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第四章 救った手の温度
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──ドンッ!
乾いた衝撃音が夜の静寂を破った直後、遥の心臓は跳ねるように脈打った。
振り返ると、裏通りの先に人影が倒れていた。
(何……今の音……誰かが……?)
酔いはすでに吹き飛んでいた。呼吸が浅くなる中、躊躇いながらも彼女は足を踏み出した。
暗がりの中、街灯の淡い光に照らされたその姿──男が一人、まるで人形のように静かに倒れていた。
「ちょっと……! 大丈夫ですか!? 聞こえますか?」
しゃがみ込み、震える手で肩を揺らす。返事はない。
血は流れていなかったが、どこかを強く打ったのかもしれない。意識が戻る気配はなかった。
彼女はすぐにスマホを取り出し、119番を押す。震える指先が通話ボタンを叩いた。
「もしもし……事故です! 男の人が倒れてて……場所は、○○区△△、裏通りの──」
説明しながらも、彼女の視線は彼の顔に吸い寄せられていた。
(どこかで……見たことがある気がする……)
ただ、その目元は柔らかく、まるで寝ているようにも見える。不気味さはなかった。不安よりも、別の感情が胸を押し始めていた。
(違う……この人、ストーカーじゃない……よね……?)
その時だった。男の指が、わずかに動いた。
「……だれ……?」
かすかな声が漏れた。
遥は言葉を失いながらも、その手を握り返した。
「大丈夫……救急車、すぐ来るから……私がついてるから……」
救いを求めるように彼の手を握ったその瞬間、不思議な温かさが伝わってきた。冷たさも、震えもない。ただ、ぬくもりがそこにあった。
やがて遠くからサイレンの音が近づいてくる。
彼女は一度だけ、空を見上げた。どこかで誰かが見ているような気がしてならなかった。
(……どうか、この人が無事でありますように)
心のどこかで、そう祈っていた。
*
病院の廊下は、どこか湿った匂いがしていた。
安曇遥は、自動ドアを抜けた瞬間から心拍が速くなるのを感じていた。事故の通報者として、病院から連絡が来たのは一昨日のこと。倒れていた青年──如月碧人が目を覚ましたという。
しかも、彼が遥に礼を言いたがっているという。
(ほんとに、あの人……?)
あの夜、ほんの一瞬目が合った。どこかで見たような──いや、もしかしたら……。
そんな曖昧な記憶の輪郭が、今日の再会で塗り替えられるのかもしれない。
病室のドアをノックすると、控えめな「どうぞ」が返ってきた。
扉を開けた先、病衣姿の青年がベッドに座っていた。細身の体。形の整った顔立ち。黒髪が少しだけ無造作に乱れていて、それがどこか少年のような印象を与えた。
「安曇さん、ですよね?」
柔らかく微笑んだその表情に、遥は一瞬、返す言葉を失った。
「……はい。あの夜、偶然通りかかって……」
「ありがとうございます。助けてくださって。本当に……命の恩人です」
彼はベッドから軽く頭を下げた。
「意識が戻ったとき、不思議な感覚があったんです。誰かが手を握ってくれてたような……たぶん、それがあなたですよね?」
遥は無言でうなずいた。思い出す。あの夜、自分は確かにこの男の手を握っていた。
だが、目の前の彼からは、あの時感じた“どこかで見たような不気味さ”がまるで感じられなかった。
「僕、何も思い出せないんです。名前は、病院の人が教えてくれましたけど、自分のこと、家族のこと……何ひとつ」
「記憶喪失……?」
彼は困ったように笑った。
「そうみたいです。変ですよね。名前も知らない誰かの前で、こんなに緊張するなんて」
遥は小さく笑って、首を振った。
「私のほうこそ、少し混乱してて。あなたを見た時、どこかで会った気がしたんです。でも……気のせいだったのかも」
ほんの一瞬、彼の目が細められた。その奥に、何かが潜んでいる気がした。
けれど、それはすぐに穏やかな光に戻った。
