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#14 こいつは誰だ?
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「……ウウウ……」
男がうめき声をあげると、裏口の扉が急に静かになった。
トワさんの持つ懐中電灯の光が扉から離れて地面を走り、男を照らす。
頭を抑えながらも、もう起き上がろうとしていた。
生きていることにはホッとしたけれど、これ、どうしたらいいんだよ。
丈夫な紐とかあれば、縛りあげるって手もあるだろうけれど。
「風悟さん、あの鏡使えないかな?」
「え?」
「風悟さんが持っているあの呪いの手鏡。覗きこんで人が変わるってんなら、もう一度覗き込んもとに戻ったりしないかな?」
その発想はなかった。
瑛祐君の顔を思い出す。
僕は彼と約束をした。
トリーだけじゃなく彼の家族を元に戻す方法も探すことを。
目の前でよろよろと立ち上がる男の動きに注意を払いながら、リュックの中へと右手を突っ込んだ。
手鏡は柄の部分にも装飾があり、手触りだけでも裏表が分かる。
リュックの中で手鏡を握り直し、いつでも向こう側へ向けて取り出せるように構えた。
「……出して……」
もう出すのか。タイミング早くないか――って。
あれ?
今、聞こえたのってトワさんじゃなく、瑛祐君の声?
え?
どういうこと?
「……出して……助けて……」
幾つもの重なった声の中に、瑛祐君の声が聞こえたような気がした。
一度「気がした」ら、どんどんそれにしか聞こえなくなってゆく。
同時に目眩も酷くなってゆく。
トワさんがさっき意識を失ったことを思い出す。
ここで僕が倒れたりしたら、取り返しがつかないことになりかねない。
ああ、もう、やるしかないのか。
「風悟さんっ!」
僕がリュックの中の手鏡をつかんだのと、男が姿勢を低くしたまま突進してきたのとはほとんど同時だった。
光がぐるんと視界の端を大きく走る。
腹と背中とに強い衝撃を受け、気が付いたら草むらに仰向けになっている。
息苦しい。
どこかに呼吸を置いてきてしまったみたいに。
直後、右手に堪えようのない寒気を感じる。
その寒気が腕から肩を上り首と背中に広がったあたりで僕はまだあの手鏡を握っていることに気付けた。
「やっ!」
トワさんの声を耳にして慌てて飛び起きる。
ブンブンと暗闇の中で振り回されている光はトワさんか?
その手前に動く影が、男の方だろう。
リュックの中につっこんだままの手でもう一度鏡の裏表を確認し直す。
そして再びぎゅっと手鏡を持ち直し、リュックを前に抱え込む。
動く影に向かって走る。
「トワさん、目をつぶれ!」
叫びながら手鏡を取り出す。
そいつはこっちを振り向きかけるが、トワさんの方を警戒しているのかすぐに向こうを向く。
そうだよな。俺はさっきから弱くて格好悪いとこしか見せてないもんな。
「いいからこっち向けよ!」
そいつの尻を思い切り蹴り上げた。
これまでの人生で積極的に人と争ったことなどない僕だった。
だけどさっきゴンドラの鏡を割った時から、今までの人生にはなかった勢いみたいなものが僕の中に生まれている気がする。
もしかして僕は「人が変わった」のだろうか。
再びこちらを向くそいつの顔に向けて手鏡の鏡面を掲げる。
この構えている鏡に彼の顔は映っているのだろうか。
そうだ。突進には気をつけなきゃ。
トワさんとハサミ打ちになるよう距離を取りつつ回り込もうとしたその時だった。
満月に照らされた彼の目が見開かれ、そして彼はとっさに顔を両手で覆った。
そうか、ヤツラがこの鏡を使って人の体の中に入り込んでいるのだとしたら、この鏡のチカラを理解しててもおかしくないんだよな。
でも――そうなると、この鏡のチカラは本物で、中の人を取り換える効果が本当にあるってこと?
