死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

文字の大きさ
5 / 30

第四章 救った手の温度

しおりを挟む
──ドンッ!
乾いた衝撃音が夜の静寂を破った直後、遥の心臓は跳ねるように脈打った。
振り返ると、裏通りの先に人影が倒れていた。
(何……今の音……誰かが……?)
酔いはすでに吹き飛んでいた。呼吸が浅くなる中、躊躇いながらも彼女は足を踏み出した。
暗がりの中、街灯の淡い光に照らされたその姿──男が一人、まるで人形のように静かに倒れていた。

「ちょっと……! 大丈夫ですか!? 聞こえますか?」
しゃがみ込み、震える手で肩を揺らす。返事はない。
血は流れていなかったが、どこかを強く打ったのかもしれない。意識が戻る気配はなかった。
彼女はすぐにスマホを取り出し、119番を押す。震える指先が通話ボタンを叩いた。
「もしもし……事故です! 男の人が倒れてて……場所は、○○区△△、裏通りの──」
説明しながらも、彼女の視線は彼の顔に吸い寄せられていた。
(どこかで……見たことがある気がする……)
ただ、その目元は柔らかく、まるで寝ているようにも見える。不気味さはなかった。不安よりも、別の感情が胸を押し始めていた。
(違う……この人、ストーカーじゃない……よね……?)
その時だった。男の指が、わずかに動いた。
「……だれ……?」
かすかな声が漏れた。
遥は言葉を失いながらも、その手を握り返した。
「大丈夫……救急車、すぐ来るから……私がついてるから……」
救いを求めるように彼の手を握ったその瞬間、不思議な温かさが伝わってきた。冷たさも、震えもない。ただ、ぬくもりがそこにあった。
やがて遠くからサイレンの音が近づいてくる。
彼女は一度だけ、空を見上げた。どこかで誰かが見ているような気がしてならなかった。
(……どうか、この人が無事でありますように)
心のどこかで、そう祈っていた。


病院の廊下は、どこか湿った匂いがしていた。
安曇遥は、自動ドアを抜けた瞬間から心拍が速くなるのを感じていた。事故の通報者として、病院から連絡が来たのは一昨日のこと。倒れていた青年──如月碧人が目を覚ましたという。
しかも、彼が遥に礼を言いたがっているという。
(ほんとに、あの人……?)
あの夜、ほんの一瞬目が合った。どこかで見たような──いや、もしかしたら……。
そんな曖昧な記憶の輪郭が、今日の再会で塗り替えられるのかもしれない。
病室のドアをノックすると、控えめな「どうぞ」が返ってきた。
扉を開けた先、病衣姿の青年がベッドに座っていた。細身の体。形の整った顔立ち。黒髪が少しだけ無造作に乱れていて、それがどこか少年のような印象を与えた。

「安曇さん、ですよね?」
柔らかく微笑んだその表情に、遥は一瞬、返す言葉を失った。
「……はい。あの夜、偶然通りかかって……」
「ありがとうございます。助けてくださって。本当に……命の恩人です」
彼はベッドから軽く頭を下げた。
「意識が戻ったとき、不思議な感覚があったんです。誰かが手を握ってくれてたような……たぶん、それがあなたですよね?」
遥は無言でうなずいた。思い出す。あの夜、自分は確かにこの男の手を握っていた。
だが、目の前の彼からは、あの時感じた“どこかで見たような不気味さ”がまるで感じられなかった。
「僕、何も思い出せないんです。名前は、病院の人が教えてくれましたけど、自分のこと、家族のこと……何ひとつ」
「記憶喪失……?」
彼は困ったように笑った。
「そうみたいです。変ですよね。名前も知らない誰かの前で、こんなに緊張するなんて」
遥は小さく笑って、首を振った。
「私のほうこそ、少し混乱してて。あなたを見た時、どこかで会った気がしたんです。でも……気のせいだったのかも」
ほんの一瞬、彼の目が細められた。その奥に、何かが潜んでいる気がした。
けれど、それはすぐに穏やかな光に戻った。
「よかったら、またお話しに来てくれませんか? なんだか……あなたと話してると、落ち着くんです」
その言葉に、遥は心のどこかが温まるのを感じた。
(この人は、違う……あの時の怖さとは、全然違う……)
けれど、彼の目の奥にほんの一瞬見えた“影”が、完全には拭いきれなかった。


