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16 楽しかったはずの会話
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夜会まであと十日という日の午後、王太子の執務室に初めてローゼリアが訪れたのだった。
執務室にいた誰もがローゼリアはヘンリックに用があって来たのだと思っていたのだが、彼女は迷いの無い足取りでエーヴェルトのところへ向かったのだった。
「フォレスター様、こちらの件でお話がございますの」
ローゼリアがエーヴェルトに見せたのは既に封が開けられた書類で、彼らの瞳と同じ色である青い封蝋には、馴染みのあるフォレスターの刻印が押されてある。差出人の箇所にはクレメンス・フォレスターと二人の父親であるフォレスター公爵の名前が書かれてあった。
エーヴェルトはチラリとローゼリアを一瞥してから封筒から手紙を取り出し、内容を確認するとすぐに手紙を封筒に戻してローゼリアへと返した。
「まだ構想段階だというのに、まったく父上は口が軽いな……。ちょうどいい時間だし、お茶をしながら話をしようか。殿下もよろしかったらご一緒にいかがですか?」
そわそわと落ち着かない様子で二人のやり取りを眺めていたヘンリックにもエーヴェルトが声を掛けてみたら、嬉しそうな表情を浮かべるのだった。
「私もいいのか?」
「ええ、いずれご相談しようと思っていた事ですから」
そう言って席を立つと、エーヴェルトは休憩室へと入って行った。
休憩室には簡易ベッドが二つと、休憩をしながらも打ち合わせが出来るように小さめの応接セットが置かれている。ヘンリックがなぜかエーヴェルトの隣に座ろうとしたので、エーヴェルトがそれとなくローゼリアの隣へと促したのだが、ローゼリアが「私は殿下とは対面でよろしくてよ」と言うので、結局ヘンリックはエーヴェルトの隣に座る事になってしまった。
ヘンリックがローゼリアとお茶をするのは結婚してから初めての事だった。結婚して間もない頃にお茶に誘っては断られてしまう事を数回繰り返した後は、ヘンリックもローゼリアをお茶に誘う事を諦めてしまったので、相変わらず会話の無い夫婦関係が続いていた。
それを知っていたからエーヴェルトはヘンリックもお茶に誘ったのだが、自分の妻なのにローゼリアを前にして緊張しているらしく、小刻みに足が震えているのが分かった。
侍従にはお茶の準備だけを頼んだので、ローゼリアが三人分のお茶を淹れる。将来賓客をもてなす機会がある事を想定して、王太子妃教育の中でお茶の淹れ方もしっかり叩きこまれたローゼリアはお茶を淹れるのも上手く、エーヴェルトはゆっくりと自慢の妹が淹れたお茶を久し振りに味わっていた。
「キミはお茶を淹れるのも上手いんだな」
お茶をひと口飲んだヘンリックがぽつりと呟く。
「お褒めいただきありがとうございます」
新婚夫婦とは思えない素っ気ないやり取りだった。しかし、食事の時に顔を合わせてもほとんど会話の無い二人にとっては実に数日ぶりの会話だった。
「それよりもお兄さま、お父さまからのお手紙に書かれていましたが、フォレスター領で学校をお作りになられるというのは本当ですの?」
「まずはフォレスター領で裕福な平民向けの学校を作る事と、いくつかの教会へ読み書きと計算を教えられる者を派遣したいと思っている。教会の方は昼間の短時間のみで、誰でも学べるように無料とする。領民に少しでも文字や計算の分かる者が増えれば領内での詐欺被害も減るし、フォレスター領の発展につながるだろう。裕福な平民向けの学校は貴族との付き合いのある商人の子ども向けに貴族のマナーも教えるし、こちらは授業料も設定するつもりだ」
ランゲル王国では貴族も平民も教育は各家庭でしている。貴族や裕福な平民は家庭教師を雇うのだが、そうでない平民は教育を受ける機会がほとんどなく、ランゲル王国の識字率は他国と比べてとても低いのだった。
エルランド王国では教会でも簡単な読み書きを教えているので、それを真似てみようとエーヴェルトは考えていた。そしてフォレスター領をモデルとして、王都や他領でも広めていこうと考えていたのだった。