鏡の効果があったのかどうかはわからないけれど、男は顔を両手で覆ったまま地面へと突っ伏した。
「風悟さん、いつまで目をつぶってたらいいの?」
トワさんが不安げな声を出す。
そうだ。こちら側の最大火力をいつまでも無力化しておくべきじゃない。
手鏡を素早くリュックへと戻し、ジッパーをしっかりと閉じたのを確認してから背負い直す。
「いったん大丈夫!」
トワさんが近寄ってくる。
男は突っ伏したまま。
トワさんの持つ懐中電灯が男の背中を照らして止まる。
「ヤツラ、手鏡に気付いた途端、顔を手で隠したんだ」
「じゃあ、使い方を分かっているってこと?」
「その可能性高そうだよね」
「で、今、うずくまっているけど……中の人はもとに戻ったの? 瑛祐君のお父さんに……」
地面にまだうずくまったままの男の背中をじっと見つめる。
風の音がゴォゴォと強くなり、それと共にあのギィィという金属が擦れるような重い音もまた聞こえてくる。
あれ?
僕がそのことに気付いたのと、ほとんど同時にトワさんが小さな声でこう言った。
「さっきまでうるさかった裏口、妙に静かじゃない?」
確かに今は風と草、そしてあの金属音しか聞こえない。
男は目の前で草むらに四つん這いになったままだけど、目を離したらいけない気がして、周囲へはあまり意識を向けられないでいる。
そんな中だった、妙な音が聞こえたのは。
「……ヴヴヴヴ……ヴヴヴヴヴ……」
地鳴りのような音――いや、声だ。
女性の低めの唸り声、狂気をはらんだそれは、自然と僕の肩をすくませる。
「風悟さん、なにアレ……」
ゾンビハウスの入り口方向、輝く月を逆光に背負った異様な影が一つ。
人よりも背が高く、頭からは鹿の角のようなものが生えた影。
今度こそ本物の化け物か?
さっき回転扉に挟まっていた死体らしきものを思い出す。まさかアレの恨みが妖怪化したとか?
「……ヴヴヴヴヴヴヴッ!」
唸り声のトーンが上がっていってる?
「もしかして……持ち上げてんの?」
トワさんの声にハッとする。
ここで何度も超常現象的な体験をしているせいで、アレを怪物の一種としてすんなり受け入れようとしていた自分に気付いたのだ。
確かによく見れば、角の生えた鹿の頭を頭上に持ち上げているただの人間だ。
ただ、さっきの回転扉のところにあった死体から頭を切り離し、血の汚れや臭いなど気にせず頭の上に掲げたまま歩いているというその神経は、十分に異常ではあるが。
とにかくそいつは鹿の頭を持ち上げたまま、唸り声のトーンを上げながら、こちらに向かって歩きはじめ――突然、肘をぐいっと引っ張られてよろけそうになる。
引っ張ったのはトワさん。
「逃げようよ!」
「でも、あいつにも鏡を」
「今、鏡に入れたのが代わりに向こうに入っちゃうかもじゃない」
それは一理ある。
この不思議な手鏡には取説があるわけでもなく、仕組みも効果もはっきりとはわかっていないのだ。
リュックをしっかりと抱えると、トワさんと共に走り出し――たのだが、僕だけ立ち止まった。
トワさんはすぐに気付いて振り返る。
「ちょ、ちょっと風悟さん!」
「いま、聞こえたんだ。『母ちゃん』って」
「だ、誰が?」
トワさんの耳には届かなかったのだろうか。
僕に聞こえた『母ちゃん』という言葉は、背後に置き去りにした男、つまり瑛祐君のお父さんが発したもの。
その声が瑛祐君の声に似ているのは親子なのだから当然なのだろう。
ただ、さっき鏡を彼に向ける前に聞こえた――ような気がした、瑛祐君の声が――さっきよりも大きな違和感となって、僕の足を重くしている。
もしも。
もしも、この中の人が瑛祐君だと仮定すると、あの鹿の頭を抱えた人の外側は瑛祐君のお母さんということになる。
「風悟さん!」
「ちょっと待って」
でも――だとしたら、瑛祐君が鏡の中に入れられたのはいつ?
