は入った。
あの反応は、間違いなく“かかった反応”じゃ」
怒りと困惑が、声の底でぶつかり合う。
虚舟の視線は、無意識に武蔵の右腕へ吸い寄せられていた。
佐野は前を向いたまま、歩みをわずかに落とした。
蹄の刻みがゆるむと、後ろの列も自然に速度を合わせる。
伊賀衆の気配が左右に滑り、間合いだけを寸分違わず保ち直す。
やがて街道脇に、朽ちかけた観音堂が現れた。
人影はなく、風だけが軒を撫でている。
佐野が馬を止める。
左門も並んで手綱を引いた。
人の列が止まり、武蔵が一歩踏みしめて静止すると、足元の小石が沈む音がした。
伊賀衆は散るように堂の周縁へ入り、木と闇の間に監視の網を張る。
佐野と左門が鞍から降りる。
高い目線が地へ戻っただけで、隊の空気がわずかに囲いの形を帯びた。
佐野は鞍袋から干し肉と握り飯の包みを取り出し、石段に置いた。
左門にも一つ渡す。
武蔵はそこへどさりと腰を下ろし、
右腕で包みを引き寄せ、左手で裂いて、黙々と食い始めた。
食うたび肩の縫い筋が持ち上がり、
“つながったもの”がまだ馴染みきらずにいる気配だけが、布の下で蠢く。
佐野は握り飯を割り、噛みながら言った。
「左門。
今の顛末を、もう一度、漏れなく言え」
「はっ」
左門は頷き、背後の全員が聞いていることを承知のうえで、淡々と語り直す。
「あの広場で狙ったのは、珠持ちの奪取と巫女の分断。
武蔵殿の圧で一気に崩す手筈でしたが、あの笠の旅人姿の侍の介入により、武蔵殿の攻勢は封じられ、さらに寅の珠がその男を選びました」
虚舟の肩が、そこで僅かに震えた。
怒りでも恐れでもない。
現実が噛み合わない者の震えだ。
左門は続ける。
「虚舟殿の術は、男を捕らえかけました。
確かに術そのものは入りました。
しかし決定的には染まりきらず――
跳ね返したとしか思えません」
佐野はゆっくり息を吐いた。
「……跳ね返す器か」
声は低い。
その冷たさが、堂の暗さと溶け合う。
佐野は視線を虚舟へ投げず、ただ言葉だけを置いた。
「虚舟。
“まだ可能性は残っている”と言ったな。
その根を言え」
虚舟は一拍遅れて顔を上げた。
混乱の色を残す目が、次第に細くなる。
「……外側は跳ね返した。
だが器の奥に“引っ掛かり”は残ったはずじゃ。
術に触れた痛み、違和感――
あれは必ず、後で芽になる」
虚舟の口元がじわりと緩む。
嫌な確信だけが芯に残った笑み。
佐野はその笑みを、観音堂の闇に沈めるように見据えた。
「ならば、その芽が育つ前提で次を組む」
佐野の指先が、土の上の小石を転がす。
転がった石は、闇の中で止まる位置を選ぶように静まった。
その止まり際に、佐野の盤の中心が定まる。
笠の男と、寅の珠。
そして、それを“折る段”だった。
佐野は馬上から、曇った空を一度見上げた。
風が枯れ草を撫で、列の足並みだけが淡々と続く。
「左門。神珠はまだ届かぬのか」
声は低いが、焦りは隠さない。
左門はすぐ脇を歩き、肩越しに振り向く。
「はい。すでに使いは走らせてございます。……郷から届くのも時間の問題かと」
佐野の目が細くなる。
「丑の珠――と聞いておるが」
「そのように伝えております」
左門は淡々と答えた。
だが、その声には確かな確信があった。
そのやり取りを聞き、武蔵が肩を鳴らして笑う。
切り落とされたはずの右腕は、すでに元の場所で鈍く動いている。
噛み裂くように肉を食い、酒をあおり、なお足取りは落ちていない。
