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6.心の扉を開いて
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翌朝から積極的にみんなに声をかけることにした。今までは自分の殻に閉じこもって自分から挨拶をするという当たり前のことすら疎かにしていた。お父様もお母様も挨拶を忘れることは礼儀を失することだと言っていた。
「おはようございます。侍女長」
「おはよう。アン」
「おはようございます。料理長」
「おう、アン。おはよう」
声をかければみんな笑顔で返してくれる。その笑顔にホッとする。どうしてこんな大切なことを忘れていたのだろう。
「おはようございます。ルナさん。昨日はありがとうございました」
ルナにも笑顔で挨拶をした。するとルナは目を丸くした後破顔した。
「おはよう。私のことはルナでいいよ。畏まった話し方は肩がこるからね。あんたのこともアンって呼んでいい?」
「はい。そうしてくださ……そうして、ルナ」
「アン。あんた笑うと可愛いよ。いつも俯いてばかりで勿体ないと思ってたんだ。それと昨日はキツイい方をして悪かった。私もアンが元貴族だからって色眼鏡で見ていたかもしれない。ごめん」
「ううん。でも、ありがとう」
(そうだ。これからは自分の居場所は自分で作らなくちゃ)
幸いエヴァは自分たちの生活基盤を作るのに忙しくてジリアンのことは放置しているので、最近は無意味な掃除のやり直しなどはない。それからルナとはすっかり仲良くなり、休憩中にいろいろな話をするようになった。
「アンは両親を亡くして苦労していたんだね。でも親の顔を知っているだけでも羨ましいよ。私は物心つく前に流行り病で両親が死んで顔を覚えていないんだ。その後はずっと孤児院で育った。だから私にとっての家族は孤児院の仲間ってことになるかな」
「ルナも大変だったのね」
「そんなことないよ。みんな多かれ少なかれ苦労はするもんだろう?」
「そうね」
ジリアンはそんなことにすらなかなか気づけなかった。自分が豊かな暮らしをしている自覚すらなかった。それを今恥ずかしく思う。
「私、本当はアンとずっとおしゃべりしてみたかったんだ。歳も近いし仲良くなれると思ってた」
「ありがとう。嬉しい」
照れながらルナがそう言う。もっと周りをよく見ていればみんなの優しさに早く気付けたかもしれない。ルナと仲良くなってからは他の使用人たちも気さくに話しかけてくれる。おかげで孤独だと感じることはなくなった。
ルナはいつも笑顔だけど、その裏には苦労や苦しみがある。それを表に出さない強い心が眩しかった。自分もそうなりたい。自分だけが不幸じゃない。いろいろな境遇があってみんな頑張っているじゃないか。
ルナはジリアンの知らないことをいろいろ教えてくれる。世間の流行の話も噂話も掃除のコツだって話してくれる。気の置けない友人とはルナのことだと思った。今ではどんな仕事も苦ではなくなった。働いて糧を得る。それはジリアンの心を豊かにしていった。
今エヴァはイヴリンを社交界デビューさせるための準備に追われている。連日仕立て屋を呼んでは注文を付けている声が聞こえていた。ドレスのデザインが決まらないせいでイヴリンは機嫌が悪い。さっきはジリアンが掃除を終えたホールに泥のついた靴で入って来て汚して去っていった。
溜息を呑み込んでもう一度掃除を始める。イヴリンはジリアンより一歳年上だが行動がまるで年下のようだ。
(こんなこと大した嫌がらせじゃないわ。気にしたら駄目よ)
その日は二階の窓ガラスを磨いていた。綺麗に光を反射するガラスに満足し片付け始める。その時、窓から見える庭の奥が騒がしく感じた。目を凝らして見れば何かを燃やしているようでエヴァが下男に指示をしている。煙がモクモクと立ちのぼっている。一体何を燃やしているのかと下男の手に視線を移せばそれは大きな額縁だった。
(そんな! どうして!)
