夏草の露

#2 手紙

　草をかきわける音が少し先を行く。
　その音を頼りに追いかける。
　暗くて姿はほとんど見えないし、足元は背の高い下草や木の根に阻まれてとても歩きにくい。
　たださっきあんなことを言われた手前、ライトを点けちゃマズそうなんだよね。
　何度もつまずきながら、少年の移動する音を一生懸命追い続ける。
　目が暗さに慣れてくると、少年が時折立ち止まり振り返っては僕の様子を気にしてくれているのがわかる。
　彼が本気を出したら追いつけないだろうな。
　しかしこの少年いったい何者？
　トリーが言っていたツアーとやらの参加者なんだろうか。
　わ、スピードをあげやがった。見失わないようにしないと。

　しばらく森の中を移動し続ける。
　森は表情を変え、前方の闇がわずかだがほんのり淡くなる。
　さらに進むと森は唐突に終わり、ぽっかりとひらけた空間が現れた。
　ホラーランドの外周付近か？
　森と空間の境界には高さ二メートルほどの壁が延々と続いており、近づいてみるとそれはフェンスに植物が絡みついているものだとわかる。
　植物を少しかき分けてフェンスの向こう側を覗いてみると、少し離れたところにもっと大きな壁が黒々と見える。
　その壁を越えた向こうに何かの――アトラクションの先端？
　ホラーランドの敷地にもう足を踏み入れてしまっているのかと考えると妙に緊張する。
「ここをよじ登るのかい？」
　僕が小声で尋ねると、少年は静かに肯うなずいた。
「でもヤツラは時々見回りしているから、かち合わないようにしないと、です」
　また「ヤツラ」か。
　なんなんだ。
　少年がその語を発するたび、トリーがヤツラってのに捕まっているシーンを想像しちゃって心臓に良くないんだけど。
「ねぇ、そのヤツラってのがなんなのか、教えてくれないかい？」
「その前に……おにいさんはここへ何しに来たんですか？　ここがどういうとこなのか本当に知っているんですか？」
「累ヶ崎かさねがさきホラーランド、だよね。ここへは人を探しに来たんだ」
「ツアーに参加している人？」
「そうそう。ツアーだって言ってたな。廃墟のツアーって」
「男の人？　女の人？」
　少年は何かに怯えているのか焦っているのか、僕の回答を終わりまで聞かずに質問をかぶせてくる。
「女の人だよ」
「その人はここに来たことあった人？　オレの父ちゃんと母ちゃんはここに来たことがあったけど、ここがどこにあるのかは知らなかったって言ってました。今度のツアーも、昔来た時と同じで、窓の外が見えないバスで来たんです」
　その情報はネットにもあったな。
「すまない。その人が来たことがあるかどうかまでは聞いてないんだ」
　事実を答えたのだが、自分でも自分の回答に胡散臭さが漂っていることに気付く。
「ここの場所、おにいさんは知っていたんですか？　それとも、このツアーの関係者なんですか？」
　その質問に対し安易に答えて良いものなのだろうか。
　少年がヤツラという連中を警戒しているのは明らかだ。
　駐車場の門でこの少年と出会い、ここへ移動してくるまで、僕はトリーがヤツラに捕まっているかもしれないということばかり考えていた。
　だが今、新しい一つの考えが、僕の中に波紋を広げているのを感じている。
　トリーがヤツラの側に、何らかの事情で居たとしたら。
　だとしたら僕もそのヤツラの関係者ということにされてしまいかねない。
　そんな考えが脳裏を過ったのは、トリーからの手紙があまりにも不自然だったからだ。

『もしも私が帰ってくるのに三日以上かかったら、私のことは全て忘れて。』

　手紙の最初の一行。
　初めて読んだ時、思わず「ふっざけんなよ」と声に出してしまったくらい。
　忘れてってなんだよ。
　トリーが唐突なのはいつものことだけれど、その内容がいつもの唐突さとはまるで重さが違う。