「おい、殿よぉ」
武蔵が横目で佐野を見た。
「まだ珠遣い増やす気か? 今いる連中じゃ足りねえってか」
左門が口を挟む。
「黙れ、武蔵。お前たちがあの場で取り逃がしたからだ」
「なんだと?」
武蔵の目が吊り上がる。
「てめえに聞いてねえだろうが」
殺気が一瞬走った。
だが佐野は、馬上で指一本動かさない。
「よい」
佐野の声が落ちる。
「お前たちはよくやっておる。……だが、儂は完璧主義でな」
それだけで場が静まる。
佐野は、周囲の気配を踏みしめるように続けた。
「この駒が揃えば、一気に片がつくはずだ」
虎之進が歩みを少しだけ早め、佐野の側へ寄る。
「……そんなに強い者が、加わるのですか」
「ああ、虎之進」
佐野は口元だけで笑った。
「貴様にも引けを取らぬ剣客がな」
虎之進の眼が、わずかに揺れた。
喜びとも警戒ともつかない影が走る。
その後ろで、お蘭が肩をすくめてふうと息を吐く。
「世の中には、ほんとに強い剣客がごろごろいるんだねえ。怖い怖い」
「……あやつは特別だ」
佐野が言い切ると、列の空気がきゅっと締まった。
その一方で、少し離れたところを歩く虚舟だけは、まだ独り言をやめない。
口の端を引きつらせ、目だけが石みたいに冷たい。
「……確かに、術は入った」
かすれた声が風に溶ける。
「完璧に……はめたはずなのに。なぜ……なぜ斬った……」
誰に聞かせるでもなく、壊れた歯車みたいに同じ言葉を繰り返す。
佐野は振り返らない。
ただ馬の腹を軽く蹴り、前を見据えた。
「急げ。届けば、次は必ず仕留める」
列は再び、黙って進み出した。
お菊は静かに息を整え、皆の視線を受け止めたまま口を開いた。
「……巫女の役割は、本来、神珠を封じることではございません」
その言葉に、座敷の空気がわずかに揺れる。
「本当の役目は――珠が持つ力を、最大限に引き出すこと。
それが、巫女に課せられた役割なのです」
沈黙。
誰もすぐに言葉へ飛びつけず、ほんの一拍置いてから忠壽が低く問う。
「……最大限に、引き出す?」
「はい」
お菊は頷き、ゆっくりと続けた。
「神珠はひとつひとつに、尋常ならざる力を宿しております。
そして、その力は“応える器”と出会ったとき、さらに深く――強く顕れるのです」
清十郎の胸の奥で、寅の鼓動が微かに脈を打った気がした。
お菊は言葉を選ぶように、一度視線を落とし、また上げる。
「……そして十二の珠が揃ったとき、
この世の理すら動かし得るほどの力が呼び覚まされる、と伝わっております」
場がざわついた。
鉄之介が眉をひそめ、半ば茶化すように鼻で笑う。
「この世の理を動かすって……さすがに大げさじゃねえか?」
お菊は首を振らない。
揺るぎのない目で鉄之介を見返した。
「いいえ。
権力の移り変わる時、国のかたちが変わる時、あるいは他国を呑み込むほどの勢いを得た時――
“そのために珠が用いられた”という言い伝えも、残っております」
鉄之介の口が閉じ、忠壽の眉間に深い皺が刻まれる。
清十郎が、低く息を吐いた。
「……それで、封印を」
「はい」
お菊は頷きながらも、どこか痛みを含んだ表情のまま言う。
「ただ、珠が揃うだけでは何の意味もありません。
その力を“開く者”が必要なのです」
金之助が小さく呟く。
「……それが、巫女様なんですね」
「そのとおりです」
お菊は自分の手を膝の上で重ね、ほんの少しだけ指先を強く握った。
