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第1部
13 デビュタントボール前日
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窓際に立ち、明日のデビュタントボールを思う。
アラン様との婚約は正式な書面を交わし、既に解消している。
デビュタントボールのエスコートは、お父様にしていただくつもりだった。
それなのに。
今朝執事から渡された手紙は、テーブルの上に置かれている。
手紙の上部には双頭の鷹に交差する二本の剣、そしてそれらを月桂樹が取り囲む紋章が箔押しされ、封蝋には立ち上がった獅子を象ったシグネットリングが捺されている。
箔押しされた家紋に、その方ご自身を示すシンボル。
手紙をそっと手に取り、胸に抱いた。
「明日が終わればわたしは自由だと……」
婚約解消前の最後の定例お茶会で、アラン様が口にされた言葉を思い返す。
この忌々しい呪縛から解放されるのだと、爽快に去っていった。
胸元に抱いた手紙に目を落とすと、立ち上がった獅子がこちらに振り返ったような気がして、目を瞬く。
そこから何か汲み取れないかと、いつまでも眺めてしまいそうだった。
無理やり意志の力でもって手紙から目を離し、窓の外に目をやる。
あらかた葉の散ってしまった寒々しい枝々が目に入った。
その枝にの一つに愛らしい鳥がとまり、重みで細く頼りない枝がしなる。
鳥は頭頂が淡い褐色をしていて、くりっとした目の周りは黒く、顎は白。背と尾は青灰色で、広げた羽根先は黒褐色に白いラインが入り、腹は橙色。モズだろう。
何か獲物でも探しているのだろうか。
窓枠に手を添わせ、様子を眺めていると、扉の外からノック音と侍女の入室を求める声が聞こえた。
入室を許可し扉に向き直ると、侍女とメイドがドレスに手袋、宝飾品、ヒールを手にしている。
明日のデビュタントの確認のために、衣裳部屋から自室に運び込んできたのだ。
それらは全て、父と共に新たに立ち上げた商店で取り扱う予定の品々でもある。
先日ようやく叔父から暖簾分けが許されたお父様とわたしは、新たな門出となる洋装店の名をポリーブティックとした。
わたしの名、メアリーの愛称であるポリーを看板にしようとお父様が提案したときは、驚いた。
◇
「ウォールデンから独立できたのは、メアリー。お前のおかげだよ」
穏やかな瞳を細め、お父様はわたしの頭を撫でた。
男性にしては華奢で大きくはないその手は温かく、触れたところからじんわりと優しいお父様の想いが伝わってくるようだった。
「いいえ。お父様が長年ウォールデンへ誠実に仕えていらっしゃったからですわ。ウォールデンはお父様の献身を認めてくださったのです」
笑顔でお父様を見上げ、これまでのお父様の功績を称えると、お父様は手を止め、悲しそうに眉根を寄せた。
「私は父親として君を守ることを放棄し、苦しみから救ってやることは出来なかった」
お祖父様は優秀な番頭であった父を気に入っていたが、その労に報いることはなかった。
お祖父様の溺愛する娘に婿入りさせたことが、お祖父様なりの労いだったのかもしれない。
だが、商売の在り様を知ろうともせず、ウォールデン家直系の娘であることを振りかざし、浪費と我儘、無理難題を父に吹っ掛けるお母様は、お父様にとって頭痛の種でしかない。
「旦那様の大事なお嬢様」であるお母様の期待に応えようと、どうにかして無理を呑むお父様を、穏やかなだけのつまらない男だと切って捨て。婚前からの恋人、前カドガン伯爵と逢瀬を重ね、二人でお父様を嘲った。
伯爵位を持つお母様の愛人に、それでなくとも入り婿で、しがない雇われ人のお父様が何を言えるというのか。
