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プロローグ 死神の観測
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薄暗い病室の窓辺に、静かな音が重なった。
酸素濃縮器の機械音、点滴の滴る間隔、外の遠くの雨の匂い。
ベッドの上には、若い女が一人。
痩せ細り、肌は蝋のように色を失っている。だが、その目だけは、まだわずかに濡れていた。
見開かれたまま、空白の天井を見つめている。
病室の扉が、静かに開いた。
だが、誰もいない。気配も風もない。ただ、影が一つ、空間に染み出すように立った。
九重烏牙(ここのえ うが)は、黒の喪服のような装いで病室に現れた。
右手には懐中時計。左手は白手袋のまま、慎重に何かを避けるように空気をかき分けている。
本来、死神はこの世の物に「触れてはならない」。
その干渉は、予定された運命にさえ微細な乱れを生じさせる可能性があるからだ。
それが、この世界における厳格な掟であり、最も重大な禁忌のひとつとされている。
──だが、烏牙はそれを守れない。
彼の視線がまず留まったのは、部屋の隅に置かれた小さな木製の置時計だった。
「……十度、傾いている」
呟くようにして、そっと時計を両手で持ち上げた。
その瞬間、わずかに空気が震え、彼の中で“禁忌違反”を示す感覚が疼く。
だが彼は、ためらわず針の角度と位置を整える。
──本当は、こんなことをしてはいけないのだ。
「現在との誤差:三分十四秒」
つぶやきながら、時計を棚の所定位置へと正しく戻す。
その脇にあった、傾いたカスミソウの一輪挿し。
花瓶が僅かに斜めに傾いている。
烏牙は一拍の間、目を伏せる。
──見なかったことにすればいい。それが正しい。
……だが、できない。
「……ずれている」
己を諫めるように心中でつぶやいたにもかかわらず、指先は静かに花と器に伸び、角度を調整してしまっていた。
続けて、ティッシュ箱。
そのどれもが、ほんの僅かに“ズレて”いた。
烏牙はそれら一つ一つを見逃さず、無言で正してゆく。
本来、干渉してはならない。
それでも、彼は止まらない。
強迫的に、無意識に、あるいは意識的にすら──すべての“歪み”を正そうとする。
「……儀式ではない。確認だ。計測のための前提条件を整えただけ」
言い訳のように、心の中で呟く。
「すべて、整いました。観測開始」
静かに宣言してから、彼はベッドの女に目を向けた。
女は、ゆっくりと目を動かして、男の顔を見つめる。
かすれた声が、わずかに浮かぶように漏れる。
「……ん……また来たの、ね……。今日で……何回目……?」
「正確には……七回目です。先の四回は、判定時刻の微調整で中止されました」
「……そう……それ、あんたが決めるの……?」
「私は“観測者”であり“実行者”です。判断は上位の裁定官により成されます。
私は記録と執行の責任を担うのみです」
彼はカルテに目を走らせる。患者名、年齢、病状、残留魂波数、死亡予定時刻。
すべての情報が、すでに“終わり”を示していた。
「……数値上は、もう持ちません。脳波の低下率、感覚機能の劣化値……ほぼ零に近い」
女は、わずかに視線をずらして言った。
「……ねえ……ふしぎ……」
「……あんたの……顔、見てると……なんかね……ちょっとだけ……元気になるの……」
「だから……きっとこうして……まだ……話せてるんだろうな……って……」
烏牙はほんの一瞬、視線を揺らした。
だが次の瞬間には、淡々と応じる。
「それは、あなたが声を発しているわけではありません。
現在、発声機能はすでにほぼ停止しています」
「……え……?」
「今、あなたが感じている“会話”は──あなたの魂波が、私の意識領域に直接干渉し、
思考として“翻訳”されているだけです。
つまり、これは物理的な言語ではなく、魂の“共鳴現象”です」
「……そっか……それ……なんか、夢みたいだね……」
「死にゆく魂によく見られる現象です」
女は、くすりと笑った。
「……でもね……それでも……うれしいの……。
嘘や希望より……あんたの言葉のほうが……ずっと楽だから……」
沈黙が落ちる。
男は懐中時計を再び開き、秒針の遅れを確認した。
「……準備は、よろしいですか?」
「……うん……でも……最後に、ひとつだけ……いい……?」
「どうぞ」
「……死神って……生きてた頃……誰かを……大事に思ったこと……ある……?」
思いがけない問いに、烏牙の指が止まる。
記憶の底に、冷たい風が吹き込んだ。
揺れる校庭。声にならなかった叫び。雪。指導要綱。
震える子どもたちの背中と、決して届かなかった祈り──
「……思ったことは、あります」
「……そっか……きっと、その人……しあわせだったね……」
女の胸が、最後にひとつだけ上下した。
長い、長い吐息が、空へ溶けていく。
やがてその呼吸が止まり──時計の針も、同時に止まった。
烏牙は手帳に「完了」の印を記し、深く一礼する。
「貴女の死は、正しく観測され、記録されました。お疲れさまでした──」
