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第6章 変化
6 フーミンの萌え
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「気をしっかり持って!オンカタビラソワカ!!」
一瞬意識が飛びかけ、天冥が目の前で人差し指と中指を立てて弓削の顔の両横の空を切るポーズをする。何か呪文のような言葉を発していたが、何を言ったのかははっきり聞き取れなかった。
「喝!」
最後に手刀で弓削の首の根を打ち、弓削は全身を脱力してその場に崩折れた。ペタンと廊下の床にへたり込んだ弓削の顎を持ち上げ、天冥が瞳の中を覗き込む。その瞬間だった。天冥の目に被せられた黒いチュールの奥から向けられる彼女の真剣な眼差しを見て、きのう、ノワールの鐘の下でのことを思い出した。あの時、天冥は自分の目の前でチュールを巻き上げた。そして見たのだ。その顔はセフィロトを張り込んでいた時に見た、代表の美青年の顔だった。いや、それだけじゃない。まるで封印を解かれたように、一つのおぞましい映像が蘇る。男の口元が邪悪に歪み、その首がぬるぬると伸びている。この男は…高瀬陽翔だ。工場を爆破させた直後、運び込まれたノワールに捜査一課の刑事たちが乗り込んできてのことだった。そしてこの直後、捜一の刑事に高瀬は眉間を撃ち抜かれたのだ。
「記憶が、戻ったようね」
天冥が弓削の顔を覗き込みながら、ゆっくりと帽子を取る。帽子と一緒にチュールも外れ、長い黒髪がサラリと落ちた。そして、天冥の素顔が晒される。その顔はやはり、セフィロトの代表の美青年だった。弓削は呆けた表情でその顔を拝み、一言ぽつんと呟く。
「天冥さんって、男だったのね…」
瞬間、バシンと頬を貼られた。そして天冥が、あっと声を洩らす。
「ご、ごめんなさい、思わず…」
どうやらビンタしたことを謝っているようだ。お陰で弓削の頭に霧が晴れたようなスッキリさが戻っていく。
「誤解してるようだけど、わたしはれっきとした女よ。そこは間違わないで」
天冥の手が弓削の脇に入り、肩に力を入れて立たせてくれた。
「あ、ありがとう。もう、大丈夫です」
立ってみて、脱力感が治っていることが分かる。天冥は弓削から手を引いたが、ある一点をじっと見つめている。視線を辿ると、どうやら弓削の胸に注がれているらしい。とっさに弓削も天冥の胸を見返す。板とまではいかないが、弓削に比べると明らかにボリュームが無い。
(え、ひょっとして胸を見てる?こんな胸でよかったらいつでも交換するけど…)
そんな弓削の思いを読んだのか読まずか、
「さ、食事に行きましょ」
と、母屋の方を向いて歩いていく。弓削はその後ろを追った。天冥に聞かなければいけないことが山程ある。
「あ、あの、あたし、思い出したんだけど…」
慌てて取りすがるように聞くが、男と間違われて気を悪くしたのか、天冥は歩速を緩めることなく、そのまま母屋のダイニングキッチンと思われる部屋の開き戸を引いた。キッチンは普通より少し広めの家で見られるようなゆったりしたシステムキッチンで、十畳ほどのダイニングには食卓用のダイニングテーブルが置かれている。朱実が鍋で何かを湯がき、紬がその横で分厚いハムのようなものを包丁で切り分けていた。天冥はテーブルの一端に着き、弓削もそそくさとその角席に座った。先程蘇った記憶のことについて詳しく聞きたいのだが、天冥はムスッといた顔で目を閉じ、瞑想でもするかのように完全にこちらの質問をシャットアウトするかのような態勢だ。
