夏草の露

だんぞう

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#10 逃げなきゃ

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 怖い、というより、寒い。
 冷気がどんどん増してきているみたいだ。
 効き過ぎのクーラー並み。
 トワさんの声が若干震えているのは思い出した怒りのせいなのか、それともこの寒さのせいなのだろうか。
 また角を曲がる。
 この通路は床に何も落ちてないし壁も滑らかに連続しているせいか、暗闇の中を歩いているにも関わらず歩きやすさを感じてしまう。
 このまま早く通り抜けてしまいたい。
 何かを踏んだりとか、そういうイレギュラーなしに。
「あ、あたし、言ったんだ」
 トワさんの声がちょっと震えている。
「そうやって約束破る気なんだ、って。じゃあデータもDVDも適当なこと言ってコピーを隠し持ってたりするんでしょ、って……そしたらキチ野郎、さらにブチ切れ拡大させてさ。『自分は約束破るようなクソじゃないっ』とかって。変なプライド持ってんの。その後すぐだよ。キチ野郎、急にフラフラし始めて。キレた続きかと思ったけど、そうじゃないっぽいの。ドイツ語みたいなの喋り始めてね……瑛祐君も言ってたでしょ、無表情になるって。まさにあれ」
 ミラーハウスで別人になるとこ、生で見たのか。
「入り口から正面に見えた崖の上に古城建ってたでしょ。あれ、ドイツから移築したらしいんだよね。絶対ドイツに何か因縁があるって!」
 そして怒りが熱を帯びたのか、声の震えも消えている。
 ノリもいつものトワさんだ。
 いや「いつもの」とは言っても、出会ってからまだ本当に間もないんだけどさ。
 それにドイツに因縁ってのも、大事なのはその先だよね。ドイツってキーワードだけでは範囲が広すぎる。
 ここは電波がないから、気軽に検索もできないし。
「ミラーハウスで……トワさんは大丈夫だったの?」
「あ、心配してくれるの? 嬉しいなっ。あたしは……鏡の方からなんとなく視線感じてて……それが怖くて鏡は見ないようにしてたんだ。で、キチ野郎だけどね、フラフラしててさ。チャンスだと思ってキチ野郎の荷物からカメラとDVD奪って逃げたんだ。だいぶ距離が離れてから壊して女子トイレだった場所に捨てたんだけど、そういえば携帯型のハードディスクだけ奪ってないなって後で気づいて。本人が身につけて持ち歩いてんのかなって」
 それであの男を殴ったあと、何やらまさぐっていたのか。
「……殴ったあとさ、キチ野郎のズボンのポケットから見つけて奪い返したよ。あの時はもう夢中で……でもさ」
 トワさんが腕に強くしがみついてきた。
「ねぇ。人ってあれくらい殴っただけじゃ死なないよね? あたし、人殺しにはなりたくない」
 あれくらい殴っただけ?
 しかもあの連打で殺意なしとか別の意味で怖い。
 とはいえ事態の真相もちょっと見えたし、トワさんはエキサイトさせないように気をつければ危険性は抑えられるかもしれない。
「大丈夫だよ」
 そんな言葉も自然に出た。
 それでも完全な信用というのはしないように気をつけなきゃ、だけど。
 今までの人生に、こんなにも急激に距離を詰めてくるタイプは身近にが出会って来なかったから、何か企んでいるんじゃないかという想いが消えない。
「ありがと」
 トワさんの「ふふっ」という声が漏れ聞こえる。
 笑っているのか?
 そうだな。信用しきれないにしても、せっかく縮まった距離感の維持には気をつけた方がいいよね。
 少なくとも今は協力関係にあるのだし。
 ということで話を戻した。
「鏡からの視線ってのが気になるね」
 鏡への対策はできる限り準備しておきたい。
 何か予防になる手段があるのなら、講じない手はない。
 鏡がヤバいという現象が、ミラーハウス内に限った話なのか、それともホラーランド内の全ての鏡がヤバいのか。
 もしも後者ならこの水槽だってヤバかったりする?
「ひゃ……ちょっと……風悟さん……」
 トワさんが急に甘い声を出す。
 彼女はもう完全に僕の右腕を抱え込んでいて、さっきから気にしないようにしていた彼女の柔らかさが、その声のせいで一気に意識の中心に来てしまう。
「な、なに?」
「……こんなとこで……」
 何がこんなとこで、だって?
