死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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第十八章 かすれる声

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夜が明けても、窓の外の景色は曇天のままだった。
小鳥のさえずりも聞こえない。
まるで、世界がこの部屋だけを置き去りにしているような――そんな孤立した空間。

遥はベッドに座っていた。
髪は乾いているのに、首筋が冷たい汗で濡れていた。
(……夢、だったのかな)
岡部が玄関にいて。
碧人がドライバーを握って、殺そうとして。
自分がその間に立って、叫んで――止めた。
いや、夢じゃない。
床に転がったドライバーが、それを確かに思い出させた。
リビングには、碧人がいた。
彼は朝食の準備をしていたが、その動きはどこかぎこちなく、機械的だった。

「……おはよう」
遥が声をかけると、碧人はふっと顔を上げ、柔らかく笑った。
「おはよう。……昨日のこと、ごめん」
その笑顔は、優しかった。
でも――その“優しさ”が、遥を締めつけた。
「……もう、大丈夫?」
「うん。岡部はもう来ない。……君は守られてる」
言葉は正しい。けれど、“守る”と“閉じ込める”の境界線が、日に日に薄れていく気がしていた。
遥は椅子に座り、トーストを口に運んだ。
食欲はあまりなかった。けれど、口に入れて咀嚼していないと、不安が込み上げてくる。
碧人が、静かに言った。
「……鍵、全部かけたよ。窓も。玄関の補助ロックもつけた。……これで、誰にも邪魔されない」
遥はコップの水を飲んだが、手がわずかに震えていた。
「……うん。ありがとう」
その瞬間、自分の“ありがとう”が、どこか違う意味を持っていることに気づく。
これは、安心の感謝ではなく、“彼を怒らせないための魔法の言葉”。
まるで、何かから逃げようとする自分を、先回りして鎖で繋がれたような――そんな感覚。
(ここにいることが正解なの?)
(それとも、今すぐ――逃げるべき?)
答えは出ない。
けれど、初めて“出なければならない”という意識が遥の中で芽生えていた。


夜。
碧人は彼女が寝静まったのを見届けると、そっと寝室を出た。
リビングの机に、ノートを広げる。
そこには、遥の行動ログが記されていた。

• 7:30 起床
• 8:00 食事
• 10:00 洗濯
• 12:00 昼食準備
• 13:30 読書(15分)
• 13:45 停止、窓外注視(3分)
• 14:00 会話→沈黙(5分)
• 14:07 微笑・肯定応答あり

碧人は、静かにペンを走らせる。
(少し、変化がある。彼女が時折、“何かを探す目”をしている)
(このままでは、また……失う)
そのとき。
彼の中で、遠く鐘の音のように、記憶の底が鳴った。
“昔、こうして観察していた誰かがいた”
“何を考え、どう動くかを計測して、記録して、管理していた”
そうして、最後には――
……壊していた。
碧人の手が、ふっと止まった。
(……遥は、違う。遥は、壊さない)
その言葉に、救いを縋るように縋りながら、彼はノートを閉じた。

ベッドの中で、遥は目を閉じたまま涙をこぼしていた。
(誰か……)
(誰か、私を――この部屋から、連れ出して)


その夜、烏牙は木の枝の上で、筆を止めた。
(今夜、彼女は初めて“死の外”を望んだ)
それは、運命の時計が狂い出す合図。
「対象、自力脱出意思を初発」
「観測フェーズ:干渉許可申請中」


昼下がり、部屋には何も音がなかった。
テレビはつけられていない。窓もカーテンも閉ざされたまま。
遥は、読みかけの本を膝に置いたまま、心ここにあらずといった様子でぼんやりとしていた。

(逃げなきゃ)

その言葉が、頭の中で繰り返されていた。
昨日の夜、寝ている碧人の寝息を聞きながら思った。
(このままじゃ、私は“消される”。きっと、無意識のまま――誰かに殺される)
彼はもう、自分を“愛している”のではない。
“自分の所有物として抱えている”のだと、遥はうすうす分かっていた。
カップに口をつけ、碧人に気づかれないよう目だけで窓を見た。
補助ロック、チェーン、内鍵――開けようと思えば時間がかかる。だが、時間さえ稼げれば“逃げられる”。
問題は、彼がそれを許さないことだった。


―その夜
遥は深夜一時に目を覚ました。
碧人は隣にいなかった。
音を殺して起き出す。リビングには明かりがついていた。
碧人は机に向かっていた。ノートを開き、何かを見つめている。
(……私のこと、また書いてる)
胸が冷えた。
そのとき。
碧人がふと顔を上げた。
遥はすぐに目を逸らし、冷蔵庫の水を取るふりをする。
「……寝られなかった?」
「うん。……ちょっと、喉が渇いてて」
碧人は立ち上がると、彼女のカップを手に取った。
「僕が入れるよ。君は、もう少し寝てて」
その笑顔が優しすぎて、遥は恐ろしさを感じた。
(“見張られてる”……)
(この人は、私が何を考えてるか、全部読もうとしてる)


その晩、遥は眠れなかった。
(逃げなきゃ。でも、どうやって?)
閉じた目の奥に、かつて烏牙の姿が浮かんだ。
あのとき、岡部との会議室で、確かに彼女は“誰かの視線”を感じた。
(あの人が……死神なんだとしたら、今なら――)
そう思った瞬間だった。
視界の隅が、わずかに揺れた。
ベッドの足元に、黒い影が立っていた。
風もないのに、黒い外套が揺れている。

「……まだ元気のようですね、安曇遥」
烏牙。
遥にしか見えない“死神”が、そこにいた。
「あなた……本当に、死神……なの?」
「そうです。そして、あなたが選ばなければならない瞬間が来ました」
彼の声は低く、響くようだった。
「あなたの死は“予定されている”。でも、変えられなくはありません。しかしそのためには、あなた自身が“運命から逃げ出す意志”を持たねばなりません」
遥は震えながら言った。
「……私は、死にたくない。けど――碧人くんを、捨てるのも怖いの」
「愛は選択です。しかし、その愛があなたを殺すなら、それはもう“呪い”ですね」
烏牙の目が鋭く光った。
「明日、午前三時。“彼が眠っている間に逃げれば、まだ間に合うでしょう”」
遥の喉が詰まりそうになった。
「……もし途中で捕まったら?」
烏牙は答えなかった。ただ、静かにこう言った。
「“鍵を壊しなさい”」


―翌朝
遥は、まるで何事もなかったように振る舞った。
「今日、何か欲しいものある?」
そう尋ねる碧人に、遥は微笑んで答えた。
「ううん。大丈夫。全部あるから……」
その声の裏で、遥の手は見えない震えを握りしめていた。
──決行は、今夜。
生きるか、終わるかの、境界線。
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