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1.“ロシュツキョー”
しおりを挟む「体育館に“ロシュツキョー”がいる」
と、木に登った少年Aが、その下でアイスをくわえた少年BとCに言った。果たしてその名詞の意味を分かっているのかは定かではない。
とにかく暑い。日光は眩しいなんてもんじゃなくて、本格的に目と肌を焼き殺しにきている。“ロシュツキョー”か。僕はその“ロシュツキョー”の付き添いでここにいる。
こんな日に体育館の中で過ごすというのは地獄・オブ・地獄で、その上運動なんて考えたくもない。僕は明度最高レベルの外側から、半分開いた引き戸の向こうに広がる暗がりを眺めた。目が慣れてくると体育館の中にようやく、先輩の姿を認める。
少年たちが露出狂だというのもわからなくはない。この脳みそも蒸発しそうな猛暑日に、長髪の彼女はあいも変わらず黒いロングコートを着ている。講義室で突っ伏しているときも、食堂で見かけたときも、部室にたまに顔を出したときも、いつも同じ格好をしている。
先輩は汗をかかない。寒がりなのかもしれないが、人間の体温より高い気温の今日みたいな日に「寒い」なんて人間はいないだろう。それでも彼女は、自分の一部であるかのように黒いコートを常に身につけている。
『ーーソレウス構造体掃討実験ってのは3つの場が重なり合うことで成り立つものだ。確かにソレウス構造体はとても小さな存在ではあるのだけど、せいぜいマイクロメートルの物差しで測れるくらいだから、“量子の重ね合わせ”とかそんな難しい話ではない。どうか聞いてほしい。
まずは血管内フィールド。ソレウス構造体に寄生された患者の血管内に構築されたフィールドだ。1辺が50マイクロメートルの立方体で、これは幾何学の授業でやるような、太さを持たない線分で構成されてるわけではないから、ちゃんと頂点も、辺も、面もある。
頂点となるのは毛細血管の壁面に固定されたナノマシン。8つのこいつらは外科的処置により、外部から供給される電気や情報を元に辺や面を生成する。底面にはシリコンが、対角線上に貼られており、その交点に“ソレウスキラー”が設置されているーー』
セミが鳴いている。体育館脇の足洗い場が併設された水場は、人肌の2倍程度には熱せられていて、無論蛇口に触れることは憚られた。僕は喉が渇いていた。蛇口を捻ることができたとして、銀の蛇口から渾渾と溢れ出す生水を直に飲むことができるかというと、無理だ。
幼年期はとうの昔に過ぎ去った。冷えたコーラ、辛口の缶ビール、安いハイボール、ペットボトル入りのミネラルウォーター。生水よりうまいものはたくさんある。あとで自販機を探そう。
『ーーソレウスキラーは20マイクロメートルほどのマイクロマシン。小さいけれど、倒すべき相手よりはちょいとばかしデカいから心配しないで大丈夫。大事なのは大きさじゃなくて、“誰が操縦するか”ってとこ。
胴体からは1対の腕が生えていて、一方はソレウス構造体を物理的に捕捉するためのアーム。もう一方は(こっちの方が重要なんだけど)、ソレウス構造体の活動を停止させるための即効性ワクチンが入った注射針状の武器がついている。
腰部は傾きやねじれを再現できるようボールベアリングになっていて、脚部は上下動をするためにバネ状になっているんだけど、その根元へ視線を辿ったところで足みたいなものは存在しない。
ではどうやって動くのかというと、さっきのシリコンが役に立つ。シリコンっていうのは電気を流すと収縮する。シリコンっていうとプルプルしてるってイメージかもしれないけれど、ミクロの世界では結構強靭なんだ。
シリコンを収縮させることで、ソレウスキラーは底面上を縦横に移動することができる。電力供給を最小限にすることで、シリコンが緩んで3次元方向に移動することも可能だけど、流れる血液の影響を受けるためコントロールが困難になるから、現実的には不可能かな。
アミラルβ線によっておびき寄せられたソレウス構造体がフィールド内に侵入すると、直ちに立方体の面に有機膜(僕らはバイオシールドって呼んでる)が生成され、ソレウス構造体をフィールド内に捕捉する。有機膜は白血球による攻撃を受けるため、8分間しか保たない。だから短期決戦でとどめを刺さなきゃならないーー』