「巫女の力は、善と悪――表と裏、どちらにも傾き得ます。
ゆえに、私たちの存在は、常に刃の上にあるのです」
清十郎の目が細くなる。
「つまり敵は、珠を揃え、巫女に力を引き出させようとしている」
「……そのように思います」
お菊はうなだれた。
その沈み方に、言葉にしきれぬ恐れが見えた。
鉄之介が腕を組み、吐き捨てるように言う。
「だが、奴らはまだ珠を揃えちゃいねえ。
巫女さんの出番は最後ってわけか」
「うむ、そうなる」
忠壽が重く頷く。
金之助が皆を見回しながら、静かに言った。
「珠を持つ俺たちが巫女様を守ってるのは……
あいつらにとって、誤算だったのかもしれませんね」
忠壽がそれを受けて、短く息を吐く。
「それで、さっきの騒ぎ…か」
「武蔵ってデカブツで一気に俺らの珠を奪い、巫女まで攫う。
あの屍人使いのじじいの腹は――おそらくそれだったのだろうな」
鉄之介が清十郎へ視線を投げ、乱暴に言う。
「ところが清十郎の登場で、一気に思惑が狂ったってわけだな」
清十郎はわずかに首を振った。
「私は、そんな大層なことをした覚えはない」
「謙遜すんなって」
鉄之介は裸の本音をそのまま転がす。
「ハッキリ言って、お前がこの中で一番強ぇ。 言いたかねえがな」
忠壽が横目で鉄之介を見た。
「鉄之介、やけに素直だな。
清十郎が気に入ったか?」
「うるせえ。
本当のこと言ったまでだ」
そのぶっきらぼうな返しに、金之助が少しだけ笑う。
清十郎は表情を崩さないまま、皆の言葉を噛み締めていた。
やがて、静かに頷く。
「……なるほど。だいたい分かった」
清十郎はお菊へ視線を戻す。
「封印する意味は、大いにある。
――珠も、巫女も、敵に渡してはならない」
忠壽が深く頷いた。
「そうだ。
我らは、そのためにここにいる」
短い言葉だが、座敷の芯が定まる。
清十郎は、その重さを受け止めたまま、まっすぐ背を伸ばした。
忠壽がゆっくりと清十郎の方へ身を向けた。
「さて……これからどう動くか,でございますな」
その声を合図に、金之助も膝を進める。
「まずは、敵がどこまで珠を集めているのか。
それと、奴らの狙いが――」
清十郎は静かに頷き、皆の話を受け止めようとした。
――そのときだった。
こめかみの奥を、鋭い針が滑り込むような痛みが走った。
「……ッ」
息が詰まり、視界が一瞬揺れる。
白い靄。
血の匂い。
誰かの笑い声――いや、笑い声の“ような”歪んだ響き。
座敷の景色が、薄い水面みたいにたわんで見えた。
その中心に、見覚えのない影が立っている。
黒く、細く、腕だけがやけに長い。
顔があるはずの場所は、何もない。
影が、こちらへ指を伸ばしてくる。
……来るな。
清十郎は思わず目を伏せ、歯を食いしばった。
どくん。
胸の奥、寅の珠の鼓動が強く跳ね、
靄も影も、ぱちりと消える。
残ったのは、鈍い痛みと、喉の奥の乾きだけ。
「清十郎……?」
金之助が、すぐに身を乗り出した。
声がいつもより低く、よくないものを見た顔だ。
「大丈夫ですか。
顔色が――」
鉄之介も身を起こす。
「おい、どうした。
さっきから変な汗かいてるぞ」
清十郎は一度、ゆっくり息を吐き、
痛みの余韻を掌で押し込むみたいに額を撫でた。
「……心配はいらぬ」
声は落ち着いていた。
だが、言葉の端に、まだ微かな揺れが残っている。
「ただ、少し頭が痛んだだけだ。
さっき珠を宿したばかりだろう。
身体が驚いているのだと思う」