あそこで二手に別れたあと?
そんなすぐに先回りできるものなのか?
だって手鏡はドリームキャッチャーにあった。
ミラーハウスの中とこの手鏡がつながっている?
「母ちゃん!」
中の人が瑛祐君かもしれない男は立ち上がり、確かにまたそう言った。
さっきよりもはっきりとした口調で。
その声が届いたのか、鹿頭を持った女はこちらへ近づく速度を緩める。
やっぱり手鏡を試してみようかと、リュックを抱え直したその時だった。
柔らかい感触が僕を包んだ。
甘い匂い。まだチョコの香りも残っている――トワさんが?
何もかもが突然過ぎて、何が起きたのか一瞬わからなかった。その間にトワさんは、えっ?
唇を奪われた?
なんで?
キス?
「ヴヴヴヴヴヴッ!」
うなり声があまりにも近くから聞こえて、反射的に飛びのいた。
血に汚れた女がものすごい形相で、鹿の頭を両手で振り回しながら襲ってくる。
鹿の角は鋭く空を切り、いろんな意味で危険を感じる。
瑛祐君かもしれない男は『母ちゃん』を連呼してはいるものの、その異様な状態に怯えた様子で近づきはしない。
鹿頭女から距離を取りつつ動き回っていると、広くなった視界に映る。
かなり離れた場所を走り去るトワさんの後ろ姿に。
そして僕のリュックが手元にないということに。
トワさんは建物の角を曲がり、姿が見えなくなってしまった。
どういうこと?
「ヴヴヴッ!」
思考をまとめるゆとりもなく迫りくる鹿の角を、避けて避けて避け続ける。
鹿の頭は首から下がついていないとはいえ相当に重たいのだろう。
鹿の角も注意して避けていればそれなりにかわせるくらいには大振りだし、しかも少しずつ動きが鈍くなってきている気もする。
これならなんとか怪我をせずにこいつの相手を――って、それでどうするんだ。
こうしている間もトワさんはどんどん遠くへと逃げている。
あの手鏡を持って。
それで僕はこれからどうすればいいんだ?
待ち合わせの場所とか決めてなかったよね?
それともあのキスが何かの暗号なのか――って、やっぱり鹿の角を避けながらじゃ集中できない。
向こうはもう肩で息をしているし、だんだん大振りになってゆく。
こんな様子を見ていると、行動はどうであれ「ヤツラ」というのはホラー映画に出てくるような超人的なバケモノなんかではなく「普通の人間」的な印象を強く受ける。
本当のところ「ヤツラ」ってのはいったい何者なんだ?
あ。
僕はもしかしたら、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない。
どうして僕はその考えを持たなかったのだろうか。
もしかしたら認めたくなかったからなのかも。
最初はトワさんのことをとんでもない人だと思っていた。
でも彼女の行動力に助けられているうちに僕はいつの間にか彼女のことを信頼しはじめていた。
ただ一方で、個人的な恨みがあったとはいえトワさんがあの男性を殴りつけた衝撃はいまだに僕の中に強くこびりついている。
それなのに今なお心のどこかでトワさんのことを信じ続けられるだけの特別な事情を考えようとしている。
いや、僕はちゃんと現実に向き合わないといけない。
僕はここへ、トリーを助けに来たんだ。
トリーを、だよ。
そのためには、冷静に可能性を拾っていくことが大事なのに。
裏切られたとか、頭を切り替えるとかじゃなく、あくまでも可能性の一つとして――「ヤツラ」というのは最初に会った瑛祐君やトワさん達の方で、僕がいつの間にか「ヤツラの仲間」にさせられていたのだとしたら――例えば「ヤツラ」はあの手鏡には直接触れる事はできなくて、それで僕を利用したとか――うわっ!
