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疑心①
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瀬古匠海(せこたくみ)が転校してきたのは9月初旬の2学期であった。
その日は、昨晩から予報されていた台風によって、朝からしきりに雨が降っていた。生徒たちの多くは、休校を強く切望していたが、結局普段通り学校はあった。
そして案の定、教室では不満が絶えなかった。大雨で靴下は濡れて皆裸足となり、至る所で上履きが床を擦るキュッキュッという音が鳴っていた。
教壇の左側では、女子がドライヤーで髪を乾かしながら、アイロンとコテを器用に使って乱れた前髪を必死に整えていた。彼女らの愚痴はドライヤーの音にも勝るほど、堂々と揃っていた。
その様子を、教室の隅で気怠げに眺めていた真野隼人(まのはやと)は、大きく欠伸をしながら机に顔を突っ伏した。
風でガタガタ震える窓の方をおもむろに向くと、大粒の雨が滴っていた。外の様子は薄くぼやけてよく見えず、窓は完全に閉じ切っているはずなのに、降りしきる音がすぐ近くのように聞こえた。
今朝起きたとき、真野は寝ぼけ眼を擦りながら、すぐさま学校から届く緊急メールを確認した。しかし、何も受信されていなくて早々に落胆した。この大雨の中を、まさか歩いて学校へいかなければいけないのかと。
カーテンで外の様子は見えなかったけど、轟音とほのかに感じる薄ら寒さから、木々や電柱が荒れ狂う様子を容易に想像できた。そして、このまま学校に行かず昼まで眠っていたいなと切に思った。
挙句に今日は普段よりも目覚めが悪かった。それもそのはずである。昨夜真野は休校を期待して、夜中の3時までゲームや漫画を読み漁って起きていた。おかげで、猛烈な眠気が休みなく襲ってきていた。
一体ここまでの大バカ者がこの教室にいるのだろうか。
何度も顔を洗ったけど相変わらず眠くて、一度は歯を磨いてスッキリしたと思ったけど、家を出ていく頃には再び眠くなっていた。
そして家の鍵を閉めてから学校に着くまでの道中、どうやって歩いてきたか覚えていない。気付いた時には学校に着いていた。
摩訶不思議な話に聞こえるが、単にまだ醒めていない頭で寝ぼけて学校に着いただけの話である。
そうして、今ようやく顔を突っ伏して寝ようと試みているが、これがまたなぜか眠れない。これも不思議な話だが、眠れる環境ができると途端に眠れなくなる。まあ、今回に限っては外野がうるさいのもあるが。そして授業が始まれば、今の状態など嘘のように、再び眠くなり自分を殴りたくなるのだろう。
真野はギュッと目をつぶり、頑張って眠ろうとしたが、隣で聞こえてくる話題に気が散ってイライラした。
喧騒の中で聞こえる話題は他にもあった。一方では今日現れる転校生の話題についてもあちこちで持ちきりだったのである。
その転校生は、前の学校で大きな騒ぎを起こして退学になっただの、怒らせたら半殺しにされるだの、誰彼構わず女を抱いているだの、根も葉もない噂が吹聴されていた。
この時まで、まだ真野にはその転校生に対しての危機感は持っていなかった。
むしろ自分のクラスであれ、他クラスであれ、関わりを持たなければよいとさえ考えていた。
実際、真野はクラスで目立った存在ではなかった。あまり自分からクラスメートに話しかける性格でもなければ、話しかけられたとしても会話はいつも盛り上がらなかった。