ジリアンの頭の中は真っ白になったが体は急くように階段を下り庭に向かった。
「お願いです。それを燃やさないで。伯母様。お願いです!」
エヴァに縋りつき必死に頼む。燃えているのはジリアンの両親の肖像画だった。記念日の度に絵描きを呼んで描いてもらっていた。自分も一緒も描かれている物もある。よく見れば両親の手紙や手帳などもある。ジリアンにとっては大切な形見だ。使用人部屋に持って行くことも許されなかったそれらが目の前で燃やされようとしている。取り返そうとしたらエヴァがジリアンの頬を強く打った。ジリアンは頬を押さえ呆然とエヴァを見る。
「伯母様ではないでしょう。奥様と呼びなさいと言ったはずです。それにお前は使用人だがら家の不用品の処分に口を出す権利はないのよ。こんなものゴミよ。それよりもお前は仕事を放り出してきたのね? 今日は食事抜きよ。分かったらさっさと仕事に戻りなさい」
冷ややかなエヴァの顔を見ればやめる気がないのは明らかだ。ジリアンは燃え続ける肖像画を目に焼き付け仕事に戻った。ホールの床を磨くために腕を動かす。でも涙が止まらない。拭いても涙が床を汚してしまう。
「うっ……おとうさま……おかあさま……」
ようやく仕事が終わり屋根裏部屋に戻った。食欲は全くなかったので食事が抜きなことは気にならない。悲しいことを数えたくないのに、昼間の燃えていく両親の肖像画が頭から離れない。仕事で忙しく家を空けている時にジリアンに宛てた手紙もあった。肖像画の絵を描かれた日は両親の結婚記念日だった。お父様は照れくさそうにしていてお母様は念入りにお化粧をして……二人は幸せな笑みを浮かべてポーズを取っていた。それを幼かったジリアンはキラキラとした目で眺めていた。
(伯母様はどうしてこんなに酷いことをするの)
ジリアンの手には何も残らなかった。屋根裏部屋に連れてこられた時に私物は全て取り上げられていた。両親から贈られたプレゼントもなにもかも。それが辛い。心には思い出がある。でも何か一つくらいは持っていたかった。
ルナや他の使用人の話だとお母様やお父様の服、宝石なども売って新しいものを購入しているらしい。屋敷の掃除をしていれば嫌でも気づく。家具などもすべて新しいものに入れ替わっている。ジリアンの知っている屋敷ではなくなっていた。もうカーソン侯爵邸はエヴァやバナン、イヴリンのものなのだ。思い出を探すことすらできない。庭の花ですら入れ替えてしまっている。母の大好きだったパンジーの花はどこにもない。代わりにむせ返るような香りの薔薇が植えられていた。
トントン。
「はい」
屋根裏に来る人間はほとんどいない。一体誰なのかと思いながら頬に残っている涙を拭い扉を開ける。
「侍女長……どうされたのですか?」
「アン。これを」
侍女長はお盆にコップを運んできた。濡れたタオルも一緒にある。
「あの?」
「アン。昼間のことは気の毒に思います。気を落とすなと言っても難しいでしょう。せめてこれを渡したくて持ってきました。見つからないように仕舞っておきなさい」
侍女長はそう言うと自分のエプロンからハンカチを取り出しジリアンの手に渡した。ハンカチを広げて息を呑んだ。
「あ……このハンカチは……」
「明日も早くから仕事です。早く休みなさい」
「はい。ありがとうございます!」
嬉しくて思わず侍女長を抱き締めた。侍女長は目を細め柔らかい笑みを浮かべるとジリアンをそっと抱きしめ返す。そして離れると部屋を出ていった。ジリアンはハンカチを握りしめ胸に抱きしめた。再び涙が頬を伝う。でもこの涙は嬉しい涙だ。
このハンカチにはパンジーの刺繍がされたている。母が結婚前に父に贈ったプレゼント。もちろん母が刺繍を刺したものだ。父は大切な宝物だと額に入れて書斎に飾っていた。
(大切な、お父様とお母様の思い出……。ああ、侍女長ありがとうございます)
侍女長はこれが大事なものだと感じてこっそり隠して持って来てくれたのだろう。エヴァに見つかれば叱責を受けるのにジリアンのために危険を冒してまで持って来てくれた。
これがあれば十分だ。だって思い出だけじゃない。侍女長の優しさが込められている。あとの両親の思い出は全部ジリアンの心の中に仕舞っておこう。