「よかったら、またお話しに来てくれませんか? なんだか……あなたと話してると、落ち着くんです」
その言葉に、遥は心のどこかが温まるのを感じた。
(この人は、違う……あの時の怖さとは、全然違う……)
けれど、彼の目の奥にほんの一瞬見えた“影”が、完全には拭いきれなかった。
*
朝、オフィスの空気はコーヒーの香りとプリンターの駆動音で満たされていた。
安曇遥は、いつもと同じようにパソコンの電源を入れ、メールチェックを始めた。勤めている食品メーカーは社員数百人規模の中堅企業で、彼女の所属する管理部門は女性が多く、穏やかな雰囲気だった。
「おはよう、遥ちゃん」
「おはようございます」
同僚との軽いやり取りを交わしながら、いつものように業務が始まる。
日報の確認、会議資料の準備、取引先への請求書処理。
ルーティンの中にある小さな達成感。
けれど心のどこかでは、あの病院での出来事が、ずっと澱のように残っていた。
──あの人は、本当に何者だったのか。
思い出そうとしても、何も明確には浮かばない。ただ、“似ていた”という記憶だけが、日々の隙間に忍び込んでくる。
「遥さん、書類のコピーお願いしていい?」
背後から声をかけられて振り返ると、そこには職場の先輩・岡部が立っていた。
「はい、すぐやります」
岡部はにこやかに微笑んでいたが、その目の奥にあるものが見えた気がして、遥は視線を逸らした。
(最近……あの人、少し変な気がする)
昼休み、スマホを見ると久しぶりに親友・由梨からメッセージが届いていた。
「ごめん、最近全然連絡できなくて……。今度、会える?」
ほんの短い文だったが、それだけで遥の胸はふわりと温かくなった。
(……大丈夫かな。顔見たら泣いちゃうかも)
こうして日常は流れていく。波のように、静かに、しかし絶え間なく。
ただその奥底には、いつ破裂するか分からない何かが、確かに潜んでいた。
乾いた衝撃音が夜の静寂を破った直後、遥の心臓は跳ねるように脈打った。
振り返ると、裏通りの先に人影が倒れていた。
(何……今の音……誰かが……?)
酔いはすでに吹き飛んでいた。呼吸が浅くなる中、躊躇いながらも彼女は足を踏み出した。
暗がりの中、街灯の淡い光に照らされたその姿──男が一人、まるで人形のように静かに倒れていた。
「ちょっと……! 大丈夫ですか!? 聞こえますか?」
しゃがみ込み、震える手で肩を揺らす。返事はない。
血は流れていなかったが、どこかを強く打ったのかもしれない。意識が戻る気配はなかった。
彼女はすぐにスマホを取り出し、119番を押す。震える指先が通話ボタンを叩いた。
「もしもし……事故です! 男の人が倒れてて……場所は、○○区△△、裏通りの──」
説明しながらも、彼女の視線は彼の顔に吸い寄せられていた。
(どこかで……見たことがある気がする……)
ただ、その目元は柔らかく、まるで寝ているようにも見える。不気味さはなかった。不安よりも、別の感情が胸を押し始めていた。
(違う……この人、ストーカーじゃない……よね……?)
その時だった。男の指が、わずかに動いた。
「……だれ……?」
かすかな声が漏れた。
遥は言葉を失いながらも、その手を握り返した。
「大丈夫……救急車、すぐ来るから……私がついてるから……」
救いを求めるように彼の手を握ったその瞬間、不思議な温かさが伝わってきた。冷たさも、震えもない。ただ、ぬくもりがそこにあった。
やがて遠くからサイレンの音が近づいてくる。
彼女は一度だけ、空を見上げた。どこかで誰かが見ているような気がしてならなかった。
(……どうか、この人が無事でありますように)
心のどこかで、そう祈っていた。
*
病院の廊下は、どこか湿った匂いがしていた。
安曇遥は、自動ドアを抜けた瞬間から心拍が速くなるのを感じていた。事故の通報者として、病院から連絡が来たのは一昨日のこと。倒れていた青年──如月碧人が目を覚ましたという。
しかも、彼が遥に礼を言いたがっているという。
(ほんとに、あの人……?)