先輩は体育館の中を1人、ぐるぐると歩き回る。規則正しく、決まったペースを崩さない。足を止めたと思うと、よくホームセンターの入り口に積んであるようなレンガ大のボックスを、ワックスがけされた板張りの床に据えた。
やがて4つのボックスが置かれ、それを星座みたいに繋ぐと正方形になったところで、動きを止める。一辺4メートルの正方形の真ん中、対角線が交わるところで胡座をかいて瞑想を始める。
いつものルーティン。すとんと肩にかかった髪が熱気のせいか揺らめいて見えた。
『ーーそうだ。ソレウス構造体の説明がまだだった。正式名称『循環器系寄生細菌様自律的構造体』。人間の血管内に寄生し、自立した動きを見せる、体長8マイクロメートルほどの微小な有機体だ。血管内を回遊し、正常な細胞にウイルスを植え付けガン化させる。ガン化した細胞が一定量を超えると、患者は体が動かなくなり植物状態になる。
それからさっき出てきたアミラルβ線の説明もしなくちゃね。ソレウス構造体が発している特殊な放射線がアミラルβ線で、ソレウス構造体はこれに引き寄せられる性質を持つ。ソレウス構造体は自分の遺伝情報を埋め込んだ悪性細胞を、アミラルβ線でコントロールすることができる。
これがソレウス構造体の厄介なところで、ソレウス構造体と悪性細胞は相互に情報を送りあっていて、ソレウス構造体を捕捉し体外へ摘出すると、ガン化細胞が活性化し病状が悪化してしまう。最悪の場合、死。だから摘出はせず、体内でソレウス構造体の活動を止め、近赤外線を使った光免疫療法や高分子ミセル等によって、ガン化細胞を直接叩くしかない。
ソレウス構造体の正体や起源については進化した病原体、地球外から飛来した外的生命体などの説があるけれど、誰にもわからないーー』
スマホが震えた。
「コウちゃん先輩、今どこですか? ソ対機からめちゃくちゃ電話きて、流石にしんどいんですけどー」
「……あー。今、波根有西小の体育館」
「はあー? なんで小学校なんですー!?」
スマホの向こうで1回生の一ノ瀬マドカが「どーりで市内で見つからんわけだ」と悪態をついた。僕だって空調の効いた市立体育館でコーラ片手に8分間の戦争を眺めていたかった。
でも仕方あるまい。先輩が「小学校の体育館がいい」と言ったから、こうして急遽、夏休み中の母校に頼んで開けてもらった。先輩と一緒にいて予定通りにいった試しはない。
「位置情報確認できましたよー。フィールド構築は?」
「大丈夫。多分」
「曖昧ですね。はっきりしてくださいよー。こっちからソ対機には、丁重にお詫び申しあげておきますから。……では、健闘を」
「ああ、伝えておく。そっちも頼んだ」
通話を切れる間際にマドカが小言をひとつ。
「あとコウちゃん先輩、ちゃんと学祭用の資料作っといてくださいね」
「言われなくたって、ちゃんと今書いてるから」
「なら、いーですけど!」
予定の開始時間まであと3分。ギリギリもいいところだ。まあ敵の方だって予定通りには現れない。
今頃、マドカとヨウジロウは冷却ファンが轟音を立てる蒸し暑い部室でディスプレイを眺め、キーを叩いているはずだ。利用規約に「禁煙」とある部室棟の一室を紫煙で満たして。いつか管理人に詰められるだろう。でもヨウジロウにタバコを止めろとは言えない。「タバコ止めるくらいなら、操縦研辞める」と、あの陰気な顔で言われるに決まっている。奴が止めると研究会の活動は立ち行かなくなるのだ。
刻一刻と迫る予定時刻については一切心配していない。優秀なあの2人なら3分なんて充分すぎる。
『ーー話を3つのフィールドに戻そう。2つ目は仮想フィールド。ソレウス体はとても小さいため、光学的に観察することはとても難しい。だから流体数値力学に基づいて数値計算を行い、その位置や運動を捉える必要がある。
そのためソレウスキラーに参加する人たちは、ソレウス構造体対策機構からリアルタイムで送られてくる情報を元に計算を行い、ソレウス構造体の位置を特定する。ヴァーチャル空間に仮想の立方体フィールドを構築し、ソレウス構造体の動きを可視化して、掃討実験にかかるわけだ。
仮想敵は実物のソレウス構造体の形に忠実である必要はなくって、掃討実験に支障がなければどんな形でも良い。クトゥルフのバケモノでもチョココロネでも、それからアゲハ蝶でも。
ソ対機の説明もまだだったね。ソレウス構造体対策機構ってのは、その名の通り、ソレウス構造体を倒すために設立された機関だ。長いから縮めて「ソ対機」。WHO直轄機関で世界中に支部が存在する。もちろん日本にも。
