聖なる剣と氷の王冠

紫夕

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ムンライ

第一章四話

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 昨晩も殆ど眠れなかった。朝方になってようやく遠のいた意識が、誰か自分を呼ぶ声で再び覚醒する。
「村主様」
「村主様!ゼルス義兄さん!大変だ!」
 薄い壁の向こう側から、ノルカとソルカの声がする。昨日のいざこざも忘れて、今日も自分を揶揄いに来たのか。仰向けにしていた体を横たえ、声から背を向ける。放っておいて欲しかった。そもそも、デルカとの仲を更に悪化させる原因になったのは、奴ら兄弟のせいだ。今日ぐらいは、話を聞いてやらないでも問題ない。
 ゼルスは瞼の裏を眺めた。頭の中で、ぼんやりと昨夜のやりとりが思い起こされる。溜息が出た。
 ゼルスにしても、近頃のムンライはそこまで気を張るほど、危険な場所だとは思っていなかった。シーマからも、無理に戦の前線とするために土地の開拓を迫られるようなことも無くなり、メルー川の激流から他国が入り込むこともない。そんなことは分かっていた。
 だがもし、この平穏を破る何かがあってから行動を起こすようでは遅いのだ。それでは、父が命を賭けて守ったこの村を受け継いだ自分を許せなくなる。だから必然と、危険な行いには敏感になっていた。デルカや、デルカの兄弟のようにゼルスから近しい人間にとっては、ゼルスの一方的な心配などは余計なお世話だったのだろうが。
 ユルドミアの紋章指輪についても、ノルカの言っていたように、鈍間なユルドミアの貴族が落とした指輪を鳥が運んできただけかもしれない。そもそも宝石商でもない自分が、勝手な勘違いで指輪を本物だと思い込んでいる可能性もあった。───むしろその可能性の方が大きいのか。段々と、昨日まで恐れていたことも、馬鹿らしく思えてきた。再び寝返りをうった。少し眠ったら、後でデルカに謝りに行こう。悪かったと。近々街まで行って、デルカの気に入りそうなものを探して来ようと。
「義兄さん、入るよ」突然、ゼルスの思考を邪魔する声と共に、ノルカが家に上がり込んできた。後ろには、泣きそうな顔でソルカもいる。
「お前たち。勝手に入ってくるなと何度も───」
「姉さんが連れて行かれたんだ!」ゼルスの顔を見て耐えきれなくなったのか、ソルカが泣いた。よく見れば、ソルカは全身が傷だらけで、顔も服も泥に塗れていた。一体どうしたのか、と尋ねる間もなくノルカが珍しく強張った顔をして、ゼルスの腕を掴んだ。ゼルスは床を転がるようにして立ち上がった。
「待て、待て。どこへ行く」ゼルスは狼狽えた。まだ頭が追いついていなかった。デルカが?どういうことだ。ノルカは、ゆっくり説明している暇はないと言って、ゼルスを森の奥へと引っ張っていく。ソルカが、痛めた体を庇うように後ろから追ってくる。どうやら少し足も引きずっていた。
「ごめん、ごめんなさい。ゼルス義兄さん」ソルカの声は震えていた。理由も言わず謝り続けている。ゼルスの腹の底から、不安の種が育つ。まさかと思い、隣で血相を変えたノルカを見た。ノルカは今にも吐き戻しそうだった。そして、言った。
「───今朝ソルカが、指輪を捨てるためにメルー川に行ったんだ」
 ノルカは、息を切らしながら捲し立てるように話した。昨晩、ゼルスが帰った後。ソルカはデルカに指輪を元あった場所に捨てて来ようと言った。デルカは泣き通して指輪を返そうとはしなかったという。仕方なく、デルカが寝入った頃にこっそりと指輪を抜き取ったソルカが、朝早く一人でメルー川に指輪を捨てに行ったのだ。
 ソルカがこっそりと小屋を抜け出すのを不審に思ったノルカが、それに気付いてデルカを揺すり起こした。そこで初めて、デルカの左手から指輪がないことに気付いた。
 デルカは慌てていたという。急いでデルカ共々、ソルカを追ったところで、メルー川にソルカ以外の人影が見えた。
「いったい誰がいたのだ」ゼルスが問う。鼓動が、痛いほどに速まった。
「………………ユルドミアの、王」ゼルスは瞠目した。
「ビスマロか……!?」信じられないでいると、ソルカが再び涙を目に溜めながら謝った。
「ごめんなさい……見慣れない、船が……停まってたんだ。指輪を捨てる前に、こっそり近付いて見ようとしてたら、見つかって」
「メルー川に着いた時、ソルカがユルドミアの兵士に押し倒されてた。手に持ってた指輪も、その時に見つかって」
 ノルカの話曰く、ビスマロはまだ幼い容貌で、従者と兵士を数人引き連れていたという。ビスマロが言った。『我妻となるものに贈るつもりであった紋章指輪を、盗んだ不届きものはお前か?』
 突きつけられた剣先に怯えるソルカに、見ていられなくなったデルカが、ノルカを置いて飛び出していったのだ。ノルカは、デルカとソルカが斬られる覚悟をした。───すると。
『……美しい』そう、ビスマロが言ったという。そこからは、信じられない思いでノルカは一部始終を見ていた。デルカが、ビスマロの従者に押さえつけられながら、まだ青年にも満たないビスマロに無理矢理口付けられる姿を見た。
 ソルカが、抵抗しようと踠いて、屈強な男たちに蹴り付けられる瞬間を見た。ノルカは、草葉の陰から見ているだけで何も出来なかった。気付いたら時には、河川敷に横たわるソルカを抱えていた。そしてデルカは、見たこともない船に乗せられて、ビスマロと共に消えてしまったという。
 木々の間を駆け抜けながら、ゼルスの隣を息を切らして走っていたノルカが、耐えきれなくなったように嗚咽をあげた。ゼルスは、怒った。ノルカを責め立てた所で意味がないことは分かっていた。しかし、気付けば怒鳴り付けるように、ノルカの肩を掴んでいた。
「デルカは、どうして連れて行かれたのだ!」
「ビスマロが……姉さんを妃にしたいって……」本気かは分からないけど、とノルカが答えた。呼吸もままならないノルカの側に、ソルカが駆け寄った。
「ノルカは悪くないんだ。ごめん……義兄さん。僕が余計なことをしたから…………」
 もはや、走る気力も残っていなかった。何故ビスマロがムンライにいた?どうやって、あの激流を渡れる船を作った。どうして、デルカを攫った?───どうして、何故だ。波のように押し寄せる後悔と苛立ちで、ゼルスは今にも気を失いそうだった。
 ユルドミアに連れて行かれたデルカを、どうやって救い出せばいい?敵国に連れて行かれた者の末路など、もはや決まっている。しかし、認めるわけにはいかなかった。
 肌を刺すような日差しに、どんよりとした分厚い雲がかかる。森に雨が降り始めた。じきに大降りになるような雨の匂いだ。跳ねた雨粒が、ゼルスの足元を汚していった。
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