お菊が顔を曇らせる。
「……幻のようなものは、見えませんでしたか?」
清十郎は一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに首を振った。
「幻と言うほどのものではない。
目の端が揺れたような……その程度だ」
忠壽が低く唸った。
「珠の力は強い。
器が適っておっても、馴染むまで拒みが出るのは珍しくない」
金之助が巾着の上から寅の鼓動をそっと押さえ、居心地の悪そうな顔で笑う。
「……俺も、最初はそうでした。
胸の奥が焼けるみたいになって、
夜に息が詰まることもあった」
鉄之介が目を丸くする。
「お前、そんなことあったのかよ」
「ありますよ。
口に出さなかっただけです」
金之助は肩をすくめ、いつもの調子に戻そうとする。
「珠は、力の強さで身体を押すことがある。
だから清十郎の反応も、変じゃないです。
俺も今だって……時々、拒まれてる感じがする」
清十郎はその言葉を聞き、
ちらりと金之助へ視線を向けた。
少年にしか見えぬ身体。
だが、その奥に沈むものは、ただの子どもの器ではない。
「……そうか」
短く言って、清十郎はゆっくりと背筋を伸ばした。
「ならば、なおさら急ぐべきなのだろうな。
珠が馴染むまでの間に、敵が動けば厄介だ」
忠壽が静かに頷く。
「うむ。
清十郎殿の身体のことは我らで気を配る。
だが、今は策だ」
鉄之介が座敷の空気を裂くように言う。
「まず敵の居場所だ。
連中がどこまで珠を持ってるか、探らねえと話にならねえ」
金之助も頷き、清十郎へ柔らかく笑いかけた。
「無理はさせません。
でも――一緒に考えましょう。
清十郎がいるなら、できることが増える」
清十郎は、まだ奥に残る鈍痛を無視するように、静かに頷いた。
「……ああ。
私も、力を貸そう」
座敷の空気が、再び前へ進み始めた。
清十郎の胸の奥で、寅の鼓動が微かに応えるように鳴っていた。
第十九話 加藤の葛藤
一時前、清十郎が武蔵と戦っていた頃――
館林城下の屋敷――表向きは静かだが、奥へ進むほど空気が重い。
藩主の居間。
冬の薄明かりが障子に滲み、炭の匂いが甘く漂っている。
床の間の前に、館林藩主 松平武寛が座していた。
年のわりに肌は白く、指は細い。
だが、その指先は今、盃の縁をせわしなく撫で続けている。
その脇、少し下がった位置に加藤が控えていた。
背は伸び、視線は落とし、呼吸まで整然としている。
刀の柄に触れてもいないのに、そこに「刃の気配」がある――そういう男だった。
「……なあ、加藤」
藩主が、声を潜めるように呼んだ。
「は」
「本当に、あの者らは話が終われば出ていくのだな。
佐野とやらは……城下に黒屍人があふれていると聞くが…」
加藤は一拍置いて答えた。
「家臣の報せによれば、すぐに屋敷を出ていくと…」
「そうか……そうか……」
藩主は、胸を撫で下ろすように大きく息を吐き、そのまま盃をあおった。
酒が喉を鳴らす音が、やけに大きい。
「まったく……物騒な世よ。
忍びだの、珠だの、黒屍人だの……
わしは、そんな化け物じみた話は好かん」
加藤は黙したまま、藩主の横顔を見ていた。
――好かん、ではない。
怖いのだ。
怖いから、認めたくないのだ。
加藤はその癖を、もう何度見ただろう。
藩主は杯を置き、今度は加藤の顔を覗き込むように言った。
「お前はどう思う。
なに、あの連中に力を貸すのか?