本来ならこんな人間はクラスで孤立する立ち位置だけど、奇跡的に相沢(あいざわ)という生徒だけは、なぜか常に寄ってきた。
こんな自分でも仲良くしたいと思ってくれる人はいるのか、と真野は密かに感動したが、心のどこかではなぜ自分と一緒にいてくれるのだろうと相沢に対して不思議な感覚を持った。
そんな冴えない自分だからこそ、数ある生徒の中でまさか自分がその転校生と関わりを持つなんて、この時は全く予想だにしていなかった。
ボーっとしながら何気なく隣の会話を盗み聞きしていると、真後ろの扉が開いて相沢が登校してきた。
「真野おはよー」
「おはよ」
相沢はニヤニヤしながら、早速前の席に腰かけて鞄を床においた。
そして、頬杖を付きながら真野の目を見た瞬間、ギョッとした目をした。
「うわっ、目のクマすげー。充血もしているし、まるでゾンビだな。寝不足か?」
「まあな。大分眠いよ」
「へえ……、珍しいな」
真野は窓の方を指さしてため息をこぼした。
「あれのせいで、今日学校がないのかと思って夜中まで起きちゃったんだよ」
「あちゃー。お前もそっち側の人間かー」
相沢は残念そうに項垂れた。
きっとここにいる生徒の中にも俺みたいなやつはいるはずだ。休校じゃなかった場合を考えずに、馬鹿みたいに起きていた奴。真野が欠伸をしながらヘラりと笑うと、相沢は唇の端をあげてひんやりとした指で真野の頬をつねった。
「……!? つめたっっ!」
咄嗟に払いのけて手で頬を温めると、相沢はクックッ……と溜めがちに笑った。
真野は一瞬ムッとしたが、そのうち一緒になって笑った。
「ほら、今ので目が覚めただろ?」
「まあな。でもまたすぐ眠くなるよ」
それを聞くと、今度は手の平を目一杯広げて真野の顔を触ろうとしてきた。真野は何とか避けて抵抗したけれど、なかなか諦めないものだからとうとう手が顔にピッタリ密着した。
「……っ!」
その瞬間、電気ショックのような震えが顔全体に広がった。
「つめてえよっ! もうしつこいって!」
遂に怒った真野に、相沢は大笑いした。何がそんなに面白いのか、相沢はしばらくずっと笑っていた。
「まって、お前今タコみてーに赤いじゃん! ほら、そんな怒ると血圧あがるから落ち着けって」
相沢がけしかけたことなのに、なぜか自分が窘められて、真野は納得のいかない気持ちになった。
相沢は真野の肩を叩きながら軽く笑った。
「まあまあ。でも、ほら。今ので完全に眠気冷めただろ?」
「まあ……、確かにそうだけど」
「眠気を覚ますのに手っ取り早い方法はな、目薬を差すのでも、顔を洗うのでもねえよ。友と戯れることだよ」
「あっそ……」
何だか、名言チックに言ってやがるが、言っていることは大したことではない。ただの空虚な言葉に過ぎない。
教室は続々と生徒が登校してきていた。一人の生徒は足早で教室に入ってきて、半べそをかきながらビッチャリ濡れた髪を友人に見せびらかしていた。周りの友人は、それを写真に撮っておちゃらけている。
「てか、さっきよりも勢い強くなってんじゃん」
ふと窓を見遣ると、相沢の言う通りさっきよりも確然と激しくなっていた。土砂降りの雨と轟々と鳴り響く風を見て、2人はいつしかため息をついて呆然としていた。
「はははは……、学校も鬼畜だよな。こんな大雨の中生徒を登校させてくるとか。まあでもこれじゃ、途中で下校になりそうだけど」
「じゃあ最初から休校にしろよっ」
「ハハハ、そんなことみんなが思っているよ」
苛立つ真野に、相沢も同調しながら笑った。
