死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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第十七章 静寂の檻

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「……誰にも、見られない場所に行こう」

碧人がそう言ったのは、岡部との対峙から二日後のことだった。
遥は頷いた。彼と一緒にいること以外に、安心を感じられる場所はもうなかった。
彼の提案で、すぐに郊外にあるウィークリーマンションの一室を借りることになった。線路もビルもない、田舎道沿いの小さな住宅地。
一歩、扉を閉めると、世界が遠ざかった気がした。

「……ここ、いいね」
遥が窓から外を見ながらつぶやく。
「静かで、誰も知らなくて……。なんか、全部から逃げられた気がする」
「会社にはしばらく体調不良で連絡いれるけど、きっとクビになるね」
碧人は黙ってその後ろ姿を見つめていた。
髪に触れたい衝動を、指の先で握りつぶすようにして押し殺す。
(このまま、ずっとここで二人きりだったら……誰にも見られず、誰にも触れられず、誰にも奪われずに済むのに)
そんな想いが、喉の奥で静かに熱を持っていた。
その夜、テレビもスマホも切って、ふたりは並んで眠った。
遥が小さな寝息を立てながら、碧人の胸元に身を寄せていた。
「……安心する。こうしてると、全部忘れられる」
その言葉に、碧人はうなずく。
けれど、眠る彼女を腕の中で抱きしめながら――その背中を覆うように、腕を少しだけ強く、締めた。
(誰にも渡したくない)
その感情が、まるで毒のようにゆっくりと回ってくる。


―翌朝
目覚めると、遥はキッチンで簡単な朝食を作っていた。
エプロン姿。髪をまとめて、鼻歌を歌っている。
日常のワンシーンのようだった。
けれど、碧人はその姿に違和感を覚えた。
(……こんな風に笑っていても、また誰かに連れ去られるかもしれない)
(また、誰かに“見られる”かもしれない)
胸の奥に、再び不快な熱が灯る。
遥が振り返る。
「ねぇ、明日はどこか散歩しようよ。人がいないとこ、森とか湖とか……」
碧人はしばらく黙ってから、静かに言った。
「……いっそ、どこにも行かなくていい。ここで……このまま過ごせばいいじゃないか」
遥は一瞬、笑いかけたが、その笑顔が途中で止まった。
「……碧人くん?」
「ずっと、ここで。俺だけが君を見て、俺だけが君を知って、俺だけが触れられる……そうなったら、安心できるんじゃない?」
その言葉に、遥は言葉を失った。
碧人の瞳は静かだった。けれど、その奥にあるものが、“優しさ”ではないと直感で分かった。
(これは……檻)
遥の胸に、冷たい何かが流れ込んだ。


―その夜
烏牙は街灯の上から、遥の滞在先を静かに見下ろしていた。
彼女の死の時刻は、まだ遠く設定されている。
けれど、その時計の針は、誰かの“愛”によって少しずつ狂い始めていた。
(愛情とは、時として“拘束”に姿を変える)
死神の記録帳に、文字が一行だけ、震えるように書き加えられた。
「如月碧人、感情域境界点接近中」


―朝
霧が低く立ち込めた郊外の道に、鳥の声すら響かない。
遥はマンションの窓を開けた。湿った空気が、肌にまとわりついてきた。
景色は静かだった。けれど、心はどこかざわついていた。
(碧人くん……昨日、少し変だった)
彼の言葉。

“ここでずっとふたりきりでいればいい”
“俺だけが君を知って、触れられたらいい”

それが優しさではなく、“何か”の匂いを孕んでいたことを、遥の本能が感じ取っていた。
けれど、逃げるという選択肢は浮かばなかった。
(だって……私がいなければ、碧人くんが壊れてしまう)
(あの人を独りにしたら、また“あっち側”に戻ってしまう気がする)
遥は強く自分に言い聞かせた。
“私がいることで、彼を守れる”と。
しかし、彼女の知らないところで――
碧人は、裏通りの小さな雑貨店にいた。
手には南京錠と、室内ロック用のパーツ。
「防犯用」と書かれたタグがついたそれらを、彼は無言でレジに置いた。
(念のためだ。もし誰かが彼女を見つけて、連れ戻そうとしたら……)
“もし彼女が、自分から離れようとしたら”
その思考の芽は、すでに常軌を逸していた。
彼の中で、“守る”と“閉じ込める”の境目は、もう曖昧になりつつあった。


その頃。
薄闇の中を歩くひとりの男がいた。
岡部。
手には、小型のGPSモニターと、使い慣れたスマホ。
「……やっぱり、正解だった」
遥のスマホには、自分が仕込んだ位置情報タグがまだ生きていた。
彼は静かに車を停め、目の前の古びたマンションを見上げた。
「こんなところで、ふたりで暮らしてたんだ。……ねぇ、遥ちゃん。君、本当にあいつのこと分かってるの?」
表情は笑っていたが、その目には何も映っていなかった。
「迎えに来たよ。……君が壊れてしまう前に」