わしの屋敷で勝手な真似をされては困るぞ」
「殿の御心に従うまで」
加藤は即答した。
それは武士の言葉だ。
けれど、胸の底で何かがわずかに擦れた。
武寛が鼻で笑う。
「ふん。お前は堅いな。
だが……わしは嫌だぞ。
万が一にも、やつらが戻って来て、
この館林を戦場にでもしたらどうする」
加藤は目を伏せた。
館林を守る。
そのために自分はここにいる。
だが藩主 松平武寛が言う「守る」は、
民を守るでも、藩を守るでもなく――自分の身を守ることだけだ。
胸の中で、忠義の礎が小さく揺れた。
「加藤。お前は強い。
こういう時こそ、わしの側を離れるなよ」
武寛は笑った。
だがその笑いには、安心ではなく、縋りつく色が濃い。
「……承知いたしました」
言った瞬間、加藤は腹の奥で苦いものを噛んだ。
――“侍としては何があろうと主君に仕えるべき”。
幼い頃から叩き込まれた言葉だ。
それが揺れる瞬間など、あってはならない。
だが、揺れている。
武寛がまた酒を注がせ、ぽつりと漏らす。
「武士は気楽でいいな。
命さえ張っていれば、何も考えなくていい。
わしは、こういう危ない世に生まれたくなかったよ……」
加藤の拳が、膝の上でほんの少し固くなった。
“命を張る”のは誰のためだ。
この方のためか。
それとも、この館林のためか。
そこへ、襖の向こうから控えの者が申し出た。
「加藤様、少々お耳に」
武寛が嫌そうに手を振った。
「なんだ、今は話の最中だぞ」
加藤は一礼し、いったん廊下へ出た。
そこには虎之進が立っていた。
忍びらしい気配の薄さ、目の奥の落ち着き。
虎之進は声をほとんど出さずに言う。
「……佐野様より。
“加藤殿の働き、幕府筋も高く見ておられる”と」
加藤の眉がわずかに動く。
虎之進は続けた。
「“田沼様の目にも留まった。
館林に終生縛られる器ではない。
しかるべき席を用意したい”――
そう申されております」
胸に、冷たい風が吹き込む。
“召し抱え”。
つまり藩を越え、幕府筋へ。
佐野の背には老中 田沼意次。
その名の重さを、加藤は知らぬわけがない。
虎之進は、じっと加藤の目を見た。
「返事は急がなくてよい、とも。
だが、加藤殿が迷う理由が
この家にあるなら――
いずれ、決めねばならぬと」
加藤は黙って頷くしかなかった。
虎之進はすっと影のように引き、廊下の空気だけが残る。
……迷う理由は、ある。
加藤は襖へ戻る途中、
一瞬、足が止まった。
障子越しに聞こえる藩主の声。
「結局な……この世は力だ。
力があるところへ付くのが賢い。
わしは賢くありたいのだ」
加藤の胸が、またわずかに軋んだ。
――力があるところへ付くのが賢い。
それは藩主自身が、己の弱さを覆うために吐く言葉だ。
だが今、同じ言葉が
加藤の中でも別の意味を持ち始めている。
襖を開け、再び控えの位置へ戻る。
藩主は何事もなかったように笑いかけた。
「加藤。
さっきの話だがな――
あの忍びども、
都合が悪くなればまた逃げる。
結局、わしらとは違う者たちよ。
信じるに足らん」
加藤は静かに答えた。
「……軽々に信を置くべきではないかと」
藩主は満足げに頷く。
「そうだ。お前はわしの頼りだ。
わしのために働け。
それが武士の本懐というものだろう?」
加藤は――
いつも通り、頭を下げた。
「御意」
だが、その「御意」は、
今までより少しだけ重かった。
忠義はまだ折れてはいない。
けれど、どこかにひびが入った。
そのひびの向こう側で、虎之進の言葉と、田沼の名が静かに、現実味を帯びて響いていた。