やがてスープの良い香りが鼻腔をつき、器に盛られた四杯のラーメンが運ばれてくる。四角いテーブルの四辺にそれぞれが着いた時、紬が素っ頓狂な声を上げた。
「あれえ!?天冥、帽子取ってんじゃん!」
その声に、朱実も斜め前の天冥をまじまじと見る。
「ほーんとだ!フーミンが来るからってわざわざ帽子被って顔隠してたのに、どうした?」
あたしが来るからわざわざ?朱実の言葉からは、天冥は普段住人の前では素顔を晒していることが伺える。さすがにこの変な空気を天冥も無視仕切れないだろうと、弓削も天冥が何を言うのか注視する。だけど天冥はゆっくり目を開き、箸を取ると、何事も無かったかのようにいただきますと言ってラーメンの麺を持ち上げてフーフーと息をかけた。
「いやいや、何でそんな平然としてるのよ。説明しなさいよ」
さすがに朱実の突っ込みが入り、天冥の眉間にシワを寄せると、
「食べながらでも話はできるでしょ?」
と、持ち上げたラーメンを啜った。
「ま、そりゃそっか。じゃ、いっただきまーす!フーミンも遠慮なく食べて?」
「やっぱ夏のラーメンもいいよね~!まーす!」
「まあインスタントだけどね。あ、でもチャーシューはいいやつだと思うよ。この時期、じいちゃんとこにはいろいろ上等なもんが送られてくるから」
いやいや、普通の食卓みたいな会話してんじゃないわよ、と、弓削は三人の会話に心の中で突っ込む。まだエアコンを入れたばかりなのか、ラーメンの熱気が部屋にこもり、どこからか流れてくるお香の匂いと混ざって少し胸が悪くなる。三人はそんなことはお構いなしにラーメンを次々と口に運ぶ。朱実も紬も、鼻の頭に粒汗をかいている。天冥だけは涼しげにスルスルと上品に麺を啜っていた。
「あれ?フーミン、早く食べないと伸びるよ?」
伸びる、という表現にさっき思い出した高瀬の首が伸びる気持ち悪さがオーバーラップし、何も入っていないはずの胃から何かの液がせり上がってきて口を抑える。その様子を横目で見て、やっと天冥が口を開いた。
「さっき、妖化しかけたの。マントラで何とか戻せたけど、結界を張ってるこの寺でも瘴気は確実に濃くなっているわ。一刻も早く法要を始めないと」
よく分からない単語がいくつか入っていて内容ははっきり掴めなかったが、あやかしかという言葉ははっきりと耳に残った。
「ほえ~?まあ~た天冥ちゃん、フーミンを萌えに悶えさせちゃった?ちゃーんと顔隠しとかなきゃダメじゃん!」
今何か、紬が聞き捨てならないこと言った気がする。
「え、ちょっと待って?あたしが萌えに悶えるって何のこと?」
「まーたまた。フーミンんてさあ、美青年好きでしょ?BLとか読んでニヤニヤしてそう」
紬に指摘された内容に、弓削の顔はかあっと赤くなった。あたしは美青年好きなんじゃない、男っぽいサバサバした女子が好きなのだ。BLなんかには興味もない。ま、ちょっとくらいは読んだこもあるけど……そこまで考えてハッとした。自分は確かにセフィロトの美青年に見惚れ、写メも撮って毎日眺めた。それは自分がちゃんと男でも好きになれることが嬉しかったからという気持ちも拍車をかけていたからなのだが、そのセフィロトの美青年が実は五月山天冥という女性だったという事実…あの憧れていたバトミントン部の先輩も思えば男装すればよく似合いそうだった。結局、あたしは男ではなく、女性が好きなのだ………
「て、ちがーう!!」
思わず声が出て、他の三人がビクッとする。
「あーびっくりした。何?急に。フーミン、どうした?」
いやどーしたはあんたたちだ。あたしが男好きだろうが女好きだろうが今そんなこたどーでもいいんだよ!何だよその結界だとか瘴気だとか。今あたしはそのことが聞きたいんだよ!