真野が東京へ来たのは高校生になってからだった。それまでは人里離れた田舎町に実家があったため、必然と中学もその近くだった。通っていた中学は東京の高校と違って、年に数回は休校だった。何しろ学校どころではなかった。
大雨の日は、道が浸水してアパートの1階も住める状況ではなかった。
幸い真野の家は3階であったため、奇跡的に難を逃れたが、当時の記憶は今でも鮮明に『変わり果てた悍ましい光景』として焼き付いている。
だからこそ、高校で地元から離れて東京に出てきたときには、ビルのデカさや人の多さ、電車の運行本数よりも、大雨が降ってもまったく浸水していない道路の方にびっくりした。
徳川の時代に行った治水工事を習ったときは適当に聞き流していたけれど、この時はもろに実感せざる終えなかった。治水工事の有無には歴然とした差があったのだ。あれはすごいと思った。感動した。
あの感動を思い起こして、真野は再び小さなため息をこぼした。皮肉にも、そのおかげで今日も休校にならずに登校できてしまったわけである。
ふいに真野は、相沢の毛先に目がいった。
彼の髪の毛からは一定のリズムで水滴がぽたぽたと垂れていて、既に肩口を濡らしていた。よく見ると、裾や襟も濡れていて、上履きを履いている足も皆と同様に裸足だった。
それに見入っていると、相沢が何かを思い出したかのように突然手を叩いたのでハッと我に返った。
「あ! そうそう。これ話そうと思っていたんだよ。今日転校生が来ることは真野も知っているだろ?」
「あー、なんかみんな話してるよな」
すると、見るからに相沢の顔色が変わった。そして、いつもお決まりの目を爛々とさせながら勿体ぶるような口調になった。真野はその話題にあまり気乗りしていなかったが、とりあえず反応はした。
「その生徒がさ、何でここに転校してくるかわかるか?」
きっとこいつも根も葉もない噂をまんまと鵜呑みにして得意げに語ろうと思っているのだろう。馬鹿馬鹿しい。真野は内心相沢に呆れていたが、仕方なく聞き役に徹した。
「さあ、知らないけど。親の転勤とかじゃねえの?」
「ちげえよ!」
急な声量のデカさに思わず肩がビクリと震え、周りの生徒もチラリとこっちを見た。それが恥ずかしくて真野は思わず瀬古の頭を叩いた。
「ちょっと声でかいって」
「わるい。それでさ、なんで転校してきたかというと……」
相沢は鼻に当たる眼鏡をクイッと上げて、何食わぬ顔で再び会話を始めた。
相沢は話している最中、胸の高ぶりで口調は早口となり、徐々に顔も近づけてきた。それも息が鼻先にふりかかるほど近くに。こういう時の相沢は興奮状態で、もう誰も、彼を止めることができない。
あいにく、真野はこういうゴシップネタに興味がなかったが、相沢を見ていると不思議と聞き入っている自分がいた。多分自分でも気づかぬ間に、相沢の熱血さと高揚感が伝播しているのだと思う。
「そいつは聞くところによると、素行が超悪いらしい。何せ前の学校で同級生を半殺しにして退学になったらしいから」
そんなことを考えながら聞いていたら、先ほども聞いた『半殺し』というワードがまた出てきて、半ば呆れながら息を吐いた。
半殺し……。真野はその言葉を心の中で唱えた。。
もし奴が本当に人を半殺しにしたならば、一体どの程度殴ったのだろうか。真野は想像した。
50発?80発?100発?
いや、それとも素手ではなく鉄棒とかで殴ったのだろうか? 半殺しなんて言葉、ドラマでしか聞いたことがないし見たことがない。被害者は大体病室のベッドでこん睡状態になっていたり、もう2度と身体が動かせない再起不能などになるのだろうか?