お盆をの上のカップにはホットミルクが入っていた。手に取りフーフーと冷まし口を付ける。
「ああ、美味しい」
蜂蜜が入ったミルクが胃に優しく滲みていく。ゆっくりと飲み干すと体がじんわりと温まる。
(お父様、お母様、今日はいいことがあったのよ。たくさんの思い出が燃やされてしまったのは悲しいけど、侍女長が大切なハンカチを守ってくれたの。これだけあれば充分よね? 私幸せだわ)
ジリアンはハンカチを丁寧にたたんで引き出しの奥にしまった。ホッと息を吐き侍女長が用意してくれた濡れたタオルを目に当てベッドに横になった。
自分は一人じゃない。心配してくれる人がいる。優しくしてくれる人がいる。それはジリアンの心を強くした。
「おはようございます。侍女長」
「おはよう。アン」
「おはようございます。料理長」
「おう、アン。おはよう」
声をかければみんな笑顔で返してくれる。その笑顔にホッとする。どうしてこんな大切なことを忘れていたのだろう。
「おはようございます。ルナさん。昨日はありがとうございました」
ルナにも笑顔で挨拶をした。するとルナは目を丸くした後破顔した。
「おはよう。私のことはルナでいいよ。畏まった話し方は肩がこるからね。あんたのこともアンって呼んでいい?」
「はい。そうしてくださ……そうして、ルナ」
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「ううん。でも、ありがとう」
(そうだ。これからは自分の居場所は自分で作らなくちゃ)
幸いエヴァは自分たちの生活基盤を作るのに忙しくてジリアンのことは放置しているので、最近は無意味な掃除のやり直しなどはない。それからルナとはすっかり仲良くなり、休憩中にいろいろな話をするようになった。
「アンは両親を亡くして苦労していたんだね。でも親の顔を知っているだけでも羨ましいよ。私は物心つく前に流行り病で両親が死んで顔を覚えていないんだ。その後はずっと孤児院で育った。だから私にとっての家族は孤児院の仲間ってことになるかな」
「ルナも大変だったのね」
「そんなことないよ。みんな多かれ少なかれ苦労はするもんだろう?」
「そうね」
ジリアンはそんなことにすらなかなか気づけなかった。自分が豊かな暮らしをしている自覚すらなかった。それを今恥ずかしく思う。
「私、本当はアンとずっとおしゃべりしてみたかったんだ。歳も近いし仲良くなれると思ってた」
「ありがとう。嬉しい」
照れながらルナがそう言う。もっと周りをよく見ていればみんなの優しさに早く気付けたかもしれない。ルナと仲良くなってからは他の使用人たちも気さくに話しかけてくれる。おかげで孤独だと感じることはなくなった。
ルナはいつも笑顔だけど、その裏には苦労や苦しみがある。それを表に出さない強い心が眩しかった。自分もそうなりたい。自分だけが不幸じゃない。いろいろな境遇があってみんな頑張っているじゃないか。
ルナはジリアンの知らないことをいろいろ教えてくれる。世間の流行の話も噂話も掃除のコツだって話してくれる。気の置けない友人とはルナのことだと思った。今ではどんな仕事も苦ではなくなった。働いて糧を得る。それはジリアンの心を豊かにしていった。
今エヴァはイヴリンを社交界デビューさせるための準備に追われている。連日仕立て屋を呼んでは注文を付けている声が聞こえていた。ドレスのデザインが決まらないせいでイヴリンは機嫌が悪い。さっきはジリアンが掃除を終えたホールに泥のついた靴で入って来て汚して去っていった。
溜息を呑み込んでもう一度掃除を始める。イヴリンはジリアンより一歳年上だが行動がまるで年下のようだ。
(こんなこと大した嫌がらせじゃないわ。気にしたら駄目よ)
その日は二階の窓ガラスを磨いていた。綺麗に光を反射するガラスに満足し片付け始める。その時、窓から見える庭の奥が騒がしく感じた。目を凝らして見れば何かを燃やしているようでエヴァが下男に指示をしている。煙がモクモクと立ちのぼっている。一体何を燃やしているのかと下男の手に視線を移せばそれは大きな額縁だった。
(そんな! どうして!)