「開校資金は今年から上げた税収分を当てれば問題はないだろう。これらの学校を運営しながら改善案をまとめた後に王都に貴族向けの学院を作ろうと思う。国の事業として出来るのが最善だが、議会の承認を得る事が無理ならば、フォレスターが運営する私学校として開校してもいいと思っている。そもそも、ランゲルの貴族子女の教育は各家によるものだから個人差が大きい。学院へ通う事で貴族間での教育の画一化を目指したいと思っているんだ」
エルランドへ留学したお陰で、エーヴェルトはランゲル王国貴族全体の教育の遅れを強く感じていた。良い種も蒔く土壌が悪ければ大きくは育たない。
教育熱心な貴族家とそうでない貴族家の差は大きく、将来のランゲル王国の事を考えていく上で、教育の改革は重要課題だと考えていた。
「お兄さま、もちろん女性も学院へ通える事は出来ますわよね?」
「そのつもりだが、この国は女子に教育は不要と思っている気質が強いから、実際に通う者は少ないかもしれない」
「私の個人資産を使いますから、一校だけでも女性だけの学校は作れませんかしら?」
「うーん、ロゼの立場的に実家であっても特定の領地の為に個人的に動くのはまずいだろう。でも母上に相談はしてみるよ。エルランドに女子学院は無いが他の国ではあったはずだから」
「ありがとうございます!」
ローゼリアは大きな瞳を輝かせながら嬉しそうな表情を浮かべる。この彼女の笑顔が自分に向けられたものではない事にヘンリックの胸はチクリと痛んだ。
「キミたちは二人共エルランドへの留学経験があったな。あちらではどのような事を学んでいたんだ?」
ローゼリアは十四歳から三年、エーヴェルトは十八歳の時に数カ月間エルランドへ留学をしていた経験がある。
ローゼリアはエーヴェルトからの視線を感じた。つまりローゼリアが話すようにと無言で促しているのだ。エルランドでの留学経験は婚約者時代に数回ほど話題に出したはずなのだが、その時のヘンリックは「そうか…」といった生返事しか返さなかった。
「エルランドでの事は昨年のお茶会の時に何度かお話を致しましたが、今日はどのようなところを詳しくお話ししましたらよろしいのでしょうか」
「……あ、ああ、そうだったな。あの時のキミはエルランド王国の事や学園という同世代の者たちを集めて学ぶ場所での話を何回かしてくれたが、キミ自身がどのような事を学んで、どう過ごしていたのか具体的な事を聞いてはいなかったと思うから、そういった事を教えて欲しい」
ローゼリアは目を見開いた。月に一、二回ほど開かれていた婚約者同士のお茶会は、毎回国王陛下から父である公爵を通してどのような話題を出すのか要望を出されていたのでその通りにしていた。
ヘンリックはいつも下を向いていて、適当な相槌を打っていただけだったら、聞いていないと思いながら話していたので、ガイドブックに書かれているような表面的な事しか話していなかったのだが、彼はその内容を覚えているようなので驚いてしまった。
「そうでしたわね。……私はエルランドでは貴族科という一般的なクラスに在籍していましたの。エルランドには小さな頃から何度も訪れていましたし、エルランド語も学んでいましたから言葉には困りませんでしたが、私はあまり人付き合いが得意ではない方ですから、学園に馴染むのに時間がかかりましたわ」
そう言ってローゼリアは自ら淹れたお茶をひと口飲む。
「学園には生徒会という生徒自身で運営する組織がありましたの。留学して三年目の時は生徒会長をしていた従兄に推薦をされて、書記をしていましたわ。生徒会を運営しているのは選ばれた方々ばかりでしたので、皆さまとても優秀でしたの。私などはいつも臆してばかりでしたが、それでも生徒会の方々はこれからのエルランドを支える方たちなのだと思い、いつも気を引き締めて仕事をいたしておりましたわ。留学は三年と決められていましたから、私は卒業年度まではいられませんでしたが、良い経験が出来たと思っておりますわ」
