憤慨

ジョン・グレイディー

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第二十四章

「高貴の微笑み」は暗闇に現れる。

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 今でも時々感じることがある。
 熊本地震の余震の響きを。

 余震は1ヶ月以上も続いた。

 本当に黒雲から鳴り響く雷鳴のようであった。

 稲光のような高音で眩しい恐怖ではなく、ゴロゴロと低音で暗黒からの響き。

 激しい揺れよりも、その何か得体の知れない怪物の唸り声に恐怖を感じた。

 毎日、毎日、その余震が続く。

 この地の人々が未来へ決して目を向けないよう、現実の天災に愕然と佇むよう、神が、天が、悪魔が力で捩じ伏せにかかったかのように…

 あの時、確かに、途方に暮れるしかなかった…

 あの時、確かに、未来を見るのがおこがましく思え…

 仕方なく、ただ、仕方なく、恐怖の現実から逃れる為、過去に遡及しようとした…

 決して自慢できるような過去でないなら、奇しくも不幸に覆われた過去であるならば、おこがましさはなく、恐怖に慄く、弱者が見る映像としては、至極、適当な物に思えた。

 あの3階書庫で見た、天井の穴から笑みを浮かべ、俺を見下す、奴の笑顔…

 俺の頭の上から、高い所から、わざわざ、俺を見下す!

 俺とは生まれも育ちも違うと言わんばかりに…

 俺とは格も品位も違うと言わんばかりに…

 昔の女が暗闇から顔を覗かせ、不幸に見舞われ、恐怖に慄きながら、崩れた瓦礫の中で踠き苦しんでいる俺を…

 それが予想どおりであった事、

 俺から消え去った事が正しかった事、

 それを敢えて確かめるように、何万年に一度訪れる天災、大地震に誘われ、暗闇の更に暗闇から、わざわざ、顔を覗かせている…

 何故、いつも、奴は笑っているのか?

 何故、いつも、奴は幸福なのか?

 光と影

 何故、いつも、奴に光が当たるのか?

 何故、いつも、俺は、その影に居るのか?

 あまりこの関係は話したくない…

 ただ、この巨大地震に連れられて、この幻想、幻影が、俺に忍び寄って来たのは事実である。

 過去のトラウマが覚醒したかのように、急に牙を剥いて来た。

 原因は何か?

 かつてない、経験した事のない、巨大地震という天災を被り、精神的に衰弱した…

 加えて、東京勤務の時から、「鬱」が活性化していた。

 さらに、息子の突然の自殺も俺の精神に限りなく大きな負担を掛けていたことは間違いない。

 当然、不眠症は強烈になっていた。

 抗うつ薬、安定剤、睡眠導入剤、睡眠継続剤、睡眠薬等々、服用量は、この時、医者の指示の倍の量を勝手に服用していた。

 酒量も増え、これら危険薬物を酒のツマミに毎晩、毎晩、泥酔するほど、浴びるように酒を飲む毎日、そんな日々を送っていた。

 胃潰瘍、大腸のポリープも放置したまま、飲み続けた。

 三日に一度は吐血、下血し、コールタールのような血を吐きまくり、体重は10キロ近く減っていた。

 時々、朝、目覚めると衣服に泥が付いていた。

 夜な夜な徘徊した痕跡が明確な事実として俺の視界に入っているのに、その記憶は全くない…

 気分はいつも気怠く、いつも苛立ち、いつも哀しかった。

 早く死にたいと思うなどは、遠の昔に通り過ぎ、希死念慮に駆られ、社宅に居る時、記憶のある時、いつも包丁を握りしめていた。

 何故、死ぬことができないのか?

 どうして死ななかったのか?

 あの微笑み、あの幸福顔、あの上から目線、あの軽蔑した眼差し…

 俺から消え去った腐れ女への怒りが、俺の逃亡を抑えていた!

 どん底にある者は、何を考えるか?

 先も言ったように、前は向かない、未来は見ない!

 後ろを振り返るのだ!

 それも今まで避けていた、決して戻りたくない悲惨な過去を見ようとするのだ!

 何故?

 今、現在よりも、不幸であった過去、それを経験した事実を、今の不幸に打ちつけるのだ!

 カースト制度と同じだ!

 俺より賤しい俺を探してくるのだ!

 そして、今の俺は安堵する。

 前よりはマシだと…

 あの女は俺を騙したのか?

 あの女は俺を裏切ったのか?

 何故、そこに拘るか?

 騙されたのと、裏切られたのでは、傷の程度が異なってくるからだ!

 騙す…

 そもそも、俺に気がないのに近づき、俺をその気にさせ、散々弄び、最後は辛辣に置き去る。

 裏切る…

 決して、嫌いではなかったが、第三者等の陰謀等により、結局、翻り、俺を見捨てる。

 答えはどっちだ!

 簡単な事だ!

 裏切った奴は微笑まない!

 微笑む奴は、騙した奴だ!

 俺は騙されたのか…

 奴との共有した空間は、実は虚無で覆われていた、見せかけの幸福感であったのか?

 何故、俺は奴の餌食となったのか?

 恰好の鴨に見えていたのか?

 俺が何をした?

 俺が一体、お前に何をした?

 どんな悪い事をしたのか?

 俺の存在自体が邪魔だったのか?

 騙された奴が鈍臭いだけで、騙された俺が悪いのか?

 こんな感じで、こんな風に、俺は毎晩、自問自答を繰り返し、見えない敵、見えない過去に対し、暗闇に向かい、怒りの拳を叩き込んでいた。

 朝起きると、徘徊した痕跡の服の汚れと共に、右手の拳が腫れ上がり、紫色に内出血していた事が度々あった。

 俺は奴を殴っていた!

 暗闇から、天井から、俺を見下し、俺を嘲笑う、あの女を殴っていたのだ!

 どんなに殴っても奴は消えない。

 恐怖と共に再訪して来る。

「鬱」を伴い…

    哀しみ、焦りが無気力に変わり、そして、やがて、それは恐怖へと変わる…「鬱」を伴い。

 そう!

 あの3階書庫の天井の暗闇の暗闇の中に初めて見たのではないんだ!

 巨大地震が起こる前から、奴の片鱗、輪郭は朧気に黒い影として、俺の視覚、俺の幻想しか見ない視覚に現れていたのだ。

 そして、遂に巨大地震が、その覆われた鋼鉄の柩を粉々に崩し、その中に寝かして置いた、俺の記憶の屍を、ゾンビのように生き返らせた。

 誰が見ても幸せそうで、満足そうで、俺とは格の違う、高貴な女性。

 東南アジアを植民地とし、現地民族の子供に飴玉を、まるで鳩に餌をあげるように放り投げているフランス貴婦人。

 その位の格差。

 どうしようもない…

 この話はここまでとしよう…

    今日はここまでだ…

    かなり疲れた。

 かなりエネルギーを浪費した。

 今は見ないのかって?

 一線を引いた、老ぼれ漁師、ストレスの無い海原には、奴の微笑みは映らない。

 それは映らないだけだ!

 光のある場所では見えないだけだ!

「高貴の微笑み」は、光そのものだ!

 光を存在付けるのは、暗闇なんだよ…

 暗黒と暗闇に「高貴の微笑み」は姿を現す。

 また、現れる。

 俺が恐怖に平伏した時、「高貴の微笑み」は過去のトラウマとして俺に襲いかかる。

 必ず…

 俺を上から見下すように…
    
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