まあ、今回もただ相沢がオーバーに言っているだけかもしれないし、鵜呑みにするのはやめよう。
すると、相沢はその疑心を見透かしたよう目を細めた。
「大げさじゃないからな。本当だ。奴は隣町の学校に通っていたんだ。それで、この話はそいつが通っていた生徒から聞いたんだ」
きっと相沢の中学の同級生が転校生と同じ高校だったのだろう。
所詮こいつの友人が言ったことだし、信憑性はほとんどないとは思うけど、それでももしこれが事実なら、思ったよりも身近に起きている出来事である。
真野は、自分でも無意識のうちに胸が高鳴っていた。だからこそ、相沢の調子に合わせた反応をした。
「へえ……。でももしそれが事実なら普通は少年院に行くんじゃないのか?」
「だから事実だって!」
その声に今度は大勢の生徒がこっちを見た。教室にはもうほとんどの生徒が登校していて、三々五々でそこかしこらで談笑していた。
雨の匂いが、さっきよりも一層この教室に充満している感じがした。
「だからうるさいって」
「だって真野が信じないから」
「はいはい、悪かったよ。それで?」
相沢は「ほんとかよ?」と伺うような眼で呟きながら、唇を舐めた。
「その……少年院に行くとかそういうのはよくわかんねえけど……。けどその友人が言うには、被害者の生徒は今も目を覚まさないらしい。病室のベッドで横たわったまま。やばいだろ? そんな犯罪者この学校に放るなよって思わないか?」
「まあ、そうだな。やばいな、そいつ」
「だろ。しかもそいつさ……」
するとちょうどその時、前方の扉がガラガラ開いて先生が入ってきた。それに気が付いた生徒たちは、一斉に話をやめてカバンを持って自分の座席へと戻っていく。
相沢も間の悪さに小さく舌打ちをさせたが、「またあとで」と言い残して去っていた。
最悪なことに、相沢が座っていた座面は水滴で全体的に濡れていた。だから、前の席の生徒からは舌打ちされて思い切り睨まれた。
何か、俺が悪いみたいになっているけど、どう考えても相沢のせいだからな!? いや、第一台風の中登校させる学校が悪い。
とはいえ、そんな強く言うことができない真野は、決まり悪く感じながら無視して前を見た。
そしてふと気付いた。教室がいつもとは違う異様な空気に包まれていることに。
その理由が何なのか、すぐにわかった。
普段は教壇に立つ先生が、その日は少し端の方に佇み、なぜか真ん中にスペースを作っていた。そして今しがた自分が入ってきた扉に向かって、軽く手招きをした。
真野の席は廊下側の一番後ろだったため、その手招きの先に誰がいるのかはギリギリ見えなかった。けど、この時すでに皆が同じことを察していたと思う。
教卓の前にいる生徒は、扉にいる彼の姿が見えるらしく、周辺にいる生徒らとチラチラ目を合わせながら戸惑いの色を浮かべていた。
その日は、昨晩から予報されていた台風によって、朝からしきりに雨が降っていた。生徒たちの多くは、休校を強く切望していたが、結局普段通り学校はあった。
そして案の定、教室では不満が絶えなかった。大雨で靴下は濡れて皆裸足となり、至る所で上履きが床を擦るキュッキュッという音が鳴っていた。
教壇の左側では、女子がドライヤーで髪を乾かしながら、アイロンとコテを器用に使って乱れた前髪を必死に整えていた。彼女らの愚痴はドライヤーの音にも勝るほど、堂々と揃っていた。
その様子を、教室の隅で気怠げに眺めていた真野隼人(まのはやと)は、大きく欠伸をしながら机に顔を突っ伏した。
風でガタガタ震える窓の方をおもむろに向くと、大粒の雨が滴っていた。外の様子は薄くぼやけてよく見えず、窓は完全に閉じ切っているはずなのに、降りしきる音がすぐ近くのように聞こえた。
今朝起きたとき、真野は寝ぼけ眼を擦りながら、すぐさま学校から届く緊急メールを確認した。しかし、何も受信されていなくて早々に落胆した。この大雨の中を、まさか歩いて学校へいかなければいけないのかと。
カーテンで外の様子は見えなかったけど、轟音とほのかに感じる薄ら寒さから、木々や電柱が荒れ狂う様子を容易に想像できた。そして、このまま学校に行かず昼まで眠っていたいなと切に思った。
挙句に今日は普段よりも目覚めが悪かった。それもそのはずである。昨夜真野は休校を期待して、夜中の3時までゲームや漫画を読み漁って起きていた。おかげで、猛烈な眠気が休みなく襲ってきていた。