各施設内にはソレウス構造体掃討実験の設備が整っていて、科学者や医師が常駐、日々研究を行なっている。始めに挙げた1つ目のフィールドに関わるのがこの機関だーー』
体育館前のヤマモモの木の下で少年たちが1つのタブレットに顔を寄せている。小さなスピーカーから発せられたざらついた音声が、ぬるい風に乗って聴こえてきた。
“日本からの初参戦! なんと大学の同好会で組んだチームだ! 事前データの乏しさから人気は低く、大方の予想は“敗戦濃厚”。オッズの方もご覧の有様で、大穴狙いのギャンブラーたちが……”
人の生命がかかった戦いをエンタメ化する“大人”たちが嫌いだ。“金と利権”が、干上がった地面で跳ねるミミズみたいに蠢く様を連想した。でもそれを見守る少年たちに罪はない。彼らの歪みのない目には憧れと興奮が浮かんでいる。
ヒーロー。いつの時代も子供たちは、それを信じている。僕だってそんな子どもの1人だった。かつては。でも彼らに、ディスプレイの中のヒーローが、すぐ隣で胡座を組んでいる“ロシュツキョー”であると言っても信じないだろう。
「……きたっ!」
少年(おそらく)Bが叫んだ。遠く離れたワシントン州立大学病院の特別処置室で放射されたアミラルβ線が、とうとう敵をおびき寄せたらしい。同時に、揺らめく灼熱の体育館の中で影が動いた。黒いコートが宙を舞う。四角い(と言っても頂点だけで、目で確認できるような辺は存在しない架空の正方形の)フィールドの外にそれは着地して、彼女の四肢が露わになる。
黒いボディスーツ。残念ながら露出狂ではない。“ロシュツキョー”だと騒いでいた当の少年たちは、画面に釘付けで気づいちゃいないが。
上半身を覆った合成繊維のスーツには所々ドットが付いていていて、左の二の腕あたりには、デバイスを固定したバンド。そこから伸びるコードの先は、頭の上に乗ったヘッドマウントディスプレイに繋がっている。
身長179cmの寒がりな女は、VRメガネ越しにその敵と対峙しているのだ。彼女にとってその敵は、1匹の“アゲハ蝶”に見えている。
『ーーまた話が逸れた。残る最後のフィールドはアクションフィールド。ソレウスキラーの操縦に必要不可欠だ。1辺4メートル四方の正方形上のフィールドで、頂点に設置された4つのパンクタムボックスが操縦者の動きをモーションキャプチャする仕組みになっている。
その操縦者の動きがリアルタイムでリンクすることでソレウスキラーが動く。操縦者はモーションキャプチャ用のドットがついたスーツとVRのウエアラブル端末を付けている。VRメガネを通して仮想フィールドを視認し、ソレウス構造体を視覚的に捉え、攻撃することができるーー』
細長い脚のどこに、あれだけの初速を生み出す筋力が備わっているのか。縦横無尽のフットワーク。狭いリングの中で、シャドウボクシングをしているようにしか見えない。しかし、彼女は今まさに眼前ではためく邪悪なアゲハ蝶と戦っている。
超高速回線を通じ、彼女の動きと同期したミクロマシーンが、10,900キロメートル離れた場所で躍動しているのだ。
一方、某地方都市の市立小学校体育館では、女がフィールド内を跳ねるたび、茶色い長髪が空間に拡がっては落ちを繰り返す。裸足の指先が床を噛む。顔はいたって涼しげ。
少年たちのディスプレイに移っているのは仮想フィールド内映像だ。地下闘技場のケージリングみたいな立方体フィールド内で、対峙する1体のロボットとモンスター・バタフライ。バケモノみたいにデカいアゲハ蝶は翼をはためかせながら、フィールド内を移動する。
しかし、その3次元方向への動きと羽の動きには何の関連性もない。なぜなら本物のソレウス構造体には翼なんてないから。4本の触手のついた長めの三葉虫。それが顕微鏡で見たソレウス構造体の真の姿。でもわざわざ仮想ヴィジュアルを製作するときに気色の悪い形をそのまま再現する必要はない。4枚の羽根はただの飾りだ。
先輩にどんなヴィジュアルがいいか、と聞くと「アゲハ蝶がいい」と言った。そういうことに無頓着な人だと思っていたから、部員一同少なからず驚いた。でも戦うのは先輩だから誰も文句なんて言わなかった。
ソレウスキラーを品定めするように、フィールド内を周回するソレウス構造体。今にも触手を伸ばしソレウスキラーを捉え、細胞膜をやすやすと貫くことができる強靭な口吻を、ボディに突き立てるタイミングを図っているのだろう。もしくは繰り出される攻撃を避け続け、バイオシールドが崩れた頃、逃げる算段でもつけているのか。
