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第三話 一本勝負と先輩

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 本当なら、入部初日の今日は自己紹介と新入部員だけのタイム測定で終了のはずだったらしい。しかし、おじいちゃんコーチの正喜まさよしさんが俺の発言を受けて静かに頷いた。

「随分とやる気のある生徒で結構。他にも希望の生徒がいるなら、今日は先輩達と交流を兼ねた、模擬レースにしましょうか」
「ぜひ、お願いします!」
「俺からも是非。小嵐くんと早速走ってみたいな」

 他の部員達も、やはり練習よりも勝負が好きなようだ。やる気満々で、体を伸ばし出した。
 俺も、グラウンドの中央でストレッチをした後、何本か力を抜いて走ってみる。人工芝の上を踏み締めて走るのは気持ちが良かった。少し離れたところで、真白先輩がジョギングよりも少し早いペースで走って体を温めている。背筋の通った、綺麗なフォームだった。


 部員達の頃合いを見計らった頃に、正喜さんから集合の合図を受けた。部員数が多いので、同じレースに真白先輩がいなかったらどうしようかと思ったけど、杞憂だった。二試合目に、俺と先輩の名前が呼ばれた。
 隣のレーンに真白先輩がいる。近付いて分かったけど、どうやら俺の方が身長は高いみたいだ。それもなんだか嬉しくなって、先輩に笑いかける。

「良かった。黒野先輩と同じレースで」
「俺達が言い始めたことなんだから、正喜さんも気を遣ってくれたんだろうね」
「俺、絶対に先輩に勝ちます。自己紹介の時はふざけてましたけど、足には自信あるんです」
「全国大会に行くくらいだからね。初めから油断はしてないよ」

 スターティングブロックを合わせるために、先輩が足を真っ直ぐに揃えて歩数を測り出した。俺も、彼にならってブロックを合わせる。俺の方が、足も大きい。

「セット!」

 合図に従って、スタートポーズを取る。横目でちらりと先輩を見れば、先輩もこちらを見ていた。一瞬の視線の交差。早まる心臓の音は、これから始まるレースへの高揚感か、それとも───。
 真っ直ぐに伸びた白いラインの前方を見据える。

ッパアン!

空砲がなった。初速は俺が頭一つ抜けた。よし、このままいける。ぐんぐんと加速する足。今日はいつもよりも調子が良かった。程よい緊張感が、俺の鼓動を早くする。身体中の血液が心地よく巡っていくのを感じる。目の前には誰もいない。自分以外の存在を感じないこの瞬間が好きだ。
 すると突然、視界に人影が映った。トップスピードは既に超えている。なのに、誰が俺の視界に入り込んできたんだ。走っている時だけは、誰にも負けない、負けたくないという自信過剰な自分が芽生える。
 俺の視界を妨げる相手の顔を見る。
 その横顔は美しかった。ブレることなく一心に前を見つめる鼻筋の通った顔。呼吸のために開かれた口元すら、彼の魅力を引き立てる演出のようだ。
 気付けば頭ひとつ分、彼は俺の前を走っている。高まっている俺の心臓が、過去最高のリズムを叩き出している。───絶対に、負けない!







「……っは、はあ!はあっ……」
「……は、っは…………はぁ……」

 ゴールは、少数単位の差だった。高校に入って初めてのレースは、俺にとって記念すべき最初の負け試合となった。膝に手をついて、荒げた息を整えていく。正直、負ける気がしていなかった。先輩よりも体格はいいし、初速は俺が勝ってた。なのに、

「……っはぁ。……小嵐、くん」
「はぁ……はあ……っ。黒野先輩……」
「……は、俺の勝ち、みたいだね」

 先に息を整えた先輩が、俺の側に近付いてしゃがみ込んだ。膝に手を置いたままの俺の顔を、覗き込んでくる。
 先程自信満々に勝利を宣言した手前、なんだか格好がつかない。ひゅ、と吐き出しそうになった息を飲み込んだ。そうだ。ただ悔しがってる場合じゃなかった。俺は負けた。つまり、先輩とは友達になれない。
 得意の走りで負けて、先輩とも友達になる資格がない。自分で仕掛けておいて、なんという二重苦だろう。
 次第に呼吸は治っていったが、顔がなかなかあげられない。先輩は、まだ俺の顔を覗き込んでいる。

「良かったね」
「……なにが、ですか。もしかして、煽ってます?」
「いや、煽ってないよ。ねえ、小嵐くんのこと司って呼んでいい?」
「……え、」
「もしかして馴れ馴れしかった?」
「そんなことは……というか、え?」

 膝に手をついたまま顔を上げれば、先輩は笑っていた。本当によく笑う人だ。俺は首を傾げて先輩に言った。

「俺のこと、名前で呼んでくれるんですか?勝負に負けたのに……友達みたいに」
「勝負は勝負だから、友達にはなれないね。でも親しくはなれると思って。俺のことも下の名前で呼んでいいから」
「真白先輩って?」
「そう」
「呼んでいいんですか?!」
「ふふ、いいよ」

 先輩は、額から流れる汗をそっと半袖のTシャツで拭った。綺麗に割れた薄い腹筋が、チラリと目の前に現れる。見ないふりして視線を逸らすと、もう一度先輩が笑った。そして、俺の肩に手を置くとそっと肩を押した。自然と視線が上を向いて、先輩と視線が合う。

「俺、走ることが好きなんだよ」
「俺もです。だから、負けたのが悔しくって」
「俺もそう。だから、司が負けてくれて良かったよ」
「どうしてですか……?」

 先輩は、芝生の方まで俺の背中を押しながら言った。

「司とは仲良くなれそうな気がするんだよね」
「それはかなり嬉しいです」
「俺も嬉しい。だけど、負けず嫌いだからもし司が勝ってたらそもそも友達になれなかったかも」
「ええっ!勝負なのに!」
「あはは。そう、勝負なのに。まだよく知らない1年相手に負けたってなったら、友達以前にライバル視しちゃうかもしれない」

 それって、今後もし先輩に勝つようなことがあったら友達に昇格どころか敵視されるかもしれないってことか?あくまでも、今は親しい後輩の座を手に入れる権利を得たってだけの話なのかもしれない。がっくりと肩を落とせば、真白先輩は俺の様子に気付いたみたいで、優しく訂正した。

「司と親しくなりたいってのは本音だよ。素直に面白いし、君って。お互い走るのが大好きなのは今日でよく分かったし、お互いに高め会えると思うんだよね」
「でも、もしも俺が勝ったら友達にはなれないんですよね……?」
「よく知らない相手に負けたらって言っただろう?親しい後輩だったら、後々何にでもなれると思わない?」
「………………確かに?」
「ふふ、そうだよ。明日からもよろしく。頑張ろうね」
「……はい!俺、絶対に真白先輩に勝って、先輩の親友の座につけるように頑張りますね」

 親友?と先輩は首を傾げていたけれど、俺は誓った。友人だと、さっき真白先輩の肩に気安く肩を置けるくらいの仲だろう。それならば、俺はその上をいきたい。目指すなら、先輩の親友になろう。



 

 
 その日から、俺は部内で一番、先輩に近い後輩になった。しかし未だ、後輩以上、友達未満の関係は続いている。









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