ジリアンの頭の中は真っ白になったが体は急くように階段を下り庭に向かった。
「お願いです。それを燃やさないで。伯母様。お願いです!」
エヴァに縋りつき必死に頼む。燃えているのはジリアンの両親の肖像画だった。記念日の度に絵描きを呼んで描いてもらっていた。自分も一緒も描かれている物もある。よく見れば両親の手紙や手帳などもある。ジリアンにとっては大切な形見だ。使用人部屋に持って行くことも許されなかったそれらが目の前で燃やされようとしている。取り返そうとしたらエヴァがジリアンの頬を強く打った。ジリアンは頬を押さえ呆然とエヴァを見る。
「伯母様ではないでしょう。奥様と呼びなさいと言ったはずです。それにお前は使用人だがら家の不用品の処分に口を出す権利はないのよ。こんなものゴミよ。それよりもお前は仕事を放り出してきたのね? 今日は食事抜きよ。分かったらさっさと仕事に戻りなさい」
冷ややかなエヴァの顔を見ればやめる気がないのは明らかだ。ジリアンは燃え続ける肖像画を目に焼き付け仕事に戻った。ホールの床を磨くために腕を動かす。でも涙が止まらない。拭いても涙が床を汚してしまう。
「うっ……おとうさま……おかあさま……」
ようやく仕事が終わり屋根裏部屋に戻った。食欲は全くなかったので食事が抜きなことは気にならない。悲しいことを数えたくないのに、昼間の燃えていく両親の肖像画が頭から離れない。仕事で忙しく家を空けている時にジリアンに宛てた手紙もあった。肖像画の絵を描かれた日は両親の結婚記念日だった。お父様は照れくさそうにしていてお母様は念入りにお化粧をして……二人は幸せな笑みを浮かべてポーズを取っていた。それを幼かったジリアンはキラキラとした目で眺めていた。
(伯母様はどうしてこんなに酷いことをするの)
ジリアンの手には何も残らなかった。屋根裏部屋に連れてこられた時に私物は全て取り上げられていた。両親から贈られたプレゼントもなにもかも。それが辛い。心には思い出がある。でも何か一つくらいは持っていたかった。
ルナや他の使用人の話だとお母様やお父様の服、宝石なども売って新しいものを購入しているらしい。屋敷の掃除をしていれば嫌でも気づく。家具などもすべて新しいものに入れ替わっている。ジリアンの知っている屋敷ではなくなっていた。もうカーソン侯爵邸はエヴァやバナン、イヴリンのものなのだ。思い出を探すことすらできない。庭の花ですら入れ替えてしまっている。母の大好きだったパンジーの花はどこにもない。代わりにむせ返るような香りの薔薇が植えられていた。
トントン。
「はい」
屋根裏に来る人間はほとんどいない。一体誰なのかと思いながら頬に残っている涙を拭い扉を開ける。
「侍女長……どうされたのですか?」
「アン。これを」
侍女長はお盆にコップを運んできた。濡れたタオルも一緒にある。
「あの?」
「アン。昼間のことは気の毒に思います。気を落とすなと言っても難しいでしょう。せめてこれを渡したくて持ってきました。見つからないように仕舞っておきなさい」
侍女長はそう言うと自分のエプロンからハンカチを取り出しジリアンの手に渡した。ハンカチを広げて息を呑んだ。
「あ……このハンカチは……」
「明日も早くから仕事です。早く休みなさい」
「はい。ありがとうございます!」
嬉しくて思わず侍女長を抱き締めた。侍女長は目を細め柔らかい笑みを浮かべるとジリアンをそっと抱きしめ返す。そして離れると部屋を出ていった。ジリアンはハンカチを握りしめ胸に抱きしめた。再び涙が頬を伝う。でもこの涙は嬉しい涙だ。
このハンカチにはパンジーの刺繍がされたている。母が結婚前に父に贈ったプレゼント。もちろん母が刺繍を刺したものだ。父は大切な宝物だと額に入れて書斎に飾っていた。
(大切な、お父様とお母様の思い出……。ああ、侍女長ありがとうございます)
侍女長はこれが大事なものだと感じてこっそり隠して持って来てくれたのだろう。エヴァに見つかれば叱責を受けるのにジリアンのために危険を冒してまで持って来てくれた。
これがあれば十分だ。だって思い出だけじゃない。侍女長の優しさが込められている。あとの両親の思い出は全部ジリアンの心の中に仕舞っておこう。
お盆をの上のカップにはホットミルクが入っていた。手に取りフーフーと冷まし口を付ける。
「ああ、美味しい」
蜂蜜が入ったミルクが胃に優しく滲みていく。ゆっくりと飲み干すと体がじんわりと温まる。
(お父様、お母様、今日はいいことがあったのよ。たくさんの思い出が燃やされてしまったのは悲しいけど、侍女長が大切なハンカチを守ってくれたの。これだけあれば充分よね? 私幸せだわ)
ジリアンはハンカチを丁寧にたたんで引き出しの奥にしまった。ホッと息を吐き侍女長が用意してくれた濡れたタオルを目に当てベッドに横になった。
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