弓削は鼻息荒く、テーブルの三人を見回す。そして目に力をこめ、決意を新たに口を開く。
「あたし、思い出した。きのう、工場爆破した高瀬が撃たれる前、彼の首が伸びたの。ビニョーンって。あれは何?あたしの見間違いじゃないよね?あなたたち、何か知ってるんでしょ?教えてくれないかな?」
弓削の言葉を聞き、三人の箸が止まる。そしてしばし、空調の音だけが部屋に響く。そういえばセミの声も、ノワールからの坂を降り始めてから聞こえなくなっていた。
「ぷっ」
右手から吹き出す音。
「うははは、な~にい?ビニョーンって。首が?ビニョーンってぇ?そんなわけないじゃん!」
紬が一人受けているが、他の二人は真顔だった。そういえば紬はあの時ダイニングにいて見ていない。急にそんなこと言われても笑うしかないか。左手から、ため息が聞こえた。天冥だ。彼女と朱実はあの場にいた。しかも、天冥はあの時、何か呪文を唱えていたはずだ。
「記憶、解いたのね」
まずしゃべったのは朱実だった。
「わたしの力ではあれ以上抑え込むのは危なかった。まさか、ここで妖化し始めるとは思わなかったからね」
また言った。アヤカシカ。
「ねえ、そのあやかしかって何?あたしに何が起こってるっていうの?」
一瞬意識が飛びかけ、天冥が目の前で人差し指と中指を立てて弓削の顔の両横の空を切るポーズをする。何か呪文のような言葉を発していたが、何を言ったのかははっきり聞き取れなかった。
「喝!」
最後に手刀で弓削の首の根を打ち、弓削は全身を脱力してその場に崩折れた。ペタンと廊下の床にへたり込んだ弓削の顎を持ち上げ、天冥が瞳の中を覗き込む。その瞬間だった。天冥の目に被せられた黒いチュールの奥から向けられる彼女の真剣な眼差しを見て、きのう、ノワールの鐘の下でのことを思い出した。あの時、天冥は自分の目の前でチュールを巻き上げた。そして見たのだ。その顔はセフィロトを張り込んでいた時に見た、代表の美青年の顔だった。いや、それだけじゃない。まるで封印を解かれたように、一つのおぞましい映像が蘇る。男の口元が邪悪に歪み、その首がぬるぬると伸びている。この男は…高瀬陽翔だ。工場を爆破させた直後、運び込まれたノワールに捜査一課の刑事たちが乗り込んできてのことだった。そしてこの直後、捜一の刑事に高瀬は眉間を撃ち抜かれたのだ。
「記憶が、戻ったようね」
天冥が弓削の顔を覗き込みながら、ゆっくりと帽子を取る。帽子と一緒にチュールも外れ、長い黒髪がサラリと落ちた。そして、天冥の素顔が晒される。その顔はやはり、セフィロトの代表の美青年だった。弓削は呆けた表情でその顔を拝み、一言ぽつんと呟く。
「天冥さんって、男だったのね…」
瞬間、バシンと頬を貼られた。そして天冥が、あっと声を洩らす。
「ご、ごめんなさい、思わず…」
どうやらビンタしたことを謝っているようだ。お陰で弓削の頭に霧が晴れたようなスッキリさが戻っていく。
「誤解してるようだけど、わたしはれっきとした女よ。そこは間違わないで」
天冥の手が弓削の脇に入り、肩に力を入れて立たせてくれた。
「あ、ありがとう。もう、大丈夫です」
立ってみて、脱力感が治っていることが分かる。天冥は弓削から手を引いたが、ある一点をじっと見つめている。視線を辿ると、どうやら弓削の胸に注がれているらしい。とっさに弓削も天冥の胸を見返す。板とまではいかないが、弓削に比べると明らかにボリュームが無い。
(え、ひょっとして胸を見てる?こんな胸でよかったらいつでも交換するけど…)
そんな弓削の思いを読んだのか読まずか、
「さ、食事に行きましょ」
と、母屋の方を向いて歩いていく。弓削はその後ろを追った。天冥に聞かなければいけないことが山程ある。
「あ、あの、あたし、思い出したんだけど…」
慌てて取りすがるように聞くが、男と間違われて気を悪くしたのか、天冥は歩速を緩めることなく、そのまま母屋のダイニングキッチンと思われる部屋の開き戸を引いた。キッチンは普通より少し広めの家で見られるようなゆったりしたシステムキッチンで、十畳ほどのダイニングには食卓用のダイニングテーブルが置かれている。朱実が鍋で何かを湯がき、紬がその横で分厚いハムのようなものを包丁で切り分けていた。天冥はテーブルの一端に着き、弓削もそそくさとその角席に座った。先程蘇った記憶のことについて詳しく聞きたいのだが、天冥はムスッといた顔で目を閉じ、瞑想でもするかのように完全にこちらの質問をシャットアウトするかのような態勢だ。
やがてスープの良い香りが鼻腔をつき、器に盛られた四杯のラーメンが運ばれてくる。四角いテーブルの四辺にそれぞれが着いた時、紬が素っ頓狂な声を上げた。