僕のすぐ横をかすめて鹿の頭が飛んでいった。
男がうめき声をあげると、裏口の扉が急に静かになった。
トワさんの持つ懐中電灯の光が扉から離れて地面を走り、男を照らす。
頭を抑えながらも、もう起き上がろうとしていた。
生きていることにはホッとしたけれど、これ、どうしたらいいんだよ。
丈夫な紐とかあれば、縛りあげるって手もあるだろうけれど。
「風悟さん、あの鏡使えないかな?」
「え?」
「風悟さんが持っているあの呪いの手鏡。覗きこんで人が変わるってんなら、もう一度覗き込んもとに戻ったりしないかな?」
その発想はなかった。
瑛祐君の顔を思い出す。
僕は彼と約束をした。
トリーだけじゃなく彼の家族を元に戻す方法も探すことを。
目の前でよろよろと立ち上がる男の動きに注意を払いながら、リュックの中へと右手を突っ込んだ。
手鏡は柄の部分にも装飾があり、手触りだけでも裏表が分かる。
リュックの中で手鏡を握り直し、いつでも向こう側へ向けて取り出せるように構えた。
「……出して……」
もう出すのか。タイミング早くないか――って。
あれ?
今、聞こえたのってトワさんじゃなく、瑛祐君の声?
え?
どういうこと?
「……出して……助けて……」
幾つもの重なった声の中に、瑛祐君の声が聞こえたような気がした。
一度「気がした」ら、どんどんそれにしか聞こえなくなってゆく。
同時に目眩も酷くなってゆく。
トワさんがさっき意識を失ったことを思い出す。
ここで僕が倒れたりしたら、取り返しがつかないことになりかねない。
ああ、もう、やるしかないのか。
「風悟さんっ!」
僕がリュックの中の手鏡をつかんだのと、男が姿勢を低くしたまま突進してきたのとはほとんど同時だった。
光がぐるんと視界の端を大きく走る。
腹と背中とに強い衝撃を受け、気が付いたら草むらに仰向けになっている。
息苦しい。
どこかに呼吸を置いてきてしまったみたいに。
直後、右手に堪えようのない寒気を感じる。
その寒気が腕から肩を上り首と背中に広がったあたりで僕はまだあの手鏡を握っていることに気付けた。
「やっ!」
トワさんの声を耳にして慌てて飛び起きる。
ブンブンと暗闇の中で振り回されている光はトワさんか?
その手前に動く影が、男の方だろう。
リュックの中につっこんだままの手でもう一度鏡の裏表を確認し直す。
そして再びぎゅっと手鏡を持ち直し、リュックを前に抱え込む。
動く影に向かって走る。
「トワさん、目をつぶれ!」
叫びながら手鏡を取り出す。
そいつはこっちを振り向きかけるが、トワさんの方を警戒しているのかすぐに向こうを向く。
そうだよな。俺はさっきから弱くて格好悪いとこしか見せてないもんな。
「いいからこっち向けよ!」
そいつの尻を思い切り蹴り上げた。
これまでの人生で積極的に人と争ったことなどない僕だった。
だけどさっきゴンドラの鏡を割った時から、今までの人生にはなかった勢いみたいなものが僕の中に生まれている気がする。
もしかして僕は「人が変わった」のだろうか。
再びこちらを向くそいつの顔に向けて手鏡の鏡面を掲げる。
この構えている鏡に彼の顔は映っているのだろうか。
そうだ。突進には気をつけなきゃ。
トワさんとハサミ打ちになるよう距離を取りつつ回り込もうとしたその時だった。
満月に照らされた彼の目が見開かれ、そして彼はとっさに顔を両手で覆った。
そうか、ヤツラがこの鏡を使って人の体の中に入り込んでいるのだとしたら、この鏡のチカラを理解しててもおかしくないんだよな。
でも――そうなると、この鏡のチカラは本物で、中の人を取り換える効果が本当にあるってこと?