 一体何が起きている?
 僕はトリーに誓って何もしていませんが。
「こんなとこって」
「もう……敏感なとこ触ってきといてとぼけるの? それに手がすっごい冷たかったんだけど」
 彼女がそう言ったのと、ほとんど同時だった。
 僕の首筋を何かが撫でた。
 冷たい手で。
 それが合図でしたと言わんばかりに目眩めまいが僕を襲う。
 なんだ今の――全身に鳥肌が立つ。
 僕の体は何かを感じている。
 まさかヤツラがいつの間にか近づいていた?
 反射的にトワさんの手を離し、マグライトを点けた。
 小さな円形の部屋。
 その入り口に僕らは居た。
 背後には、話に聞いていた通りの水槽がジグザグ通路を形作っていて、部屋の反対側にも同じようなジグザグ通路が伸びている。
 水槽は表面の汚れが酷く、鏡と呼ぶのは無理だとすぐにわかるが、それでも三角に突き出た水槽の向こうにさらに一つ先の水槽がうっすらとは透けるくらいの透明度は残っている。
 動くものは、僕ら以外に人の姿どころか何一つ見あたらない――通路にも、水槽の中にも。
 光を素早く円形の部屋へと戻す。
 部屋の中央に小さな宝箱のオブジェがあるくらいで水槽自体はない。
 それくらいっちゃそれくらいなんだけど、宝箱の周囲に散乱している白骨が妙にリアルな印象は受ける。
「えっ?」
 二人同時に声を上げた。
 マグライトの光の中を、何か白いものが横切った――のを、二人とも見たってことだよね?
 僕は一瞬、それを白い魚だと思った。
 ちょっと大きめの白い金魚――でも空中を泳ぐ魚なんて居ないよね。
 どんな仕掛けなんだろうって考えた時、ようやく気付けた。
 それは魚なんかじゃなく、白い手だということに。
 人の、手首から先。
 指先から手首までは半透明、手首から先は闇の中に溶け込んでいる。
 その白い手越しに照らしている壁には、うっすらと手の影が。
「こ、こここここれ、アトラクション?」
 情けないくらいに自分の声が震えている。
「ししし、知らないっ! っていうか何か探してない?」
 トワさんの言う通り、空中に浮かぶ手はゆらり、ゆらりと何かを探しているようにも見える。
 その動きが僕の脳を揺さぶっているんじゃないかと思えるほど、目眩がどんどん酷くなってゆく。
「風悟さん、座り込んじゃダメ!」
 強い力で引っ張られる。
 彼女が両手で僕をつかんで向こう側の通路へと引きずり込む。
 確かにこんなところでしゃがんだらヤバい、そんなことは僕にだってわかる。
 平衡感覚がおかしくなりそうな頭痛の中、トワさんに引かれるまま僕も一生懸命について行く。
 第二のジグザグ水槽ゾーンを、トワさんの力強い牽引を頼りに走り続ける。
 灯りが点いているせいか走りやすい――とはいえ、何度も水槽に肩やら肘やら腰やらをぶつけてしまうのはこの酷い目眩のせい。
 水槽ゾーンを抜け、上りの螺旋階段までたどり着いたが、それでも足は止めない。
 何度も足がもつれて転びそうになるのを手まで使って上って上って上る。
 この階段、転びでもしたら、一番下まで転がり落ちちゃわないかな。
 そしたらあの白い手に捕まるのかな。
「風悟さん! 風が吹いてる!」
 不意に視界が開けた。
 トワさんの言う通り風が頬をでる。
 外へ出たのか?