「あれえ!?天冥、帽子取ってんじゃん!」
その声に、朱実も斜め前の天冥をまじまじと見る。
「ほーんとだ!フーミンが来るからってわざわざ帽子被って顔隠してたのに、どうした?」
あたしが来るからわざわざ?朱実の言葉からは、天冥は普段住人の前では素顔を晒していることが伺える。さすがにこの変な空気を天冥も無視仕切れないだろうと、弓削も天冥が何を言うのか注視する。だけど天冥はゆっくり目を開き、箸を取ると、何事も無かったかのようにいただきますと言ってラーメンの麺を持ち上げてフーフーと息をかけた。
「いやいや、何でそんな平然としてるのよ。説明しなさいよ」
さすがに朱実の突っ込みが入り、天冥の眉間にシワを寄せると、
「食べながらでも話はできるでしょ?」
と、持ち上げたラーメンを啜った。
「ま、そりゃそっか。じゃ、いっただきまーす!フーミンも遠慮なく食べて?」
「やっぱ夏のラーメンもいいよね~!まーす!」
「まあインスタントだけどね。あ、でもチャーシューはいいやつだと思うよ。この時期、じいちゃんとこにはいろいろ上等なもんが送られてくるから」
いやいや、普通の食卓みたいな会話してんじゃないわよ、と、弓削は三人の会話に心の中で突っ込む。まだエアコンを入れたばかりなのか、ラーメンの熱気が部屋にこもり、どこからか流れてくるお香の匂いと混ざって少し胸が悪くなる。三人はそんなことはお構いなしにラーメンを次々と口に運ぶ。朱実も紬も、鼻の頭に粒汗をかいている。天冥だけは涼しげにスルスルと上品に麺を啜っていた。
「あれ?フーミン、早く食べないと伸びるよ?」
伸びる、という表現にさっき思い出した高瀬の首が伸びる気持ち悪さがオーバーラップし、何も入っていないはずの胃から何かの液がせり上がってきて口を抑える。その様子を横目で見て、やっと天冥が口を開いた。
「さっき、妖化しかけたの。マントラで何とか戻せたけど、結界を張ってるこの寺でも瘴気は確実に濃くなっているわ。一刻も早く法要を始めないと」
よく分からない単語がいくつか入っていて内容ははっきり掴めなかったが、あやかしかという言葉ははっきりと耳に残った。
「ほえ~?まあ~た天冥ちゃん、フーミンを萌えに悶えさせちゃった?ちゃーんと顔隠しとかなきゃダメじゃん!」
今何か、紬が聞き捨てならないこと言った気がする。
「え、ちょっと待って?あたしが萌えに悶えるって何のこと?」
「まーたまた。フーミンんてさあ、美青年好きでしょ?BLとか読んでニヤニヤしてそう」
紬に指摘された内容に、弓削の顔はかあっと赤くなった。あたしは美青年好きなんじゃない、男っぽいサバサバした女子が好きなのだ。BLなんかには興味もない。ま、ちょっとくらいは読んだこもあるけど……そこまで考えてハッとした。自分は確かにセフィロトの美青年に見惚れ、写メも撮って毎日眺めた。それは自分がちゃんと男でも好きになれることが嬉しかったからという気持ちも拍車をかけていたからなのだが、そのセフィロトの美青年が実は五月山天冥という女性だったという事実…あの憧れていたバトミントン部の先輩も思えば男装すればよく似合いそうだった。結局、あたしは男ではなく、女性が好きなのだ………
「て、ちがーう!!」
思わず声が出て、他の三人がビクッとする。
「あーびっくりした。何?急に。フーミン、どうした?」
いやどーしたはあんたたちだ。あたしが男好きだろうが女好きだろうが今そんなこたどーでもいいんだよ!何だよその結界だとか瘴気だとか。今あたしはそのことが聞きたいんだよ!
弓削は鼻息荒く、テーブルの三人を見回す。そして目に力をこめ、決意を新たに口を開く。
「あたし、思い出した。きのう、工場爆破した高瀬が撃たれる前、彼の首が伸びたの。ビニョーンって。あれは何?あたしの見間違いじゃないよね?あなたたち、何か知ってるんでしょ?教えてくれないかな?」
弓削の言葉を聞き、三人の箸が止まる。そしてしばし、空調の音だけが部屋に響く。そういえばセミの声も、ノワールからの坂を降り始めてから聞こえなくなっていた。
「ぷっ」
右手から吹き出す音。
「うははは、な~にい?ビニョーンって。首が?ビニョーンってぇ?そんなわけないじゃん!」
紬が一人受けているが、他の二人は真顔だった。そういえば紬はあの時ダイニングにいて見ていない。急にそんなこと言われても笑うしかないか。左手から、ため息が聞こえた。天冥だ。彼女と朱実はあの場にいた。しかも、天冥はあの時、何か呪文を唱えていたはずだ。
「記憶、解いたのね」
まずしゃべったのは朱実だった。
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