鏡の効果があったのかどうかはわからないけれど、男は顔を両手で覆ったまま地面へと突っ伏した。
「風悟さん、いつまで目をつぶってたらいいの?」
トワさんが不安げな声を出す。
そうだ。こちら側の最大火力をいつまでも無力化しておくべきじゃない。
手鏡を素早くリュックへと戻し、ジッパーをしっかりと閉じたのを確認してから背負い直す。
「いったん大丈夫!」
トワさんが近寄ってくる。
男は突っ伏したまま。
トワさんの持つ懐中電灯が男の背中を照らして止まる。
「ヤツラ、手鏡に気付いた途端、顔を手で隠したんだ」
「じゃあ、使い方を分かっているってこと?」
「その可能性高そうだよね」
「で、今、うずくまっているけど……中の人はもとに戻ったの? 瑛祐君のお父さんに……」
地面にまだうずくまったままの男の背中をじっと見つめる。
風の音がゴォゴォと強くなり、それと共にあのギィィという金属が擦れるような重い音もまた聞こえてくる。
あれ?
僕がそのことに気付いたのと、ほとんど同時にトワさんが小さな声でこう言った。
「さっきまでうるさかった裏口、妙に静かじゃない?」
確かに今は風と草、そしてあの金属音しか聞こえない。
男は目の前で草むらに四つん這いになったままだけど、目を離したらいけない気がして、周囲へはあまり意識を向けられないでいる。
そんな中だった、妙な音が聞こえたのは。
「……ヴヴヴヴ……ヴヴヴヴヴ……」
地鳴りのような音――いや、声だ。
女性の低めの唸り声、狂気をはらんだそれは、自然と僕の肩をすくませる。
「風悟さん、なにアレ……」
ゾンビハウスの入り口方向、輝く月を逆光に背負った異様な影が一つ。
人よりも背が高く、頭からは鹿の角のようなものが生えた影。
今度こそ本物の化け物か?
さっき回転扉に挟まっていた死体らしきものを思い出す。まさかアレの恨みが妖怪化したとか?
「……ヴヴヴヴヴヴヴッ!」
唸り声のトーンが上がっていってる?
「もしかして……持ち上げてんの?」
トワさんの声にハッとする。
ここで何度も超常現象的な体験をしているせいで、アレを怪物の一種としてすんなり受け入れようとしていた自分に気付いたのだ。
確かによく見れば、角の生えた鹿の頭を頭上に持ち上げているただの人間だ。
ただ、さっきの回転扉のところにあった死体から頭を切り離し、血の汚れや臭いなど気にせず頭の上に掲げたまま歩いているというその神経は、十分に異常ではあるが。
とにかくそいつは鹿の頭を持ち上げたまま、唸り声のトーンを上げながら、こちらに向かって歩きはじめ――突然、肘をぐいっと引っ張られてよろけそうになる。
引っ張ったのはトワさん。
「逃げようよ!」
「でも、あいつにも鏡を」
「今、鏡に入れたのが代わりに向こうに入っちゃうかもじゃない」
それは一理ある。
この不思議な手鏡には取説があるわけでもなく、仕組みも効果もはっきりとはわかっていないのだ。
リュックをしっかりと抱えると、トワさんと共に走り出し――たのだが、僕だけ立ち止まった。
トワさんはすぐに気付いて振り返る。
「ちょ、ちょっと風悟さん!」
「いま、聞こえたんだ。『母ちゃん』って」
「だ、誰が?」
トワさんの耳には届かなかったのだろうか。
僕に聞こえた『母ちゃん』という言葉は、背後に置き去りにした男、つまり瑛祐君のお父さんが発したもの。
その声が瑛祐君の声に似ているのは親子なのだから当然なのだろう。
ただ、さっき鏡を彼に向ける前に聞こえた――ような気がした、瑛祐君の声が――さっきよりも大きな違和感となって、僕の足を重くしている。
もしも。
もしも、この中の人が瑛祐君だと仮定すると、あの鹿の頭を抱えた人の外側は瑛祐君のお母さんということになる。
「風悟さん!」
「ちょっと待って」
でも――だとしたら、瑛祐君が鏡の中に入れられたのはいつ?