―夕方
帰ってきた碧人の手には、紙袋があった。
遥が不安げに問う。
「……どこ行ってたの?」
「買い出し。ほら、ここ、夜になると鍵がちょっと心配だから」
袋の中には、補助錠やチェーンロック。
「念のためだよ。俺たちを守るために」
遥は笑った。けれど、心のどこかが冷えた。
(これは……“外から守る”じゃない)
(“私を、出さないため”の鍵だ)
「碧人くん……もし、私が“ここを出たい”って言ったら、どうする?」
その問いに、碧人は一瞬、動きを止めた。
そして、微笑んだ。
「そんなこと、言わないよね?」
その笑顔は優しかった。けれど――何かが詰まった檻の中にいるようだった。
遥の中に、初めて明確な“恐れ”が芽生えた瞬間だった。


―夜
烏牙は遠くの街路樹の上から、静かにその部屋の窓を見つめていた。
記録帳の遥のページに、新たな書き込みが加わっていく。

「孤立化:進行」
「環境変化:外界遮断」
「精神依存度:高」
「逃走意志:未発現」
「死因傾向:感情的拘束による事故または衝突の兆候」

死の予定時刻は、徐々に前倒しされつつあった。
そしてその時。
窓の向こう、ふたりの視界に入らぬ闇の中で、ひとりの男の影が門を越える。
岡部。
その手には、電動ドリルと、古びたバールが握られていた。
彼の顔に浮かんでいたのは、穏やかな“帰還の微笑”だった。


夜――静かすぎるその空間に、遥は息を潜めるようにして眠っていた。
部屋の窓は閉じ切られ、カーテンの隙間も碧人が塞いだ。
時計の針の音さえ響くこの密室で、ただ彼女の寝息だけが、現実をつないでいた。
ソファに座る碧人は、眠らなかった。
天井を見上げたまま、微かに眉をしかめている。
脳裏にはあの日、岡部の発した言葉が繰り返されていた。

「君も“見てた”んだろ? そういう目を、知ってるよ」

(……俺は、あいつと違う。遥を傷つけない)
そう思っていた。
でも――本当にそう言い切れるのか、自分でも分からなかった。
そのときだった。
けたたましいモーター音と何かが破壊された音が響いた。
玄関の扉を開ける音がした。
碧人はすぐに立ち上がった。
次の瞬間――玄関ドアが激しく開いた。
(くそ……来た)
ドアの先には、いる。
“あの男”が。遥を見ていた者が。奪おうとする者が。
碧人は無言で工具箱の中からドライバーを握りしめた。
その手は震えていなかった。むしろ、異様なほど静かだった。
ゆっくりと扉を開ける。
目の前に、岡部が立っていた。

「ああ……やっぱり君がいるんだね」
岡部は笑った。
手には電動ドリル。
「……泥棒の真似事か?」
「ちがうよ。ただ、彼女を“戻しに”来ただけさ。僕が知ってる遥ちゃんは、こんな暗い場所に閉じ込められる子じゃない」
碧人の眼がすっと細くなる。
「お前の知ってる遥は、幻だ。彼女は、俺の傍にいるときだけ、“本当の顔”をしてる」
「それ、君の妄想じゃないかな?」
岡部の笑顔が、ゆっくりと薄れていく。
「遥ちゃん、言ってたよ。君が“変わった”って。優しさじゃなくて、拘束になってるって」
碧人の握るドライバーに力がこもった。
「出ていけ。今なら、まだ俺の手は汚れてない」
「汚れてない? ははっ……君、自分が何を見てるか分かってる? その目だよ。その目、“殺す者”の目だ」
そのとき、背後で寝室のドアが開いた。
「碧人くん……!」
遥の声。
碧人と岡部が、同時にそちらを振り向く。
遥の目には、恐怖と混乱、そして決意があった。
「だめ……ここで何かが起きたら、もう……戻れなくなる……!」
遥は碧人の前に立った。
「お願い……やめて……!」
碧人の手が、ゆっくりとドライバーを床に落とした。
乾いた音が、静寂の部屋に響いた。


岡部は口元を歪めた。
「……彼女が庇うから、見逃されたんだと思えよ」
そう言い残して、彼はドアを閉めて去った。
沈黙。
遥の手が、碧人の胸に添えられる。
「……ありがとう。思いとどまってくれて……」
碧人は何も言わなかった。
ただ――その胸の奥では、静かに何かが崩れていた。
(……遥が俺を止めた)
(遥が、“俺から逃げようとした”)
その事実が、爪のように心に刺さる。


その夜。
死神・烏牙は、遥の死の記録帳に書き込んだ。
「殺害未遂:阻止」
「対象感情値:臨界域接近」
「次、阻止不能の可能性」
そして小さく、こう記した。
「あと、一歩だ」
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