朝、オフィスの空気はコーヒーの香りとプリンターの駆動音で満たされていた。
安曇遥は、いつもと同じようにパソコンの電源を入れ、メールチェックを始めた。勤めている食品メーカーは社員数百人規模の中堅企業で、彼女の所属する管理部門は女性が多く、穏やかな雰囲気だった。
「おはよう、遥ちゃん」
「おはようございます」
同僚との軽いやり取りを交わしながら、いつものように業務が始まる。
日報の確認、会議資料の準備、取引先への請求書処理。
ルーティンの中にある小さな達成感。
けれど心のどこかでは、あの病院での出来事が、ずっと澱のように残っていた。
──あの人は、本当に何者だったのか。
思い出そうとしても、何も明確には浮かばない。ただ、“似ていた”という記憶だけが、日々の隙間に忍び込んでくる。

「遥さん、書類のコピーお願いしていい?」
背後から声をかけられて振り返ると、そこには職場の先輩・岡部が立っていた。
「はい、すぐやります」
岡部はにこやかに微笑んでいたが、その目の奥にあるものが見えた気がして、遥は視線を逸らした。
(最近……あの人、少し変な気がする)
昼休み、スマホを見ると久しぶりに親友・由梨からメッセージが届いていた。
「ごめん、最近全然連絡できなくて……。今度、会える?」
ほんの短い文だったが、それだけで遥の胸はふわりと温かくなった。
(……大丈夫かな。顔見たら泣いちゃうかも)
こうして日常は流れていく。波のように、静かに、しかし絶え間なく。
ただその奥底には、いつ破裂するか分からない何かが、確かに潜んでいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全36話⭐︎ 倒れた当主を看病する役目を振られた使用人リィナは、彼の部屋へ通うことになる。 栄養、灯り、静かな時間、話し相手――“眠れる夜”を整えていく。そして、回復していく当主アレクシス。けれど彼は、ある夜そっと手を握り返し、低い声で囁く。 「責任、取って?」 噂が燃える屋敷で、ふたりが守るのは“枠(ルール)”。 手だけ、時間だけ、理由にしない――鍵はリィナが握ったまま。 けれど、守ろうとするほど情は育ち、合図の灯りはいつしか「帰る」ではなく「眠る」へ変わっていく。 看病から始まった優しい夜は、静かな執着に捕まっていく。 それでも、捕獲の鍵は彼ではなく――彼女の手にある。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

根暗令嬢の華麗なる転身

しろねこ。
恋愛
「来なきゃよかったな」 ミューズは茶会が嫌いだった。 茶会デビューを果たしたものの、人から不細工と言われたショックから笑顔になれず、しまいには根暗令嬢と陰で呼ばれるようになった。 公爵家の次女に産まれ、キレイな母と実直な父、優しい姉に囲まれ幸せに暮らしていた。 何不自由なく、暮らしていた。 家族からも愛されて育った。 それを壊したのは悪意ある言葉。 「あんな不細工な令嬢見たことない」 それなのに今回の茶会だけは断れなかった。 父から絶対に参加してほしいという言われた茶会は特別で、第一王子と第二王子が来るものだ。 婚約者選びのものとして。 国王直々の声掛けに娘思いの父も断れず… 応援して頂けると嬉しいです(*´ω`*) ハピエン大好き、完全自己満、ご都合主義の作者による作品です。 同名主人公にてアナザーワールド的に別な作品も書いています。 立場や環境が違えども、幸せになって欲しいという思いで作品を書いています。 一部リンクしてるところもあり、他作品を見て頂ければよりキャラへの理解が深まって楽しいかと思います。 描写的なものに不安があるため、お気をつけ下さい。 ゆるりとお楽しみください。 こちら小説家になろうさん、カクヨムさんにも投稿させてもらっています。

婚約破棄された夜、最強魔導師に「番」だと告げられました

有賀冬馬
恋愛
学院の祝宴で告げられた、無慈悲な婚約破棄。 魔力が弱い私には、価値がないという現実。 泣きながら逃げた先で、私は古代の遺跡に迷い込む。 そこで目覚めた彼は、私を見て言った。 「やっと見つけた。私の番よ」 彼の前でだけ、私の魔力は輝く。 奪われた尊厳、歪められた運命。 すべてを取り戻した先にあるのは……

処理中です...