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第2部
9 あの頃はまだ、真珠姫はわたしのお母様で
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あの日は、真珠姫と二人きりのお出掛けで、朝から浮かれていた。
そうだ。
あの頃はまだ、真珠姫はわたしのお母様で、お父様とは子供の目から見ても他人行儀に――使用人とお嬢様の関係に――映っていたけれど、それでも真珠姫はウォールデンの分家屋敷に昼夜留まっていた。
屋敷を不在にするときは、本家の者からの呼び出しを受けるときだけ。
本家屋敷からの呼び出しは、頻繁であったように思う。
幼かった頃のことだから、正確にはわからない。
ただそのとき以外は、ずっとわたしだけの優しいお母様だった。
真珠姫との二人きりのお出掛けより、少し遡ったある日。
いつものように本家屋敷から呼び出された真珠姫が、打ちのめされた様子で、真っ青な顔で家に戻ってきた。
本家屋敷に呼び出された日はいつも、帰宅するなり人を遠ざけ、真珠姫はしばらく表情を無くしたように屋敷のティールームで一人ぼんやりと過ごすのが常だった。
わたしはそんな真珠姫の様子が怖かった。
常は朗らかに甘やかにわたしを愛しんでくれるお母様。
そのお母様が一切の表情を無くし、まるで人形のようにソファに腰かけ、ガラス玉のような空虚な瞳で窓の外を眺めている。
普段は優しいお母様が本家屋敷に行かれたときに限って起こる、その現象にわたしは言いようもない不安と怒りを抱いていた。
本家の人間への疑心なのか、お母様への不満なのか。それはわからない。
ただ、お母様が本家屋敷に呼ばれる日を酷く厭うていた。
本家屋敷からの繰り返される呼び出しの日々を嫌悪しながらも、それはわたしの日常だった。
そんな中である日、お母様は玄関ホールに辿り着くなり、その場に崩れるように倒れた。
慌てて駆け寄った家令や執事、メイド達が、力の入らないお母様を抱え、お母様の自室へと運んで行く。
崩れ落ちたお母様の蒼白なお顔と、そこに浮かぶ絶望と苦悶の表情。
弛緩した指先が、使用人に抱えられて振り子のようにぶらぶらと揺れる様子を、わたしはメイドの一人に手を繋がれて眺めていた。
その日の夜、お母様は珍しくお父様と話し合いの場を設けようとされた。
お父様が帰宅するなり、お母様に知らせるよう、またお父様に時間の都合をつけるよう執事に申し付けていた。
その話し合いは結局為されたのか、為されなかったのか。それは覚えていない。
お父様の帰宅はいつも深夜近くだったから、子供のわたしは既に床に就いていたのだろう。
そしてその翌朝から、お母様は本家屋敷の呼び出しに関わらず、屋敷の外へ出かけるようになった。
わたしも連れて行ってくれるよう頼んだけれど、困ったようなお顔をされて、「もう少し待っていて」と頭を撫でられた。
「いい子にしていたら、近く二人でお買い物に出かけましょう」と微笑まれ、わたしはいい子に待っていることを約束した。
そうしてお母様の連日の外出を屋敷で待つ日々が過ぎ、お母様がわたしを誘った。「二人きりでお出掛けしましょう」と。
お母様は悪戯っぽく、白く滑らかで華奢な指を唇に当て、少女のように微笑まれた。
「誰にも内緒よ」と。
わたしは浮かれた。
久しぶりにお母様と二人きり。それもお買い物。
どこへ連れて行ってもらおう。何を買ってもらおう。前夜はわくわくして眠れなかった。
翌朝、当然屋敷の馬車に乗るのだろうと思っていたわたしは、お母様が厩舎に向かうのではなく、徒歩で屋敷を出ようとすることに驚いた。
「お母様、馬車に乗らないの?」
お母様はにっこりと笑って、わたしの手を引いた。
「誰にも内緒と言ったでしょう? 今日はね、屋敷の者皆に内緒なのよ。使用人達もまだ眠っていたでしょう」
そうなのだ。
毎朝メイドに起こされるわたしは、まだ日も昇らぬ早朝に、お母様が部屋へと入ってきたことに、まずとても驚いた。
お母様に着替えを手伝ってもらいながら、しんと静まり返る屋敷に違和感を持った。
普段なら、どんなに朝早くても、またどんなに夜遅くても、使用人の誰か一人は起きているはずだった。
お母様とわたし以外、誰もが寝静まる屋敷をこっそりと抜け出し、薄暗い外を歩いている。
徒歩で移動などしたことのないわたしは、途方もなく不安になった。
「でもお母様、馬車がなくては遠くへは行けないわ。今日はお買い物へ出掛けるのではなかったの?」
ベッドに横になりながら、お母様とどこに行くのか、あれこれ想像してはそのまま幸せな夢へと眠りについたのに、その幸せな夢は叶いそうもなく、今は不穏な空気を纏っている。
お母様は手にした大きなトランクを一度、脇に置き、わたしの眉間をつん、と指で突いた。
「あたくしの可愛い子。せっかくの美人さんが台無しになってしまうわ。さあ笑って」
眉間に皺を寄せていたことを指摘され、わたしは額に手を当てた。
「大丈夫よ。その角を曲がったら、とっても立派な馬車があたくし達を待っているわ」