先輩が操縦する機体は、ソレウス構造体と一定の距離を保ちながら奴を仕留める隙を待つ。与えられた時間は8分間しかない。
しかし下馬評を覆し、そして僕ら部員の予想をも覆して、勝負は呆気なく、そして一瞬で終わった。勢いよく伸びた右腕が宙を裂く。捕捉用アームがソレウス構造体を捉えたのだ。チェックメイトの合図だった。早すぎる。開戦から1分少々。やはり先輩は特別だった。それまでの漠然とした「うまくいく」という根拠のない僕らの自信は、確信に変わった。
左手がソレウス構造体の体を貫く。すなわち敵がとどめを刺されたということ。極細針がソレウス構造体の胴体に突き刺さり、即効性の分解酵素が注入され、バージェス・モンスターの生き残りみたいな形の矮小な生命体は、程なく活動を停止する運命にある。かくしてアメリカ在住の名も知らない患者の、生命を謳歌する権利は取り戻された。
「大会最速KOだって……」
少年たちは熱中症にでもなったかのように(いや、なっているのかもしれない)、呆けたように呟いた。気づけば、さっきまで頭に叩きつけてきていたセミの声が止んでいた。雨でも降るのだろうか。しかし、空は嫌味なほど晴れ渡っている。夕立などまだきそうにない、正午過ぎの校庭。
『ーー以上、3つのフィールドを同期することで、ソレウス構造体を認識し、ソレウスキラーを操縦、ターゲットを掃討する、という流れ。操縦に関わる仮想フィールドとアクションフィールドは実験に参加する人たちが各自で行う。
実験参加には高難度の試験、仮想実験などの選考を経なければならない。これでも僕ら蒲生里大操縦研は、その高くて険しい山を乗り越えた結果、実験参加の権利を勝ち得たのですーー』
学園祭の企画展で配布する資料を書き終えた僕の手は震えていた。体育館の中の先輩はたった今成し遂げた偉業なんて気にもしないで、そそくさとデバイスを回収し、紙袋にしまい始めた。僕は唐突に喉の渇きを思い出して、自販機を探しに向かう。
先輩が僕の待つ校門脇の駐輪場についた頃、僕のスマホに6度目のバイブレーション。
「ナナカ先輩に代わってくださいっ!」
ようやく取り出したスマホの向こうでマドカが叫んだ。暑さでやられた頭に追い打ちをかけるように響く。中型バイクに跨り、今にも走り出そうとする華山先輩にスマホを押し付けた。
僕は(エンジンが冷えていないくそ暑い夏場でも、キックじゃなければエンジンがかからない)オンボロ原付のエンジンをかけながら、先輩に目をやった。華山先輩は少しはにかみながら会話をしている。
マドカとは息が合う。というか僕に少しばかり冷たすぎる。別に悔しくなんかはないし、寂しくなんかもない。
通話を終えた先輩はフルフェイスのヘルメットを被った。僕のものより一回り小さい。
「ごめん。これ部室持って行って」
ミラー加工されたシールド越しのこもった声。通話を終えたスマホを返すついでに件の大きい紙袋を渡された。ずっしりと重い。中にはフィールドの四方に置くパンクタムボックス、ヘッドマウントディスプレイ、バッテリー、その他諸々。僕はメカには詳しくないからよくわからない。
「先輩。これ」
さっき自販機で買っておいたペットボトルのクリームソーダを投げてよこした。ゆるい放物線を描いたペットボトルを、流石の反射神経で先輩はキャッチした。
「飲まないと体壊しますよ。暑いですから、今日」
汗をかかないのに水分補給が必要なのかはわからないが、とはいえ先輩も血の通った“人間”だろうし、こまめな水分補給は大事である。ペットボトルを一瞥して、無造作にコートのポケットに突っ込んだ。バイクのアクセルを蒸す。先輩がメットのシールドを上げた。長い睫毛に縁取られた目が覗く。その片方がぱちりと閉じた。
「ありがと」
バイクが走り出す。メットに収まりきらない艶やかな髪と黒いロングコートがなびく。ウインクの余韻と残り香だけを置き土産に先輩は去っていった。
たまにこういうことするからどきりとさせられるのだ。頭がぼおっとするのは暑さのせいだけだろうか。
プールの塩素の匂いが風に乗ってやってきて、先輩の置き土産をかき消した。風向きが変わったらしい。やっぱり夕立は近いのかもしれない。早く大学に戻った方がいい。
でも未だ原付のエンジンはかからない。
夏はまだまだ続く。
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