ローゼリアは当時の事を思い出しながら話をしているのか、瞳をよく動かしながら話をしていた。ヘンリックといるときには冷たい印象の彼女もエーヴェルトがいるせいか、普段よりも柔らかな表情を浮かべている。
いつもヘンリックに見せている無の表情よりずっと彼女を魅力的に見せているとヘンリックは思った。
「そうか、他にはどのようにして過ごしていたのだ?」
「私はこれといって面白味のない者ですから、殿下のご興味を引くような事はございませんわ。デビュー前でしたから夜会へ出る事はございませんでしたし、伯母や従妹とお茶ばかりして他はいつも読書をしていましたの」
そう言ってローゼリアは少しだけ眉を下げる。
たったこれだけの会話でローゼリアの表情はころころと変わる。ローゼリアをよく知らない者にとってはそれほど変わらないように見えるのだろうが、最近になってローゼリアをよく見るようになったヘンリックは、彼女の小さな表情の変化にも気付けるようになっていた。
これまで無表情だと思って見ていた彼女は、プライベートになると実は表情が豊かな女性である事を知ったヘンリックには、彼女が美しいだけの人形ではなく感情を持って生きている人間に見えるのだった。
「そうか、キミは本をよく読むのか。実は私も読書は好きで時々王都の書店へ一人で行く事があるんだ」
「まあ! 書店へ行かれるなんて羨ましいですわ! ……申し訳ございません、少々はしたない真似をしてしまいましたわ」
突然ローゼリアが大きな声を上げて前のめりになったので、ヘンリックは驚いてしまった。
「読書が好きなのに書店へ行った事がないとは……」
「安全上の理由ですから仕方がありませんわ」
そう言ってローゼリアは寂しそうな表情を僅かに浮かべる。
「もしかしてキミは街へ出た事が無いのか?」
「ええ、留学していたエルランドでは伯母に連れられて少し出る事もありましたが、ランゲルでは一度もありませんわ。我が家には商人が来ますから買い物へ出掛ける必要もありませんし、観劇は許可が降りませんでしたから」
ヘンリックは国王ですら時々お忍びで王都を散策していた事を知っていたから自分もそうしていたが、まさかローゼリアは自分たちとは違っていたとは知らなかった。
もしもヘンリックがローゼリアを観劇や食事に誘っていたら違っていたかもしれない、そう思うと婚約者として何もしてこなかった事がとても悔やまれた。
「……」
ここで二人の会話は終わってしまった。ヘンリックと同時にローゼリアも自分だけが全く自由が無かったのだと気付いてしまったのだろう。
「殿下、妃殿下、そろそろお時間です。続きは晩餐の席でして下さい」
それまでずっと黙って二人の様子を見ていたエーヴェルトが、お茶の時間が終わった事を告げる。お互いに過去の事を思い出して気まずい空気になりかけていたので、ちょうど良い頃合いだった。
ヘンリックは一呼吸おき、少し緊張しながらローゼリアに話し掛ける。
「ローゼリア、今日はありがとう。とても楽しかった、良かったらまたキミの話を聞かせてもらえると嬉しい」
ローゼリアは大きく目を見開く。
婚約者時代のヘンリックとのお茶会には良い思い出は一度もなく、それを引きずっていたからこれまで何度もあった彼からの誘いを断り、二人だけのお茶会を避けてきた。
もしあの頃の彼が今の彼のようだったらきっともっと色々な事が違っていただろう。
過去を振り返ってはいけないと分かっていても、彼といるといつも冷遇されていた頃の事を思い出してしまう。今日だって過去の彼とのお茶会を何度も思い出してはすぐに頭の中から追い出してきた。過去は変わらないし、変える事もできない。
突然、ローゼリアの大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。
「えっ、……もっ申し訳ないっ、……私が何か気に障る事を言ったのだろうか?」
ヘンリックは咄嗟に謝ったのだが、彼はローゼリアの涙の意味を理解してはいない。
ローゼリアはこぼれ続ける涙が止まらず、両手で顔を覆い隠しながらただ首を横に振るだけだった。
「殿下は執務室に戻って下さい。妹の事は大丈夫ですから」