『でも、きっと「ふっざけんなよ」って言うんだろうね。』

　ああ、言った。当たり前だろ。
　ただ、こうやって僕の反応を探りながら会話を続けようとする感じは、いつものトリーらしいなとも思えた。

『だからお願い。一つだけ聞いてください。私や、私を知っているという人が鏡を見せようとしても、絶対に見ないで。絶対に。』

　手紙はそれでおしまい。
　トリーは変なとこ真面目でおまけに頑固だから、冗談や悪戯でこんなのを書くタイプじゃない。
　ツッコミどころは多かったけど、それでも僕は手紙の内容を真面目に受け止めることにした。
　だって学生時代に出会ってから十年ちょっと、トリーから「お願い」なんて言葉が出てきたのは初めてだったから。
　そりゃいつも僕をあてにしているような気配は漂わせてはいるよ。
　「明日、〇〇に行こうと思っているんだ」なんてのは一種の出動要請みたいなもの。
　僕が「いいね」とか「一人で？」とか反応するのを待っていて、僕もわかっててまんまとその言葉に釣られて。
　でも明確に「お願い」なんて言葉にされたのは思い出せる限り初めてのこと。
　それに文面に敬語があったのも気になったし。
　まるで距離を置こうとしているみたいで、嫌だった。
　手紙を五回くらい読み返した僕はパソコンを立ち上げ、直前までトリーが作業していた痕跡を片っ端から探しはじめた。
　そしてブラウザの履歴の中に見つけたんだ。
　ここの場所と思われる座標が設定されたマップサイトと『累ヶ崎ホラーランド』という単語を。
　もちろん座標を入力してみた。
　表示されたのは山奥で、少し大きめの池みたいなものがあるだけ。
　廃墟なら廃虚で、もう少し痕跡がありそうなものだけどな。
　それでも、トリーが履歴を消さずにおいたことそれ自体がもうトリーからのＳＯＳのように思えて仕方なかったから、僕は出かける準備を始めたのだ。
　きっと日帰りでは済まないだろう。
　ツアーは今日明日の一泊二日と聞いている。手紙の三日という期限、これはツアー＋一日ということなのだろうか。
　帰れなくなる恐れがあるという前提で書いているよね。
　本当だったら僕は今頃出張一日目。
　仕事を終わらせた出張先でのんきに飲み屋にでも繰り出している頃だろうか。
　ところがどっこい僕はここに居る。
　もしも僕が考え過ぎていて、事件でも何でもなかったとしたら、僕はツアーの邪魔者になるだろう。
　まあその時は「台風が近づいてきてるから心配になって」とか保護者面して済まそう、そんな風に考えていた――現地に来るまでは。
　マップサイトでは池があるはずのここに、廃墟がちゃんと実在していた。
　どういう理由かはわからない。座標は間違えていないはずなのに――というのはとりあえず後回しだ。
　それよりも。
　こんな時間にこんな子どもが一人で廃墟周辺の森の中に居る。
　今ここでフツウではない何かが起きているのは間違いないよね、これ。
　問題はその起きている何か――事件だか事故だかの原因だ。
　トリーがこの場所を知っていたということ自体、主催者側に噛んでいる可能性は低くはない。
　状況が全くわからない中、ここで起きた何かについて知っていそうな少年からの信頼を失うのは、トリーにたどり着くためには避けたいことだ。
　かと言って急場しのぎの嘘でこの場をごまかしても結果的に良い方向へは進めない気もしてはいる。
　言葉を選ぼう。
「僕もね、このツアーに誘われていたんだ。でも、残念ながら仕事で来れなくって……だったんだけど、その仕事が急にキャンセルになってね。ほら、台風近づいているって聞いてない？　飛行機飛ばなくなっちゃったんだ」
　少年の両親はここに来たことがあって、そしてこのツアーに参加している。
　しかも当時と同じ方法で。
　ということは、全て秘密のミステリーツアーみたいなものではなく、この場所を訪れる前提でのツアーだということ。
　ネット上では「どこにあるかわからない」とされてはいるが、開園当時の関係者はゼロではないはずだし、そういう人経由で情報を持っている人が居てもおかしくはないはず。
　トリーは一応ライターなんて職業やっているし、情報を入手していても――なんてのは厳しい言い訳かな？
「で、僕を誘ってくれた人がね、もともとここの場所を知っていたみたいでね。手がかりを残していってくれてたから、その手がかりを追ってなんとかたどり着いたってわけ」
　そう告げると、少年はしばらく沈黙した。
「その人……その女の人は、おにいさんにとってどんな人？」
　そう来る？
　見た感じ恋愛よりゲームやマンガって感じの少年なのに、随分とませたこと聞いてくるんだな。
　しかも随分と答えづらいところを。

　トリーは僕にとって。
　友達以上恋人未満ってのは僕の強がり。ほんとは思いっきり惚れている。
　実は大学時代、一度だけ告白めいたことをトリーに伝えたことがあった。
　うまくはぐらかされて、やっぱダメかといったんは諦めた。
　でもトリーはその翌日からも相変わらず僕の近くにずっと居続けて、それでいて他に男を作るわけでもなく。
　夕飯は必ずうちに食べに来るし、パソコンも僕のを勝手に使うし、僕の帰りが遅いときは家の前でずっと待ってるし。
　自分の家があるんだよ？　一人暮らしの男の家だよ？　自分の着替えとかまで置いているんだよ？
　でも惚れてるから、そんな全部が嬉しい自分が切ない。
　僕が会社に勤めるようになって帰りの遅い日が続いたとき、それでも毎日ドア前で待っていたトリーを見かねてもう仕方ないから合鍵を渡した。
　ほぼルームシェア。というかトリーってば、自分の住んでたとこいつの間にか解約しちゃってないかってくらいうちに帰ってくるよな。
　家族くらい近くに居る。
　一緒に居る居心地は家族以上にいい。
　何度かは他の女の子と付き合ってみたこともあった。
　でもなぜか最後にはどの子も決まって言い出すんだ。自分よりもトリーの方を僕が大切にしているって。
　で、こじれて別れて。
　付き合ってはいないからイチャイチャとかはできないけれど、僕の人生からトリーが居なくなることの方が断然嫌だから、この距離感を失うのが怖くて二回目の告白はずっとしていない――なんて、こんな初対面の小学生相手に語ってもなぁ。
「大切な人、だよ」
　無難な答えになってしまったっていうのに、なんか手汗がすごい。
「じゃあ……もしも、おにいさんはその人を見れば……その人だってちゃんとわかりますか？」
　変な質問をするなと思った直後、手紙のことを思い出した。
　『私や、私を知っているという人が』って部分。
　トリーの手紙と、ホラーランドを調べて出てきた噂の一つとが、たった今リンクした。
　ミラーハウスの噂だ。『ミラーハウスから出てきたあと「別人みたいに人が変わった」』ってやつ。
　少年はその噂のことを知っているのだろうか。
　知らなかったのだとしたら、まさか何かを見たとか？