果たしてそれは、本家屋敷の所有する馬車よりもずっと立派な馬車であった。
そうだ。
あの頃はまだ、真珠姫はわたしのお母様で、お父様とは子供の目から見ても他人行儀に――使用人とお嬢様の関係に――映っていたけれど、それでも真珠姫はウォールデンの分家屋敷に昼夜留まっていた。
屋敷を不在にするときは、本家の者からの呼び出しを受けるときだけ。
本家屋敷からの呼び出しは、頻繁であったように思う。
幼かった頃のことだから、正確にはわからない。
ただそのとき以外は、ずっとわたしだけの優しいお母様だった。
真珠姫との二人きりのお出掛けより、少し遡ったある日。
いつものように本家屋敷から呼び出された真珠姫が、打ちのめされた様子で、真っ青な顔で家に戻ってきた。
本家屋敷に呼び出された日はいつも、帰宅するなり人を遠ざけ、真珠姫はしばらく表情を無くしたように屋敷のティールームで一人ぼんやりと過ごすのが常だった。
わたしはそんな真珠姫の様子が怖かった。
常は朗らかに甘やかにわたしを愛しんでくれるお母様。
そのお母様が一切の表情を無くし、まるで人形のようにソファに腰かけ、ガラス玉のような空虚な瞳で窓の外を眺めている。
普段は優しいお母様が本家屋敷に行かれたときに限って起こる、その現象にわたしは言いようもない不安と怒りを抱いていた。
本家の人間への疑心なのか、お母様への不満なのか。それはわからない。
ただ、お母様が本家屋敷に呼ばれる日を酷く厭うていた。
本家屋敷からの繰り返される呼び出しの日々を嫌悪しながらも、それはわたしの日常だった。
そんな中である日、お母様は玄関ホールに辿り着くなり、その場に崩れるように倒れた。
慌てて駆け寄った家令や執事、メイド達が、力の入らないお母様を抱え、お母様の自室へと運んで行く。
崩れ落ちたお母様の蒼白なお顔と、そこに浮かぶ絶望と苦悶の表情。
弛緩した指先が、使用人に抱えられて振り子のようにぶらぶらと揺れる様子を、わたしはメイドの一人に手を繋がれて眺めていた。
その日の夜、お母様は珍しくお父様と話し合いの場を設けようとされた。
お父様が帰宅するなり、お母様に知らせるよう、またお父様に時間の都合をつけるよう執事に申し付けていた。
その話し合いは結局為されたのか、為されなかったのか。それは覚えていない。
お父様の帰宅はいつも深夜近くだったから、子供のわたしは既に床に就いていたのだろう。
そしてその翌朝から、お母様は本家屋敷の呼び出しに関わらず、屋敷の外へ出かけるようになった。
わたしも連れて行ってくれるよう頼んだけれど、困ったようなお顔をされて、「もう少し待っていて」と頭を撫でられた。
「いい子にしていたら、近く二人でお買い物に出かけましょう」と微笑まれ、わたしはいい子に待っていることを約束した。
そうしてお母様の連日の外出を屋敷で待つ日々が過ぎ、お母様がわたしを誘った。「二人きりでお出掛けしましょう」と。
お母様は悪戯っぽく、白く滑らかで華奢な指を唇に当て、少女のように微笑まれた。
「誰にも内緒よ」と。
わたしは浮かれた。
久しぶりにお母様と二人きり。それもお買い物。
どこへ連れて行ってもらおう。何を買ってもらおう。前夜はわくわくして眠れなかった。
翌朝、当然屋敷の馬車に乗るのだろうと思っていたわたしは、お母様が厩舎に向かうのではなく、徒歩で屋敷を出ようとすることに驚いた。
「お母様、馬車に乗らないの?」
お母様はにっこりと笑って、わたしの手を引いた。
「誰にも内緒と言ったでしょう? 今日はね、屋敷の者皆に内緒なのよ。使用人達もまだ眠っていたでしょう」
そうなのだ。
毎朝メイドに起こされるわたしは、まだ日も昇らぬ早朝に、お母様が部屋へと入ってきたことに、まずとても驚いた。
お母様に着替えを手伝ってもらいながら、しんと静まり返る屋敷に違和感を持った。
普段なら、どんなに朝早くても、またどんなに夜遅くても、使用人の誰か一人は起きているはずだった。
お母様とわたし以外、誰もが寝静まる屋敷をこっそりと抜け出し、薄暗い外を歩いている。
徒歩で移動などしたことのないわたしは、途方もなく不安になった。
「でもお母様、馬車がなくては遠くへは行けないわ。今日はお買い物へ出掛けるのではなかったの?」
ベッドに横になりながら、お母様とどこに行くのか、あれこれ想像してはそのまま幸せな夢へと眠りについたのに、その幸せな夢は叶いそうもなく、今は不穏な空気を纏っている。
お母様は手にした大きなトランクを一度、脇に置き、わたしの眉間をつん、と指で突いた。
「あたくしの可愛い子。せっかくの美人さんが台無しになってしまうわ。さあ笑って」
眉間に皺を寄せていたことを指摘され、わたしは額に手を当てた。
「大丈夫よ。その角を曲がったら、とっても立派な馬車があたくし達を待っているわ」
果たしてそれは、本家屋敷の所有する馬車よりもずっと立派な馬車であった。
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