館林の城下を抜けるころ、空は暮色に沈みかけていた。
街道沿いの杉木立が風を受け、葉擦れの音が夜気に混じる。
先を行く佐野の黒駿馬が、蹄で乾いた土を叩く。
その並び、半頭ぶん後ろに左門の馬がつき、手綱の音だけが淡く重なった。
馬の影が伸び、月明かりを裂いて進む。
その後ろに、人の列が縦に続く。
館林藩の家臣が数名。
足音は揃えているが、肩の力を抜いた歩き方ではない。
ときおり互いの距離を測るように、沈黙のまま目配せを交わす。
さらにその外側――木立の暗がりや道端の影に、伊賀衆が散っている。
列に混ざっているようで混ざっていない。
誰がどこにいるかは一見して掴めないのに、気配の網だけは一定の張りを保っていた。
列の中程、武蔵が歩く。
夜目にも黒い岩のような巨体。
失われたはずの右腕は、今そこにある。
布が巻かれ、縫い目のような黒い筋が肩口を走っているが――
腕そのものは重々しく揺れ、指がきちんと握りを作っている。
武蔵は無言で握り飯をちぎり、口へ放り込む。
噛むたび、喉が鳴るたび、
右腕の筋がわずかに脈を打ち、つなぎ目の布に新しい赤が滲んでは乾いていった。
隣をお蘭が、落ち着かない目で見上げている。
さっきから何度も武蔵の肩へ視線を滑らせ、確かめるように、そして怖がるように、息を飲む。
「……ほんとに、動いてる」
お蘭が小さく漏らした。
武蔵は返事をしない。
ただ、右腕を一度だけ持ち上げ、肘を曲げ、開き、指を握って……
何事もなかったかのように、また歩き出す。
そのさらに後ろ、列の影に溶けるように虎之進がいる。
あの広場で一瞬だけ息を呑んだ蒼い目は、いまは何も映さない。
冷たい水面のように、ただ前だけを見ていた。
近くを虚舟が歩く。
背は低いが衣の裾を乱さぬ足運びは妙に正確で、歩く速度すら隊の呼吸に合わせている。
その口の中だけで、言葉が何度も擦れる。
「……おかしい。
確かに術は入った。
あの反応は、間違いなく“かかった反応”じゃ」
怒りと困惑が、声の底でぶつかり合う。
虚舟の視線は、無意識に武蔵の右腕へ吸い寄せられていた。
佐野は前を向いたまま、歩みをわずかに落とした。
蹄の刻みがゆるむと、後ろの列も自然に速度を合わせる。
伊賀衆の気配が左右に滑り、間合いだけを寸分違わず保ち直す。
やがて街道脇に、朽ちかけた観音堂が現れた。
人影はなく、風だけが軒を撫でている。
佐野が馬を止める。
左門も並んで手綱を引いた。
人の列が止まり、武蔵が一歩踏みしめて静止すると、足元の小石が沈む音がした。
伊賀衆は散るように堂の周縁へ入り、木と闇の間に監視の網を張る。
佐野と左門が鞍から降りる。
高い目線が地へ戻っただけで、隊の空気がわずかに囲いの形を帯びた。
佐野は鞍袋から干し肉と握り飯の包みを取り出し、石段に置いた。
左門にも一つ渡す。
武蔵はそこへどさりと腰を下ろし、
右腕で包みを引き寄せ、左手で裂いて、黙々と食い始めた。
食うたび肩の縫い筋が持ち上がり、
“つながったもの”がまだ馴染みきらずにいる気配だけが、布の下で蠢く。
佐野は握り飯を割り、噛みながら言った。
「左門。
今の顛末を、もう一度、漏れなく言え」
「はっ」
左門は頷き、背後の全員が聞いていることを承知のうえで、淡々と語り直す。
「あの広場で狙ったのは、珠持ちの奪取と巫女の分断。
武蔵殿の圧で一気に崩す手筈でしたが、あの笠の旅人姿の侍の介入により、武蔵殿の攻勢は封じられ、さらに寅の珠がその男を選びました」
虚舟の肩が、そこで僅かに震えた。
怒りでも恐れでもない。