エーヴェルトの焦ったような声色に後ろ髪を引かれる思いになったが、ヘンリックにはローゼリアの涙の意味も慰める方法も知らなかったから、出て行くしかなかった。
執務室にいた誰もがローゼリアはヘンリックに用があって来たのだと思っていたのだが、彼女は迷いの無い足取りでエーヴェルトのところへ向かったのだった。
「フォレスター様、こちらの件でお話がございますの」
ローゼリアがエーヴェルトに見せたのは既に封が開けられた書類で、彼らの瞳と同じ色である青い封蝋には、馴染みのあるフォレスターの刻印が押されてある。差出人の箇所にはクレメンス・フォレスターと二人の父親であるフォレスター公爵の名前が書かれてあった。
エーヴェルトはチラリとローゼリアを一瞥してから封筒から手紙を取り出し、内容を確認するとすぐに手紙を封筒に戻してローゼリアへと返した。
「まだ構想段階だというのに、まったく父上は口が軽いな……。ちょうどいい時間だし、お茶をしながら話をしようか。殿下もよろしかったらご一緒にいかがですか?」
そわそわと落ち着かない様子で二人のやり取りを眺めていたヘンリックにもエーヴェルトが声を掛けてみたら、嬉しそうな表情を浮かべるのだった。
「私もいいのか?」
「ええ、いずれご相談しようと思っていた事ですから」
そう言って席を立つと、エーヴェルトは休憩室へと入って行った。
休憩室には簡易ベッドが二つと、休憩をしながらも打ち合わせが出来るように小さめの応接セットが置かれている。ヘンリックがなぜかエーヴェルトの隣に座ろうとしたので、エーヴェルトがそれとなくローゼリアの隣へと促したのだが、ローゼリアが「私は殿下とは対面でよろしくてよ」と言うので、結局ヘンリックはエーヴェルトの隣に座る事になってしまった。
ヘンリックがローゼリアとお茶をするのは結婚してから初めての事だった。結婚して間もない頃にお茶に誘っては断られてしまう事を数回繰り返した後は、ヘンリックもローゼリアをお茶に誘う事を諦めてしまったので、相変わらず会話の無い夫婦関係が続いていた。
それを知っていたからエーヴェルトはヘンリックもお茶に誘ったのだが、自分の妻なのにローゼリアを前にして緊張しているらしく、小刻みに足が震えているのが分かった。
侍従にはお茶の準備だけを頼んだので、ローゼリアが三人分のお茶を淹れる。将来賓客をもてなす機会がある事を想定して、王太子妃教育の中でお茶の淹れ方もしっかり叩きこまれたローゼリアはお茶を淹れるのも上手く、エーヴェルトはゆっくりと自慢の妹が淹れたお茶を久し振りに味わっていた。
「キミはお茶を淹れるのも上手いんだな」
お茶をひと口飲んだヘンリックがぽつりと呟く。
「お褒めいただきありがとうございます」
新婚夫婦とは思えない素っ気ないやり取りだった。しかし、食事の時に顔を合わせてもほとんど会話の無い二人にとっては実に数日ぶりの会話だった。
「それよりもお兄さま、お父さまからのお手紙に書かれていましたが、フォレスター領で学校をお作りになられるというのは本当ですの?」
「まずはフォレスター領で裕福な平民向けの学校を作る事と、いくつかの教会へ読み書きと計算を教えられる者を派遣したいと思っている。教会の方は昼間の短時間のみで、誰でも学べるように無料とする。領民に少しでも文字や計算の分かる者が増えれば領内での詐欺被害も減るし、フォレスター領の発展につながるだろう。裕福な平民向けの学校は貴族との付き合いのある商人の子ども向けに貴族のマナーも教えるし、こちらは授業料も設定するつもりだ」
ランゲル王国では貴族も平民も教育は各家庭でしている。貴族や裕福な平民は家庭教師を雇うのだが、そうでない平民は教育を受ける機会がほとんどなく、ランゲル王国の識字率は他国と比べてとても低いのだった。
エルランド王国では教会でも簡単な読み書きを教えているので、それを真似てみようとエーヴェルトは考えていた。そしてフォレスター領をモデルとして、王都や他領でも広めていこうと考えていたのだった。
