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11.円(まどか)
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実験開始前、ひとり、院内を歩いていたところ、ロビーでマドカの父親に会った。親族と言えど処置室内での立ち会いは許されていない。実験が完了するまで、処置室近くの待合室で成功を祈ることしかできない。白髪が目立ち始めた痩身の彼の目にはどこかマドカの面影を感じる。
「マドカは研究会のみなさんが大好きみたいです」
彼は破顔した。マドカは大学からそう離れていない場所に実家があるくせに、一人暮らしをしていた。マドカのわがままだったらしい。娘が一人暮らしをしているというのは不安で仕方ないだろう。しかもソレウス構造体に寄生されてしまった。かける言葉がない。
「あの子の母親は10年前、ソレウス体に寄生され、死にました」
初めて知った事実があまりに重すぎた。ソレウス構造体に寄生されて亡くなるケースはそう多くない。彼はソファーに浅く腰掛け、手を組んでいた。彼は淡々と話し出す。
マドカの母親が発症したのは11年前。まだソレウス構造体の性質がよくわかっていない頃だ。ソレウスキラーはまだ臨床実験段階だった。ソレウス構造体の寄生が医師より告げられたとき、まだ身体が動いていたマドカの母は、実験を受けることに進んで同意した。幼い娘を残して死ぬわけにはいかないという思いからだった。それからそう経たないうちに彼女の身体は動かなくなり、程なくソレウスキラーが実施される。
しかし、マドカの母は再び一人娘を自らの腕で抱くことはできなかった。アミラルβ線の放射量にミスがあった。本来ならソレウス構造体をおびき寄せるはずのアミラルβ線がソレウス構造体と悪性細胞を刺激した。細胞の崩壊が始まる。重大な医療事故。これを教訓に、その後アミラルβ線の放射に関するミスは起きていないらしい。多くの人々が救われるきっかけとなった。
けれどマドカの母親は戻ってこない。マドカが操縦研に入ったのは母親のこともあったのかもしれない。思いもよらずマドカの思いを知り、目頭が熱くなる。
「マドカは絶対に助かります」
僕が震える声で言うと、マドカの父は微笑んだ。
掃討実験の開始予定時刻まで30分を切った。僕はアクションフィールドへ向かう。関係者専用駐車場にはさっきまではなかった赤のカラーコーンが置かれ、『関係者以外立入禁止』の張り紙がガムテープで止められている。その向こうには、病院でよく見かける白いパーテーションがいくつも並べられていた。確かにこの位置からは見えなくなっているが、院内の上階から見下ろせば丸見えだろう。
その白い舞台幕の向こうを覗くと華山リナが立っていた。革ジャンのポケットに両手を突っ込み、目を瞑っていた。4メートル四方のアクションフィールドの真ん中で、イヤホンから流れる音楽に合わせリズムをとっている。これが彼女なりの精神統一法なのだ。その側では2人の男がノートPCに噛り付いていた。最終チェックに余念がない。
華山先輩とヨウジロウたちは特別処置室横のオペレーション室で待機すると言ったが、僕はここでリナチームの掃討実験を見守ることにした。もし彼らが何か不甲斐ないことをしたならば、殴り倒してでも代わりに遂行するつもりだった。確かに華山リナは伝説の操縦者だ。でもそれはジャイアント・アーマーズに限ってのこと。ソレウスキラーに関しては僕の方が知識も経験もある。
僕はソ対機から貸与されたタブレット端末を取り出す。ベイリー所長の好意だった。僕は画面の中に展開された仮想フィールドを見た。危うくタブレットを落としてしまいそうになる。華山リナの自信とそれを裏付ける才能が恐ろしくなった。表示された仮想フィールドは立方体ではなかった。6つの面が平面ではない。中央に向かってたわんでいる。角が尖ったサイコロと言えば伝わるだろうか。
リナチームの狙いをなんとなく察する。仮想フィールドを僅かに狭くすることで、アクションフィールドでの動きが少なく済む。また、違った形の2つのフィールドを同期することでソレウスキラーは予測不能な動きをする。これでソレウス構造体は敵の行動予測が困難になるのだ。