 夜の森を揺らす風の音が緑の匂いを運んできて、鼻腔の奥にこびりついていた磯臭さを少しずつ削ってどこかへ持ち去って行く。
 さっきまであんなに酷かった目眩もようやく落ち着いてきたっぽい。
「……助かった……のかな?」
 トワさんは肩で息をしている。
 そしてふと何かに気付いたように笑った。
「なんか緊張で手が開かない」
 僕の手と彼女の手はいつの間にか指と指とを交差させ、しっかりと握られている。
 恋人繋ぎなんて、トリーともしていない。
「風悟さんも首、触られた? うーわ、まだ冷たい」
 彼女はつないでない方の手で自分の首に触れている。
 僕も、と、確認しようとして左手を見た時、マグライトの灯りが消えていることに気付いた。
「ちょっといい?」
 トワさんの手を再び放し、マグライトのスイッチを何度か入れてみるが灯りは点かない。
 階段昇っている途中でどこかにぶつけてしまったのだろうか。
 その前に水槽にもかなりぶつけてたもんな。
 というか壁の存在を叩いて確かめてたし。
 LEDは壊れないイメージがあってけっこう乱暴に扱ってたかもな。すまん。
「武器としてはまだ使えるじゃない……あ、あたしも帽子がなくなってる」
 そう言いながらトワさんはまた僕の手を取る。
 ぐっと近くなった彼女の頭から、月の光を含んだ長い髪が夜風と一緒に僕の方へたなびいている――って何ぼんやりと眺めちゃってんだ。
 緊張を解くにはまだ早い。
 慌てて周囲を確認しつつ小声で囁く。
「ここは目立つ。先ずは場所を移動しよう」
 目の前に見える岩山を模した大きな建造物。
 アクアツアーの『新大陸エリア』側の出入り口のちょうど真正面だから「サーキット・ゴールドラッシュ」かな。
 僕らはその入口へと走り、入ってすぐの擬岩オブジェの影に隠れてから耳を澄ました。
「風の音しか聞こえないね」
 あまりにも不可解なものと唐突に遭遇したから逃げることだけに神経がいっちゃって、見つからないようにっていう大前提がすっぽり抜け落ちていたかもしれない。
 気をつけないと――とは言ってもさ、何にどれだけ気をつければいいんだろう。
 神経がどんどん擦り減らされている。
「風悟さん、これからどうする?」
「……隠れて逃げている人をヤツラより先に見つけたいところだけどね」
「じゃあ、ここなんてうってつけかもね」
「ここ?」
「そ。ここ、サーキット・ゴールドラッシュ」
 僕が事前に調べたたくさんの情報の中で唯一、明るい情報があったのがこのアトラクションだった。
 トロッコ型のゴーカートに乗り、いくつもに枝分かれしたコースを自由に進み、最後にたどり着いた場所に黄金の髑髏があると、この隣の施設にある軽食処ゾンビハウスにて黄金バーガーをもらえるという。
 その黄金バーガーを再現しているサイトとかあったなぁ。
 もう既に美味しそうなチーズバーガーにさらに何枚ものスライスチーズを乗せてバーナーで炙り、チーズにまみれ過ぎて手で持てないというのが売りらしかったけど。
 お腹がクゥと小さく鳴る。
 それに返事をするようにトワさんのお腹も鳴った。
「あー、お腹空いた。チーズバーガー食べたい……夕飯も食べずに逃げ回っていたから」
 そっか。
 トワさんたちは昼間のうちからヤツラに追いまわされていたんだっけ。
 そういえば軽くて簡単に食べられるものをいくつか持ってきていたはず。
 リュックを漁ってペットボトルと板チョコとを取り出し、彼女に手渡した。
「ありがとう……水分は……トイレ行きたくなっちゃうから、まだ我慢しとく」
 そう言ってチョコだけを受け取る。
 ガサガサと銀紙を剥がし、パキッと軽い音が続く。
 それ以外には風の音しか聞こえない。
 向こう側のエリアに居た時よりも、風の音や緑の匂いを強く感じるような気がする。
 蝉の声だって近くなっている。
 そういえば、地面に生えている草の量も多いかも。
 向こうのエリアは地面がアスファルトで舗装されていたけど、こちら側エリアの地面は素焼きレンガっぽいタイル敷き。
 タイルとタイルの隙間から雑草がぐいぐい生えていて、少し離れた場所になるとタイルが雑草に隠れて見えない。
 『新大陸エリア』は高台というか崖の上にあるが、こうやって草原化していると、廃墟を取り囲む山々の斜面にそのままつながっているようにも感じる。
「斜面の樹、見た? 全部の枝がこっちに向かって手を伸ばしているみたい。ちょっと気持ち悪くない?」
 そう言われてみればそうだった。
「山の頂上からこの廃墟の方へ風がずっと吹いているのかな」
「そうやって科学的になんか言ってもらえると少し落ち着く。チョコもそうだし、本当にありがとね」
 トワさんはそう言いながらまた僕の右手にしがみついてきた。
 相当懐かれている。
 チョコとはまた別の、トワさんの甘い香りをまた近くに感じる。
 この距離感が、近過ぎるような気がしてならない。
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