前カドガン伯爵はその爵位にものを言わせ、お母様に次から次へと高価な贈り物をし、また贅沢な旅行に会員制の賭博場 、観劇、非公式な内輪の夜会や仮面舞踏会へ誘い、遊び歩いた。
カドガン伯爵領で領地代官を務める現地の文官は、アラン様のお母様ではなく、わたしのお母様をしばらく伯爵夫人であると勘違いしていたそうだ。
アラン様からそのお話を伺ったときは、アラン様のお母様に対するあまりの侮辱、そして申し訳なさに顔を上げられなかった。
アラン様はわたしの気に病むことではないと言ってくださったけれど、お母様によく似たわたしの顔を、アラン様に向けることなど出来なくて、その日はひたすら謝罪を繰り返した。
アラン様はそんなわたしの手を取り、困ったように「話すのではなかった」と仰った。
「よく考えれば、メアリーを傷つけるとわかることだったのに、俺の考えが足らなかった。俺のほうこそ申し訳ない」と。
アラン様の優しさと温かさに、ざらついた心は慰められた。
そんな風にアラン様はいつも、わたしを大切に扱ってくれた。
あの二人に押し付けられた婚約を、アラン様は心の底から憎悪していたのに、わたしにはいつも優しかった。
アラン様の優しさと同情だとわかっていたけれど、恋焦がれる心を止めることは出来なくて。アラン様の幸せを誰より願うようになった。
アラン様が望むなら、婚約など解消するし、見知らぬ誰かとの幸せを祝う。
コールリッジ=カドガン家の繁栄を願って身を引く。
わたしには、これまでアラン様がいた。アラン様がわたしを支えてくれた。だからこうして気丈に立っていられる。
けれどお父様には誰もいなかった。
今なら、お父様の苦悩や孤独を察することができる。
幼い頃は、まるで私が仕える主のお嬢さんであるかのような、お父様の他人行儀な距離感に、とても傷ついたけれど。
ウォールデンの者達から傷つけられ続けてきたお父様が、ウォールデンの血を引く、真珠姫によく似たわたしに憐憫をかけてくれたのは、お父様の掛け替えのない優しさであり、父親としての愛情に他ならない。
アラン様との婚約は正式な書面を交わし、既に解消している。
デビュタントボールのエスコートは、お父様にしていただくつもりだった。
それなのに。
今朝執事から渡された手紙は、テーブルの上に置かれている。
手紙の上部には双頭の鷹に交差する二本の剣、そしてそれらを月桂樹が取り囲む紋章が箔押しされ、封蝋には立ち上がった獅子を象ったシグネットリングが捺されている。
箔押しされた家紋に、その方ご自身を示すシンボル。
手紙をそっと手に取り、胸に抱いた。
「明日が終わればわたしは自由だと……」
婚約解消前の最後の定例お茶会で、アラン様が口にされた言葉を思い返す。
この忌々しい呪縛から解放されるのだと、爽快に去っていった。
胸元に抱いた手紙に目を落とすと、立ち上がった獅子がこちらに振り返ったような気がして、目を瞬く。
そこから何か汲み取れないかと、いつまでも眺めてしまいそうだった。
無理やり意志の力でもって手紙から目を離し、窓の外に目をやる。
あらかた葉の散ってしまった寒々しい枝々が目に入った。
その枝にの一つに愛らしい鳥がとまり、重みで細く頼りない枝がしなる。
鳥は頭頂が淡い褐色をしていて、くりっとした目の周りは黒く、顎は白。背と尾は青灰色で、広げた羽根先は黒褐色に白いラインが入り、腹は橙色。モズだろう。
何か獲物でも探しているのだろうか。
窓枠に手を添わせ、様子を眺めていると、扉の外からノック音と侍女の入室を求める声が聞こえた。
入室を許可し扉に向き直ると、侍女とメイドがドレスに手袋、宝飾品、ヒールを手にしている。
明日のデビュタントの確認のために、衣裳部屋から自室に運び込んできたのだ。
それらは全て、父と共に新たに立ち上げた商店で取り扱う予定の品々でもある。
