死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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第三章 逸脱

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死神・九重烏牙は、夜の空に微かに漂う命の匂いを辿って、静かに降り立った。
黒い外套が風に揺れ、無音のまま廃ビルの屋上へと舞い降りる。その足元には、都市の喧騒が遙か遠くに沈んでいた。

「対象:安曇遥。死因:絞殺。加害者:如月碧人。発生予定、二十三時十七分。」
彼は懐中時計を開き、秒針のリズムに合わせてまぶたを細めた。
この夜の死は、単純な事故や病ではない。明確な殺意によってもたらされる死だ。死神としても、責任重大である。現世の軌道修正が極めて困難なタイプの死だ。
「逸脱は許されない。……前回のような失敗は、絶対に……」
烏牙は、手帳を強く握りしめた。

彼の視線がふと、下の路地の角にある歩道の端を捉えた。
歪んでいた。
工事用の仮設バリケードが、片足だけ浮き上がっており、パイロンが斜めに倒れかかっている。しかもそれに、錆びた標識が斜めにくっついている。
それだけなら、普通の人間は見逃すだろう。
だが、烏牙の目は釘付けだった。
「……歪んでいる……」
呟きは、風にさらわれた。
「……いや、見なかったことにしよう。今は業務中だ。干渉は厳禁。触れてはならない」
彼は目を閉じて首を振った。何度も何度も、振った。
(触れてはならぬ。私は“死”を観測する者。……清掃員ではない……)
しかし次の瞬間には、既にポケットから死神用の水平器とミニ工具セットを取り出していた。
「……一分以内なら……微調整だけなら……倒壊の予防という解釈も……」
自分に言い訳しながら、彼はバリケードへと忍び寄った。
しゃがみ込んだ彼は、スパナを器用に回し、ボルトを締め直す。水平器の気泡を覗き込みながら、支柱の角度を0.5度ずつ調整。
「これで……美しい……」
満足そうに、次は標識へと手を伸ばした。
カチリ。
わずかに傾いていた標識を真っすぐに直す。
「……あと、落ち葉が3枚……この配置も不自然だ。バランスが悪い」
彼はすっと手を伸ばし、舗道の上の葉を端に寄せ、ついでにパイロンの距離も計り直した。
「……うむ。これで安全性も景観も整った。実に理想的……」

まさにその瞬間、彼の手にもっていたスパナが滑り落ちる。
スパナは道路に転がり、走ってきた黒いセダンのタイヤに弾かれる。
スパナは車体下ドライブシャフト付近に入り込み、異様な音と共に進路が逸れていく。
「ブレーキッ!? うわあああっ!」
という叫びとともに、タイヤの軋む音が鳴り響いた。
──ドンッ!
不自然な進路を取った黒いセダンが、路地の角からちょうど出てきた男の影に衝突した。
男は宙を舞い、ゆっくりと地面に叩きつけられる。
「……っ」
烏牙は振り返り、そして青ざめた。懐中時計を見る。予定時刻までは、あと9分。
彼の目に映ったのは、倒れた如月碧人と、駆け寄る安曇遥の姿。
「……いや……まさか……」
烏牙は震える指で、死神手帳を開いた。
『死の発生:保留』 『死因:逸脱。予定:絞殺 → 実際:未定』 『成就率:0%』
「……わたしは……バリケードを……整えただけだ……」
一度停車した黒いセダンの運転手は降りてくることなく、その場を走り去っていった。
「逃げ…た」
セダンの赤いテールライトを見送ると、彼は膝から崩れ落ちた。
背後では、直された標識が誇らしげにまっすぐ立っていた。
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