「開校資金は今年から上げた税収分を当てれば問題はないだろう。これらの学校を運営しながら改善案をまとめた後に王都に貴族向けの学院を作ろうと思う。国の事業として出来るのが最善だが、議会の承認を得る事が無理ならば、フォレスターが運営する私学校として開校してもいいと思っている。そもそも、ランゲルの貴族子女の教育は各家によるものだから個人差が大きい。学院へ通う事で貴族間での教育の画一化を目指したいと思っているんだ」
エルランドへ留学したお陰で、エーヴェルトはランゲル王国貴族全体の教育の遅れを強く感じていた。良い種も蒔く土壌が悪ければ大きくは育たない。
教育熱心な貴族家とそうでない貴族家の差は大きく、将来のランゲル王国の事を考えていく上で、教育の改革は重要課題だと考えていた。
「お兄さま、もちろん女性も学院へ通える事は出来ますわよね?」
「そのつもりだが、この国は女子に教育は不要と思っている気質が強いから、実際に通う者は少ないかもしれない」
「私の個人資産を使いますから、一校だけでも女性だけの学校は作れませんかしら?」
「うーん、ロゼの立場的に実家であっても特定の領地の為に個人的に動くのはまずいだろう。でも母上に相談はしてみるよ。エルランドに女子学院は無いが他の国ではあったはずだから」
「ありがとうございます!」
ローゼリアは大きな瞳を輝かせながら嬉しそうな表情を浮かべる。この彼女の笑顔が自分に向けられたものではない事にヘンリックの胸はチクリと痛んだ。
「キミたちは二人共エルランドへの留学経験があったな。あちらではどのような事を学んでいたんだ?」
ローゼリアは十四歳から三年、エーヴェルトは十八歳の時に数カ月間エルランドへ留学をしていた経験がある。
ローゼリアはエーヴェルトからの視線を感じた。つまりローゼリアが話すようにと無言で促しているのだ。エルランドでの留学経験は婚約者時代に数回ほど話題に出したはずなのだが、その時のヘンリックは「そうか…」といった生返事しか返さなかった。
「エルランドでの事は昨年のお茶会の時に何度かお話を致しましたが、今日はどのようなところを詳しくお話ししましたらよろしいのでしょうか」
「……あ、ああ、そうだったな。あの時のキミはエルランド王国の事や学園という同世代の者たちを集めて学ぶ場所での話を何回かしてくれたが、キミ自身がどのような事を学んで、どう過ごしていたのか具体的な事を聞いてはいなかったと思うから、そういった事を教えて欲しい」
ローゼリアは目を見開いた。月に一、二回ほど開かれていた婚約者同士のお茶会は、毎回国王陛下から父である公爵を通してどのような話題を出すのか要望を出されていたのでその通りにしていた。
ヘンリックはいつも下を向いていて、適当な相槌を打っていただけだったら、聞いていないと思いながら話していたので、ガイドブックに書かれているような表面的な事しか話していなかったのだが、彼はその内容を覚えているようなので驚いてしまった。
「そうでしたわね。……私はエルランドでは貴族科という一般的なクラスに在籍していましたの。エルランドには小さな頃から何度も訪れていましたし、エルランド語も学んでいましたから言葉には困りませんでしたが、私はあまり人付き合いが得意ではない方ですから、学園に馴染むのに時間がかかりましたわ」
そう言ってローゼリアは自ら淹れたお茶をひと口飲む。
「学園には生徒会という生徒自身で運営する組織がありましたの。留学して三年目の時は生徒会長をしていた従兄に推薦をされて、書記をしていましたわ。生徒会を運営しているのは選ばれた方々ばかりでしたので、皆さまとても優秀でしたの。私などはいつも臆してばかりでしたが、それでも生徒会の方々はこれからのエルランドを支える方たちなのだと思い、いつも気を引き締めて仕事をいたしておりましたわ。留学は三年と決められていましたから、私は卒業年度まではいられませんでしたが、良い経験が出来たと思っておりますわ」
ローゼリアは当時の事を思い出しながら話をしているのか、瞳をよく動かしながら話をしていた。ヘンリックといるときには冷たい印象の彼女もエーヴェルトがいるせいか、普段よりも柔らかな表情を浮かべている。
いつもヘンリックに見せている無の表情よりずっと彼女を魅力的に見せているとヘンリックは思った。