一体ここまでの大バカ者がこの教室にいるのだろうか。
何度も顔を洗ったけど相変わらず眠くて、一度は歯を磨いてスッキリしたと思ったけど、家を出ていく頃には再び眠くなっていた。
そして家の鍵を閉めてから学校に着くまでの道中、どうやって歩いてきたか覚えていない。気付いた時には学校に着いていた。
摩訶不思議な話に聞こえるが、単にまだ醒めていない頭で寝ぼけて学校に着いただけの話である。
そうして、今ようやく顔を突っ伏して寝ようと試みているが、これがまたなぜか眠れない。これも不思議な話だが、眠れる環境ができると途端に眠れなくなる。まあ、今回に限っては外野がうるさいのもあるが。そして授業が始まれば、今の状態など嘘のように、再び眠くなり自分を殴りたくなるのだろう。
真野はギュッと目をつぶり、頑張って眠ろうとしたが、隣で聞こえてくる話題に気が散ってイライラした。
喧騒の中で聞こえる話題は他にもあった。一方では今日現れる転校生の話題についてもあちこちで持ちきりだったのである。
その転校生は、前の学校で大きな騒ぎを起こして退学になっただの、怒らせたら半殺しにされるだの、誰彼構わず女を抱いているだの、根も葉もない噂が吹聴されていた。
この時まで、まだ真野にはその転校生に対しての危機感は持っていなかった。
むしろ自分のクラスであれ、他クラスであれ、関わりを持たなければよいとさえ考えていた。
実際、真野はクラスで目立った存在ではなかった。あまり自分からクラスメートに話しかける性格でもなければ、話しかけられたとしても会話はいつも盛り上がらなかった。
本来ならこんな人間はクラスで孤立する立ち位置だけど、奇跡的に相沢(あいざわ)という生徒だけは、なぜか常に寄ってきた。
こんな自分でも仲良くしたいと思ってくれる人はいるのか、と真野は密かに感動したが、心のどこかではなぜ自分と一緒にいてくれるのだろうと相沢に対して不思議な感覚を持った。
そんな冴えない自分だからこそ、数ある生徒の中でまさか自分がその転校生と関わりを持つなんて、この時は全く予想だにしていなかった。
ボーっとしながら何気なく隣の会話を盗み聞きしていると、真後ろの扉が開いて相沢が登校してきた。
「真野おはよー」
「おはよ」
相沢はニヤニヤしながら、早速前の席に腰かけて鞄を床においた。
そして、頬杖を付きながら真野の目を見た瞬間、ギョッとした目をした。
「うわっ、目のクマすげー。充血もしているし、まるでゾンビだな。寝不足か?」
「まあな。大分眠いよ」
「へえ……、珍しいな」
真野は窓の方を指さしてため息をこぼした。
「あれのせいで、今日学校がないのかと思って夜中まで起きちゃったんだよ」
「あちゃー。お前もそっち側の人間かー」
相沢は残念そうに項垂れた。
きっとここにいる生徒の中にも俺みたいなやつはいるはずだ。休校じゃなかった場合を考えずに、馬鹿みたいに起きていた奴。真野が欠伸をしながらヘラりと笑うと、相沢は唇の端をあげてひんやりとした指で真野の頬をつねった。
「……!? つめたっっ!」
咄嗟に払いのけて手で頬を温めると、相沢はクックッ……と溜めがちに笑った。
真野は一瞬ムッとしたが、そのうち一緒になって笑った。
「ほら、今ので目が覚めただろ?」
「まあな。でもまたすぐ眠くなるよ」
それを聞くと、今度は手の平を目一杯広げて真野の顔を触ろうとしてきた。真野は何とか避けて抵抗したけれど、なかなか諦めないものだからとうとう手が顔にピッタリ密着した。
「……っ!」
その瞬間、電気ショックのような震えが顔全体に広がった。
「つめてえよっ! もうしつこいって!」
遂に怒った真野に、相沢は大笑いした。何がそんなに面白いのか、相沢はしばらくずっと笑っていた。
「まって、お前今タコみてーに赤いじゃん! ほら、そんな怒ると血圧あがるから落ち着けって」
相沢がけしかけたことなのに、なぜか自分が窘められて、真野は納得のいかない気持ちになった。
相沢は真野の肩を叩きながら軽く笑った。
「まあまあ。でも、ほら。今ので完全に眠気冷めただろ?」
「まあ……、確かにそうだけど」
「眠気を覚ますのに手っ取り早い方法はな、目薬を差すのでも、顔を洗うのでもねえよ。友と戯れることだよ」