しかしそれはリナチーム側も同様。いくらコンピュータで補助するとは言え、操縦するリナもそのズレに対応しなければならない。常人にできることではなかった。彼らはこの方法でソ対機の高難度の試験をパスしたというのか。僕はさっきまであったはずの自信が崩壊した。彼らには勝てない。
開始時刻が来た。タブレット端末にアミラルβ線放射開始の旨が表示された。華山リナはイヤホンをつけたまま、まだ身体をゆらゆらとさせ目を瞑っている。もう夏も終わろうとしているのに、健気に頑張るセミの声に紛れて、イヤホンから漏れたハイハットの音が聴こえてきた。日差しが堪える。
リナが動き出した。細かいフットワークで攻撃を避け、断続的に打撃を繰り出す華山先輩とは異なったファイトスタイル。最小限の動き。煙のようにゆらゆらと。ソレウス構造体から繰り出される攻撃を避け続ける。タブレットに目をやると、仮想フィールド内で“ソレウス構造体”が蠢いていた。ソレウス構造体、そのままの姿の仮想ヴィジュアル。所詮紛い物の仮想ヴィジュアルになどリナには興味の欠片もないらしい。ふざけているようなファイトスタイルだったが、リナの口元は固く結ばれ真剣だった。ウエアラブルデバイス越しにでも、獣のような目が空間を鋭く注視してしているのを感じる。
マドカは助かるかもしれない。彼らが失敗するはずがない。リナの動きが速くなる。リナの不規則な操縦と同期がズレた特殊フィールドが化学反応を起こす。ソレウス構造体は予測不能な動きに対応できなかった。2分が経過した時だった。それまで法則性のない動きをしていたリナが、アクションフィールドの角へ向かって踏み込んだ。直線的動き。ーー突進。側から見ていても凄まじい速さだったが、対峙するソレウス構造体にはもっと速く感じたはずだった。
角に追い詰められたソレウス構造体。リナが右手を突き出す。左手は使わない。捕捉アームなど、はなから必要なかった。串刺し。
ソレウス構造体は完全に沈黙した。成功だった。僕はタブレット端末の電源を落とす。全身の力が抜けた。マドカは助かった。いや、まだソレウス構造体が消滅しただけで、悪性細胞は身体中転移している。だからこれからも細胞を正常化させるための治療は続く。高分子ミセルなどの癌治療技術が進んでいるので、きっと大丈夫だ。よかった。僕は自分の手で掃討実験を行えなかったことに対してつい先日まで憤っていたことなんか、すっかり忘れていた。とにかく、よかった。今はそれだけ。
僕はアクションフィールドの真ん中で、ウエアラブルデバイスを外しながら汗を拭うリナに頭を下げた。声を出したら泣きそうだったので、無言だったけれどもリナには伝わったらしい。
「早くお友達のところへ行ってあげな?」
僕はもう一度お辞儀をして、走って特別処置室へ向かう。
足取りは軽い。涙より先に決壊した鼻水が流れ出す。こんな間抜けな状態の自分を客観視して可笑しくなる。特別処置室からは皆が騒ぐ声が聴こえた。僕はその輪に入るべく意気揚々とドアを開ける。
華山先輩もヨウジロウも泣き叫んでいた。佐藤主任が「どうして」と頭を抱えていた。ベイリー所長が呆然としたまま、ただ突っ立っていた。マドカの父親が特別処置室へ入ろうして、スタッフに組み敷かれていた。特別処置室の中ではスタッフがパニック状態で、青白い顔のマドカを心臓マッサージしていた。スクリーンには仮想フィールドが映し出されたまま。右上の残り時間を示す数字がゼロになる。それを待っていたようにバイオシールドが崩壊した。白血球が流れ込んだ血管フィールド内に、倒したはずのソレウス構造体が2体、不気味に揺蕩っていた。
そしてマドカは、ーー死んだ。
僕は1人、夕陽が差し込むいつもの部室にいた。ここは4人の場所だった。誰一人欠けちゃいけなかった。なのに。マドカはいなくなってしまった。ソレウス構造体はリナが倒した個体も含め3体いた。こんなことは前代未聞だった。前例となるデータが一切ない。ソレウス構造体は単独で行動し、1人の人間の体の中に1体というのが当たり前だと誰もが考えていた。
でも、マドカの体内には3体いたのだ、現実として。3体のうち1体が倒されたことで、他のソレウス構造体たちが悪性細胞を活性化させた。一瞬で悪性細胞は溶解を始め、マドカは多臓器不全で死んだ。
掃討実験は成功だった。でもマドカは助からなかった。僕らがやっていれば助かった? いや無理だ。あんなことが起きたら誰も対応できない。自分の手でマドカを殺さずに済んだ、なんて最低なことを思う。