彼は影の中に静かに溶けていった。
だがその胸の奥に、わずかに灯った熱だけは、しばらく消えなかった。
酸素濃縮器の機械音、点滴の滴る間隔、外の遠くの雨の匂い。
ベッドの上には、若い女が一人。
痩せ細り、肌は蝋のように色を失っている。だが、その目だけは、まだわずかに濡れていた。
見開かれたまま、空白の天井を見つめている。
病室の扉が、静かに開いた。
だが、誰もいない。気配も風もない。ただ、影が一つ、空間に染み出すように立った。
九重烏牙(ここのえ うが)は、黒の喪服のような装いで病室に現れた。
右手には懐中時計。左手は白手袋のまま、慎重に何かを避けるように空気をかき分けている。
本来、死神はこの世の物に「触れてはならない」。
その干渉は、予定された運命にさえ微細な乱れを生じさせる可能性があるからだ。
それが、この世界における厳格な掟であり、最も重大な禁忌のひとつとされている。
──だが、烏牙はそれを守れない。
彼の視線がまず留まったのは、部屋の隅に置かれた小さな木製の置時計だった。
「……十度、傾いている」
呟くようにして、そっと時計を両手で持ち上げた。
その瞬間、わずかに空気が震え、彼の中で“禁忌違反”を示す感覚が疼く。
だが彼は、ためらわず針の角度と位置を整える。
──本当は、こんなことをしてはいけないのだ。
「現在との誤差:三分十四秒」
つぶやきながら、時計を棚の所定位置へと正しく戻す。
その脇にあった、傾いたカスミソウの一輪挿し。
花瓶が僅かに斜めに傾いている。
烏牙は一拍の間、目を伏せる。
──見なかったことにすればいい。それが正しい。
……だが、できない。
「……ずれている」
己を諫めるように心中でつぶやいたにもかかわらず、指先は静かに花と器に伸び、角度を調整してしまっていた。
続けて、ティッシュ箱。
そのどれもが、ほんの僅かに“ズレて”いた。
烏牙はそれら一つ一つを見逃さず、無言で正してゆく。
本来、干渉してはならない。
それでも、彼は止まらない。
強迫的に、無意識に、あるいは意識的にすら──すべての“歪み”を正そうとする。
「……儀式ではない。確認だ。計測のための前提条件を整えただけ」
言い訳のように、心の中で呟く。
「すべて、整いました。観測開始」
静かに宣言してから、彼はベッドの女に目を向けた。
女は、ゆっくりと目を動かして、男の顔を見つめる。
かすれた声が、わずかに浮かぶように漏れる。
「……ん……また来たの、ね……。今日で……何回目……?」
「正確には……七回目です。先の四回は、判定時刻の微調整で中止されました」
「……そう……それ、あんたが決めるの……?」
「私は“観測者”であり“実行者”です。判断は上位の裁定官により成されます。
私は記録と執行の責任を担うのみです」
彼はカルテに目を走らせる。患者名、年齢、病状、残留魂波数、死亡予定時刻。
すべての情報が、すでに“終わり”を示していた。
「……数値上は、もう持ちません。脳波の低下率、感覚機能の劣化値……ほぼ零に近い」
女は、わずかに視線をずらして言った。
「……ねえ……ふしぎ……」
「……あんたの……顔、見てると……なんかね……ちょっとだけ……元気になるの……」
「だから……きっとこうして……まだ……話せてるんだろうな……って……」
烏牙はほんの一瞬、視線を揺らした。
だが次の瞬間には、淡々と応じる。
「それは、あなたが声を発しているわけではありません。
現在、発声機能はすでにほぼ停止しています」
「……え……?」
「今、あなたが感じている“会話”は──あなたの魂波が、私の意識領域に直接干渉し、
思考として“翻訳”されているだけです。
つまり、これは物理的な言語ではなく、魂の“共鳴現象”です」
「……そっか……それ……なんか、夢みたいだね……」
「死にゆく魂によく見られる現象です」
女は、くすりと笑った。
「……でもね……それでも……うれしいの……。
嘘や希望より……あんたの言葉のほうが……ずっと楽だから……」
沈黙が落ちる。
男は懐中時計を再び開き、秒針の遅れを確認した。
「……準備は、よろしいですか?」
「……うん……でも……最後に、ひとつだけ……いい……?」
「どうぞ」
「……死神って……生きてた頃……誰かを……大事に思ったこと……ある……?」
思いがけない問いに、烏牙の指が止まる。
記憶の底に、冷たい風が吹き込んだ。
揺れる校庭。声にならなかった叫び。雪。指導要綱。
震える子どもたちの背中と、決して届かなかった祈り──
「……思ったことは、あります」
「……そっか……きっと、その人……しあわせだったね……」
女の胸が、最後にひとつだけ上下した。
長い、長い吐息が、空へ溶けていく。
やがてその呼吸が止まり──時計の針も、同時に止まった。
烏牙は手帳に「完了」の印を記し、深く一礼する。
「貴女の死は、正しく観測され、記録されました。お疲れさまでした──」
彼は影の中に静かに溶けていった。
だがその胸の奥に、わずかに灯った熱だけは、しばらく消えなかった。
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