「あっそ……」
何だか、名言チックに言ってやがるが、言っていることは大したことではない。ただの空虚な言葉に過ぎない。
教室は続々と生徒が登校してきていた。一人の生徒は足早で教室に入ってきて、半べそをかきながらビッチャリ濡れた髪を友人に見せびらかしていた。周りの友人は、それを写真に撮っておちゃらけている。
「てか、さっきよりも勢い強くなってんじゃん」
ふと窓を見遣ると、相沢の言う通りさっきよりも確然と激しくなっていた。土砂降りの雨と轟々と鳴り響く風を見て、2人はいつしかため息をついて呆然としていた。
「はははは……、学校も鬼畜だよな。こんな大雨の中生徒を登校させてくるとか。まあでもこれじゃ、途中で下校になりそうだけど」
「じゃあ最初から休校にしろよっ」
「ハハハ、そんなことみんなが思っているよ」
苛立つ真野に、相沢も同調しながら笑った。
真野が東京へ来たのは高校生になってからだった。それまでは人里離れた田舎町に実家があったため、必然と中学もその近くだった。通っていた中学は東京の高校と違って、年に数回は休校だった。何しろ学校どころではなかった。
大雨の日は、道が浸水してアパートの1階も住める状況ではなかった。
幸い真野の家は3階であったため、奇跡的に難を逃れたが、当時の記憶は今でも鮮明に『変わり果てた悍ましい光景』として焼き付いている。
だからこそ、高校で地元から離れて東京に出てきたときには、ビルのデカさや人の多さ、電車の運行本数よりも、大雨が降ってもまったく浸水していない道路の方にびっくりした。
徳川の時代に行った治水工事を習ったときは適当に聞き流していたけれど、この時はもろに実感せざる終えなかった。治水工事の有無には歴然とした差があったのだ。あれはすごいと思った。感動した。
あの感動を思い起こして、真野は再び小さなため息をこぼした。皮肉にも、そのおかげで今日も休校にならずに登校できてしまったわけである。
ふいに真野は、相沢の毛先に目がいった。
彼の髪の毛からは一定のリズムで水滴がぽたぽたと垂れていて、既に肩口を濡らしていた。よく見ると、裾や襟も濡れていて、上履きを履いている足も皆と同様に裸足だった。
それに見入っていると、相沢が何かを思い出したかのように突然手を叩いたのでハッと我に返った。
「あ! そうそう。これ話そうと思っていたんだよ。今日転校生が来ることは真野も知っているだろ?」
「あー、なんかみんな話してるよな」
すると、見るからに相沢の顔色が変わった。そして、いつもお決まりの目を爛々とさせながら勿体ぶるような口調になった。真野はその話題にあまり気乗りしていなかったが、とりあえず反応はした。
「その生徒がさ、何でここに転校してくるかわかるか?」
きっとこいつも根も葉もない噂をまんまと鵜呑みにして得意げに語ろうと思っているのだろう。馬鹿馬鹿しい。真野は内心相沢に呆れていたが、仕方なく聞き役に徹した。
「さあ、知らないけど。親の転勤とかじゃねえの?」
「ちげえよ!」
急な声量のデカさに思わず肩がビクリと震え、周りの生徒もチラリとこっちを見た。それが恥ずかしくて真野は思わず瀬古の頭を叩いた。
「ちょっと声でかいって」
「わるい。それでさ、なんで転校してきたかというと……」
相沢は鼻に当たる眼鏡をクイッと上げて、何食わぬ顔で再び会話を始めた。
相沢は話している最中、胸の高ぶりで口調は早口となり、徐々に顔も近づけてきた。それも息が鼻先にふりかかるほど近くに。こういう時の相沢は興奮状態で、もう誰も、彼を止めることができない。
あいにく、真野はこういうゴシップネタに興味がなかったが、相沢を見ていると不思議と聞き入っている自分がいた。多分自分でも気づかぬ間に、相沢の熱血さと高揚感が伝播しているのだと思う。
「そいつは聞くところによると、素行が超悪いらしい。何せ前の学校で同級生を半殺しにして退学になったらしいから」
そんなことを考えながら聞いていたら、先ほども聞いた『半殺し』というワードがまた出てきて、半ば呆れながら息を吐いた。
半殺し……。真野はその言葉を心の中で唱えた。。
もし奴が本当に人を半殺しにしたならば、一体どの程度殴ったのだろうか。真野は想像した。
50発?80発?100発?