先日ようやく叔父から暖簾分けが許されたお父様とわたしは、新たな門出となる洋装店の名をポリーブティックとした。
わたしの名、メアリーの愛称であるポリーを看板にしようとお父様が提案したときは、驚いた。
◇
「ウォールデンから独立できたのは、メアリー。お前のおかげだよ」
穏やかな瞳を細め、お父様はわたしの頭を撫でた。
男性にしては華奢で大きくはないその手は温かく、触れたところからじんわりと優しいお父様の想いが伝わってくるようだった。
「いいえ。お父様が長年ウォールデンへ誠実に仕えていらっしゃったからですわ。ウォールデンはお父様の献身を認めてくださったのです」
笑顔でお父様を見上げ、これまでのお父様の功績を称えると、お父様は手を止め、悲しそうに眉根を寄せた。
「私は父親として君を守ることを放棄し、苦しみから救ってやることは出来なかった」
お祖父様は優秀な番頭であった父を気に入っていたが、その労に報いることはなかった。
お祖父様の溺愛する娘に婿入りさせたことが、お祖父様なりの労いだったのかもしれない。
だが、商売の在り様を知ろうともせず、ウォールデン家直系の娘であることを振りかざし、浪費と我儘、無理難題を父に吹っ掛けるお母様は、お父様にとって頭痛の種でしかない。
「旦那様の大事なお嬢様」であるお母様の期待に応えようと、どうにかして無理を呑むお父様を、穏やかなだけのつまらない男だと切って捨て。婚前からの恋人、前カドガン伯爵と逢瀬を重ね、二人でお父様を嘲った。
伯爵位を持つお母様の愛人に、それでなくとも入り婿で、しがない雇われ人のお父様が何を言えるというのか。
前カドガン伯爵はその爵位にものを言わせ、お母様に次から次へと高価な贈り物をし、また贅沢な旅行に会員制の賭博場 、観劇、非公式な内輪の夜会や仮面舞踏会へ誘い、遊び歩いた。
カドガン伯爵領で領地代官を務める現地の文官は、アラン様のお母様ではなく、わたしのお母様をしばらく伯爵夫人であると勘違いしていたそうだ。
アラン様からそのお話を伺ったときは、アラン様のお母様に対するあまりの侮辱、そして申し訳なさに顔を上げられなかった。
アラン様はわたしの気に病むことではないと言ってくださったけれど、お母様によく似たわたしの顔を、アラン様に向けることなど出来なくて、その日はひたすら謝罪を繰り返した。
アラン様はそんなわたしの手を取り、困ったように「話すのではなかった」と仰った。
「よく考えれば、メアリーを傷つけるとわかることだったのに、俺の考えが足らなかった。俺のほうこそ申し訳ない」と。
アラン様の優しさと温かさに、ざらついた心は慰められた。
そんな風にアラン様はいつも、わたしを大切に扱ってくれた。
あの二人に押し付けられた婚約を、アラン様は心の底から憎悪していたのに、わたしにはいつも優しかった。
アラン様の優しさと同情だとわかっていたけれど、恋焦がれる心を止めることは出来なくて。アラン様の幸せを誰より願うようになった。
アラン様が望むなら、婚約など解消するし、見知らぬ誰かとの幸せを祝う。
コールリッジ=カドガン家の繁栄を願って身を引く。
わたしには、これまでアラン様がいた。アラン様がわたしを支えてくれた。だからこうして気丈に立っていられる。
けれどお父様には誰もいなかった。
今なら、お父様の苦悩や孤独を察することができる。
幼い頃は、まるで私が仕える主のお嬢さんであるかのような、お父様の他人行儀な距離感に、とても傷ついたけれど。
ウォールデンの者達から傷つけられ続けてきたお父様が、ウォールデンの血を引く、真珠姫によく似たわたしに憐憫をかけてくれたのは、お父様の掛け替えのない優しさであり、父親としての愛情に他ならない。
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