現実が噛み合わない者の震えだ。
左門は続ける。
「虚舟殿の術は、男を捕らえかけました。
確かに術そのものは入りました。
しかし決定的には染まりきらず――
跳ね返したとしか思えません」
佐野はゆっくり息を吐いた。
「……跳ね返す器か」
声は低い。
その冷たさが、堂の暗さと溶け合う。
佐野は視線を虚舟へ投げず、ただ言葉だけを置いた。
「虚舟。
“まだ可能性は残っている”と言ったな。
その根を言え」
虚舟は一拍遅れて顔を上げた。
混乱の色を残す目が、次第に細くなる。
「……外側は跳ね返した。
だが器の奥に“引っ掛かり”は残ったはずじゃ。
術に触れた痛み、違和感――
あれは必ず、後で芽になる」
虚舟の口元がじわりと緩む。
嫌な確信だけが芯に残った笑み。
佐野はその笑みを、観音堂の闇に沈めるように見据えた。
「ならば、その芽が育つ前提で次を組む」
佐野の指先が、土の上の小石を転がす。
転がった石は、闇の中で止まる位置を選ぶように静まった。
その止まり際に、佐野の盤の中心が定まる。
笠の男と、寅の珠。
そして、それを“折る段”だった。
佐野は馬上から、曇った空を一度見上げた。
風が枯れ草を撫で、列の足並みだけが淡々と続く。
「左門。神珠はまだ届かぬのか」
声は低いが、焦りは隠さない。
左門はすぐ脇を歩き、肩越しに振り向く。
「はい。すでに使いは走らせてございます。……郷から届くのも時間の問題かと」
佐野の目が細くなる。
「丑の珠――と聞いておるが」
「そのように伝えております」
左門は淡々と答えた。
だが、その声には確かな確信があった。
そのやり取りを聞き、武蔵が肩を鳴らして笑う。
切り落とされたはずの右腕は、すでに元の場所で鈍く動いている。
噛み裂くように肉を食い、酒をあおり、なお足取りは落ちていない。
「おい、殿よぉ」
武蔵が横目で佐野を見た。
「まだ珠遣い増やす気か? 今いる連中じゃ足りねえってか」
左門が口を挟む。
「黙れ、武蔵。お前たちがあの場で取り逃がしたからだ」
「なんだと?」
武蔵の目が吊り上がる。
「てめえに聞いてねえだろうが」
殺気が一瞬走った。
だが佐野は、馬上で指一本動かさない。
「よい」
佐野の声が落ちる。
「お前たちはよくやっておる。……だが、儂は完璧主義でな」
それだけで場が静まる。
佐野は、周囲の気配を踏みしめるように続けた。
「この駒が揃えば、一気に片がつくはずだ」
虎之進が歩みを少しだけ早め、佐野の側へ寄る。
「……そんなに強い者が、加わるのですか」
「ああ、虎之進」
佐野は口元だけで笑った。
「貴様にも引けを取らぬ剣客がな」
虎之進の眼が、わずかに揺れた。
喜びとも警戒ともつかない影が走る。
その後ろで、お蘭が肩をすくめてふうと息を吐く。
「世の中には、ほんとに強い剣客がごろごろいるんだねえ。怖い怖い」
「……あやつは特別だ」
佐野が言い切ると、列の空気がきゅっと締まった。
その一方で、少し離れたところを歩く虚舟だけは、まだ独り言をやめない。
口の端を引きつらせ、目だけが石みたいに冷たい。
「……確かに、術は入った」
かすれた声が風に溶ける。
「完璧に……はめたはずなのに。なぜ……なぜ斬った……」
誰に聞かせるでもなく、壊れた歯車みたいに同じ言葉を繰り返す。
佐野は振り返らない。
ただ馬の腹を軽く蹴り、前を見据えた。
「急げ。届けば、次は必ず仕留める」
列は再び、黙って進み出した。
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