あそこで二手に別れたあと?
そんなすぐに先回りできるものなのか?
だって手鏡はドリームキャッチャーにあった。
ミラーハウスの中とこの手鏡がつながっている?
「母ちゃん!」
中の人が瑛祐君かもしれない男は立ち上がり、確かにまたそう言った。
さっきよりもはっきりとした口調で。
その声が届いたのか、鹿頭を持った女はこちらへ近づく速度を緩める。
やっぱり手鏡を試してみようかと、リュックを抱え直したその時だった。
柔らかい感触が僕を包んだ。
甘い匂い。まだチョコの香りも残っている――トワさんが?
何もかもが突然過ぎて、何が起きたのか一瞬わからなかった。その間にトワさんは、えっ?
唇を奪われた?
なんで?
キス?
「ヴヴヴヴヴヴッ!」
うなり声があまりにも近くから聞こえて、反射的に飛びのいた。
血に汚れた女がものすごい形相で、鹿の頭を両手で振り回しながら襲ってくる。
鹿の角は鋭く空を切り、いろんな意味で危険を感じる。
瑛祐君かもしれない男は『母ちゃん』を連呼してはいるものの、その異様な状態に怯えた様子で近づきはしない。
鹿頭女から距離を取りつつ動き回っていると、広くなった視界に映る。
かなり離れた場所を走り去るトワさんの後ろ姿に。
そして僕のリュックが手元にないということに。
トワさんは建物の角を曲がり、姿が見えなくなってしまった。
どういうこと?
「ヴヴヴッ!」
思考をまとめるゆとりもなく迫りくる鹿の角を、避けて避けて避け続ける。
鹿の頭は首から下がついていないとはいえ相当に重たいのだろう。
鹿の角も注意して避けていればそれなりにかわせるくらいには大振りだし、しかも少しずつ動きが鈍くなってきている気もする。
これならなんとか怪我をせずにこいつの相手を――って、それでどうするんだ。
こうしている間もトワさんはどんどん遠くへと逃げている。
あの手鏡を持って。
それで僕はこれからどうすればいいんだ?
待ち合わせの場所とか決めてなかったよね?
それともあのキスが何かの暗号なのか――って、やっぱり鹿の角を避けながらじゃ集中できない。
向こうはもう肩で息をしているし、だんだん大振りになってゆく。
こんな様子を見ていると、行動はどうであれ「ヤツラ」というのはホラー映画に出てくるような超人的なバケモノなんかではなく「普通の人間」的な印象を強く受ける。
本当のところ「ヤツラ」ってのはいったい何者なんだ?
あ。
僕はもしかしたら、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない。
どうして僕はその考えを持たなかったのだろうか。
もしかしたら認めたくなかったからなのかも。
最初はトワさんのことをとんでもない人だと思っていた。
でも彼女の行動力に助けられているうちに僕はいつの間にか彼女のことを信頼しはじめていた。
ただ一方で、個人的な恨みがあったとはいえトワさんがあの男性を殴りつけた衝撃はいまだに僕の中に強くこびりついている。
それなのに今なお心のどこかでトワさんのことを信じ続けられるだけの特別な事情を考えようとしている。
いや、僕はちゃんと現実に向き合わないといけない。
僕はここへ、トリーを助けに来たんだ。
トリーを、だよ。
そのためには、冷静に可能性を拾っていくことが大事なのに。
裏切られたとか、頭を切り替えるとかじゃなく、あくまでも可能性の一つとして――「ヤツラ」というのは最初に会った瑛祐君やトワさん達の方で、僕がいつの間にか「ヤツラの仲間」にさせられていたのだとしたら――例えば「ヤツラ」はあの手鏡には直接触れる事はできなくて、それで僕を利用したとか――うわっ!
僕のすぐ横をかすめて鹿の頭が飛んでいった。
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