あの夜、ほんの一瞬目が合った。どこかで見たような──いや、もしかしたら……。
そんな曖昧な記憶の輪郭が、今日の再会で塗り替えられるのかもしれない。
病室のドアをノックすると、控えめな「どうぞ」が返ってきた。
扉を開けた先、病衣姿の青年がベッドに座っていた。細身の体。形の整った顔立ち。黒髪が少しだけ無造作に乱れていて、それがどこか少年のような印象を与えた。
「安曇さん、ですよね?」
柔らかく微笑んだその表情に、遥は一瞬、返す言葉を失った。
「……はい。あの夜、偶然通りかかって……」
「ありがとうございます。助けてくださって。本当に……命の恩人です」
彼はベッドから軽く頭を下げた。
「意識が戻ったとき、不思議な感覚があったんです。誰かが手を握ってくれてたような……たぶん、それがあなたですよね?」
遥は無言でうなずいた。思い出す。あの夜、自分は確かにこの男の手を握っていた。
だが、目の前の彼からは、あの時感じた“どこかで見たような不気味さ”がまるで感じられなかった。
「僕、何も思い出せないんです。名前は、病院の人が教えてくれましたけど、自分のこと、家族のこと……何ひとつ」
「記憶喪失……?」
彼は困ったように笑った。
「そうみたいです。変ですよね。名前も知らない誰かの前で、こんなに緊張するなんて」
遥は小さく笑って、首を振った。
「私のほうこそ、少し混乱してて。あなたを見た時、どこかで会った気がしたんです。でも……気のせいだったのかも」
ほんの一瞬、彼の目が細められた。その奥に、何かが潜んでいる気がした。
けれど、それはすぐに穏やかな光に戻った。
「よかったら、またお話しに来てくれませんか? なんだか……あなたと話してると、落ち着くんです」
その言葉に、遥は心のどこかが温まるのを感じた。
(この人は、違う……あの時の怖さとは、全然違う……)
けれど、彼の目の奥にほんの一瞬見えた“影”が、完全には拭いきれなかった。
*
朝、オフィスの空気はコーヒーの香りとプリンターの駆動音で満たされていた。
安曇遥は、いつもと同じようにパソコンの電源を入れ、メールチェックを始めた。勤めている食品メーカーは社員数百人規模の中堅企業で、彼女の所属する管理部門は女性が多く、穏やかな雰囲気だった。
「おはよう、遥ちゃん」
「おはようございます」
同僚との軽いやり取りを交わしながら、いつものように業務が始まる。
日報の確認、会議資料の準備、取引先への請求書処理。
ルーティンの中にある小さな達成感。
けれど心のどこかでは、あの病院での出来事が、ずっと澱のように残っていた。
──あの人は、本当に何者だったのか。
思い出そうとしても、何も明確には浮かばない。ただ、“似ていた”という記憶だけが、日々の隙間に忍び込んでくる。
「遥さん、書類のコピーお願いしていい?」
背後から声をかけられて振り返ると、そこには職場の先輩・岡部が立っていた。
「はい、すぐやります」
岡部はにこやかに微笑んでいたが、その目の奥にあるものが見えた気がして、遥は視線を逸らした。
(最近……あの人、少し変な気がする)
昼休み、スマホを見ると久しぶりに親友・由梨からメッセージが届いていた。
「ごめん、最近全然連絡できなくて……。今度、会える?」
ほんの短い文だったが、それだけで遥の胸はふわりと温かくなった。
(……大丈夫かな。顔見たら泣いちゃうかも)
こうして日常は流れていく。波のように、静かに、しかし絶え間なく。
ただその奥底には、いつ破裂するか分からない何かが、確かに潜んでいた。
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