「そうか、他にはどのようにして過ごしていたのだ?」
「私はこれといって面白味のない者ですから、殿下のご興味を引くような事はございませんわ。デビュー前でしたから夜会へ出る事はございませんでしたし、伯母や従妹とお茶ばかりして他はいつも読書をしていましたの」
そう言ってローゼリアは少しだけ眉を下げる。
たったこれだけの会話でローゼリアの表情はころころと変わる。ローゼリアをよく知らない者にとってはそれほど変わらないように見えるのだろうが、最近になってローゼリアをよく見るようになったヘンリックは、彼女の小さな表情の変化にも気付けるようになっていた。
これまで無表情だと思って見ていた彼女は、プライベートになると実は表情が豊かな女性である事を知ったヘンリックには、彼女が美しいだけの人形ではなく感情を持って生きている人間に見えるのだった。
「そうか、キミは本をよく読むのか。実は私も読書は好きで時々王都の書店へ一人で行く事があるんだ」
「まあ! 書店へ行かれるなんて羨ましいですわ! ……申し訳ございません、少々はしたない真似をしてしまいましたわ」
突然ローゼリアが大きな声を上げて前のめりになったので、ヘンリックは驚いてしまった。
「読書が好きなのに書店へ行った事がないとは……」
「安全上の理由ですから仕方がありませんわ」
そう言ってローゼリアは寂しそうな表情を僅かに浮かべる。
「もしかしてキミは街へ出た事が無いのか?」
「ええ、留学していたエルランドでは伯母に連れられて少し出る事もありましたが、ランゲルでは一度もありませんわ。我が家には商人が来ますから買い物へ出掛ける必要もありませんし、観劇は許可が降りませんでしたから」
ヘンリックは国王ですら時々お忍びで王都を散策していた事を知っていたから自分もそうしていたが、まさかローゼリアは自分たちとは違っていたとは知らなかった。
もしもヘンリックがローゼリアを観劇や食事に誘っていたら違っていたかもしれない、そう思うと婚約者として何もしてこなかった事がとても悔やまれた。
「……」
ここで二人の会話は終わってしまった。ヘンリックと同時にローゼリアも自分だけが全く自由が無かったのだと気付いてしまったのだろう。
「殿下、妃殿下、そろそろお時間です。続きは晩餐の席でして下さい」
それまでずっと黙って二人の様子を見ていたエーヴェルトが、お茶の時間が終わった事を告げる。お互いに過去の事を思い出して気まずい空気になりかけていたので、ちょうど良い頃合いだった。
ヘンリックは一呼吸おき、少し緊張しながらローゼリアに話し掛ける。
「ローゼリア、今日はありがとう。とても楽しかった、良かったらまたキミの話を聞かせてもらえると嬉しい」
ローゼリアは大きく目を見開く。
婚約者時代のヘンリックとのお茶会には良い思い出は一度もなく、それを引きずっていたからこれまで何度もあった彼からの誘いを断り、二人だけのお茶会を避けてきた。
もしあの頃の彼が今の彼のようだったらきっともっと色々な事が違っていただろう。
過去を振り返ってはいけないと分かっていても、彼といるといつも冷遇されていた頃の事を思い出してしまう。今日だって過去の彼とのお茶会を何度も思い出してはすぐに頭の中から追い出してきた。過去は変わらないし、変える事もできない。
突然、ローゼリアの大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。
「えっ、……もっ申し訳ないっ、……私が何か気に障る事を言ったのだろうか?」
ヘンリックは咄嗟に謝ったのだが、彼はローゼリアの涙の意味を理解してはいない。
ローゼリアはこぼれ続ける涙が止まらず、両手で顔を覆い隠しながらただ首を横に振るだけだった。
「殿下は執務室に戻って下さい。妹の事は大丈夫ですから」
エーヴェルトの焦ったような声色に後ろ髪を引かれる思いになったが、ヘンリックにはローゼリアの涙の意味も慰める方法も知らなかったから、出て行くしかなかった。
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