いや、それとも素手ではなく鉄棒とかで殴ったのだろうか? 半殺しなんて言葉、ドラマでしか聞いたことがないし見たことがない。被害者は大体病室のベッドでこん睡状態になっていたり、もう2度と身体が動かせない再起不能などになるのだろうか?
まあ、今回もただ相沢がオーバーに言っているだけかもしれないし、鵜呑みにするのはやめよう。
すると、相沢はその疑心を見透かしたよう目を細めた。
「大げさじゃないからな。本当だ。奴は隣町の学校に通っていたんだ。それで、この話はそいつが通っていた生徒から聞いたんだ」
きっと相沢の中学の同級生が転校生と同じ高校だったのだろう。
所詮こいつの友人が言ったことだし、信憑性はほとんどないとは思うけど、それでももしこれが事実なら、思ったよりも身近に起きている出来事である。
真野は、自分でも無意識のうちに胸が高鳴っていた。だからこそ、相沢の調子に合わせた反応をした。
「へえ……。でももしそれが事実なら普通は少年院に行くんじゃないのか?」
「だから事実だって!」
その声に今度は大勢の生徒がこっちを見た。教室にはもうほとんどの生徒が登校していて、三々五々でそこかしこらで談笑していた。
雨の匂いが、さっきよりも一層この教室に充満している感じがした。
「だからうるさいって」
「だって真野が信じないから」
「はいはい、悪かったよ。それで?」
相沢は「ほんとかよ?」と伺うような眼で呟きながら、唇を舐めた。
「その……少年院に行くとかそういうのはよくわかんねえけど……。けどその友人が言うには、被害者の生徒は今も目を覚まさないらしい。病室のベッドで横たわったまま。やばいだろ? そんな犯罪者この学校に放るなよって思わないか?」
「まあ、そうだな。やばいな、そいつ」
「だろ。しかもそいつさ……」
するとちょうどその時、前方の扉がガラガラ開いて先生が入ってきた。それに気が付いた生徒たちは、一斉に話をやめてカバンを持って自分の座席へと戻っていく。
相沢も間の悪さに小さく舌打ちをさせたが、「またあとで」と言い残して去っていた。
最悪なことに、相沢が座っていた座面は水滴で全体的に濡れていた。だから、前の席の生徒からは舌打ちされて思い切り睨まれた。
何か、俺が悪いみたいになっているけど、どう考えても相沢のせいだからな!? いや、第一台風の中登校させる学校が悪い。
とはいえ、そんな強く言うことができない真野は、決まり悪く感じながら無視して前を見た。
そしてふと気付いた。教室がいつもとは違う異様な空気に包まれていることに。
その理由が何なのか、すぐにわかった。
普段は教壇に立つ先生が、その日は少し端の方に佇み、なぜか真ん中にスペースを作っていた。そして今しがた自分が入ってきた扉に向かって、軽く手招きをした。
真野の席は廊下側の一番後ろだったため、その手招きの先に誰がいるのかはギリギリ見えなかった。けど、この時すでに皆が同じことを察していたと思う。
教卓の前にいる生徒は、扉にいる彼の姿が見えるらしく、周辺にいる生徒らとチラチラ目を合わせながら戸惑いの色を浮かべていた。
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