4人で囲んだ卓上にはマドカの化粧ポーチが置かれていた。「ぶしつ用」とマジックペンで書いてある。仕舞いきれていない化粧道具が2つ、3つ、乱雑に転がっている。それからクッションはマドカがゲーセンのUFOキャッチャーで取ってきたクマのキャラクターのもので、「4人分取るのに3500円も使ったので、コウちゃん先輩お金ください」と言われた。
好みの傾向が全く掴めないほど多ジャンルの漫画に、毎号大して代わり映えもしないのに欠かさず買っていたファッション誌。なぜかずっと置いてある冬場用のブーツ。この部屋にはマドカのものが多い。あいつはまだ入部して半年も経ってないくせに。こんなに置いて行っても、誰も持って帰らんぞ、と言ってやりたかった。
PCの電源をつけた。対外的な対応は全部マドカがしていた。まあ掃討実験の資格もないし、マドカがいなくなったこの状態では、もう再び挑戦しようとは誰も思わないだろう。金輪際開くことはないだろうな、と思いながら、メールボックスのアイコンをクリックした。ソ対機からのメールは1通も来ていない。すなわちそこにあるのは迷惑メールだけ。ざっと目を通し、閉じようとした時、一件のメールに気がついた。差出人には「雑司ヶ谷キミヒコ」とある。
『件名:逃げろ。』
意味がわからない。僕はすこぶる無気力で、メールの中身を見ることなくボックスを閉じた。
部室の鍵を締めて、バイク駐輪場へ向かう。日は沈んでいたが、まだほのかに明るい。光源を失った世界で影が消滅する。原付のエンジンをかける。毎度のごとく容易にはかからない。いつものことだと20回ほどキックをする。しかし、かからない。その後、何度も何度も試してみたが、とうとうエンジンが音を立てることはなかった。
笑いがこみ上げてきた。ついでに涙もこみ上げてきた。情けない。僕はキックスターターのバーを踏みつけながら泣いた。1人の学生が怯えた顔でバイクにそそくさとまたがると、逃げるように去っていった。変なやつと思われたに違いない。そんなことも気にせず泣いた。
黒い飛行機が主翼の先端についたライトを点滅させながら、頭の上を旋回し東へ飛んでゆく。わざわざ近づいてから去ってゆくなんて、僕を嘲るために来やがったのか。
葬式は駅前の斎場で行われた。マドカの父は完全に表情を失っていた。淡々と弔問客にお辞儀をしている。そうプログラミングされたただの機械みたいに。遺影は東京で撮ったあの記念写真をトリミングして拡大したものだった。100点満点中120点の笑顔。こんなにいい笑顔なのに、見るのが辛くなる日が来るなんて微塵も思っちゃいなかった。
昨晩の通夜にヨウジロウは来なかった。そして今日も見当たらない。僕も華山先輩も連絡はしてみた。返信がなかったわけではない。しかし返ってくるのは「すみません」だけ。何度送ってみたところで、返ってくるのはその5文字。「行けなくて、すみません」だろうか。「助けられずに、すみません」だろうか。ヨウジロウが謝ることなんて1つもない。ヨウジロウの気持ちはわからないでもなかった。だから今はそっとしておくことにした。
葬式はただ時間が無為に流れていくだけ。「焼香は、押しいただかず1回」と司会の女性が言った。僕は葬式に価値を見出せない。葬式は死んだ人、本人のためにあるわけじゃない。残された人のためにあるだと思う。それも、“故人を偲ぶ”とかいう感傷的な意味づけではなく、悲しみに占拠された脳みそを、葬式という“作業”に集中させることで、悲しみを紛らわせる。そういうもんだと思う。でなきゃ、焼香の作法なんて馬鹿馬鹿しいことを強いる道理が通らない。故人を思うのは別に今じゃなくても、ここじゃなくてもよい。どうせ生きてる限り、忘れることはない。忘れたくとも。
昨晩の通夜には華山リナも参列していた。彼女はマドカの遺影に深々と頭を下げたまま、動かなくなった。お陰で焼香の渋滞が起きる。強く握った拳が震えていた。ようやく頭をあげ振り返った彼女の顔はいつものクールな顔だったが、綺麗な顔に不釣り合いな筋が頬に入っていた。強く歯を噛みしめている。救えなかった悔しさか。罪悪感か。しかし、リナのチームは求められる仕事を完遂した。誰も責めることはできない。
黒い喪服に身を包んだリナは同じ格好をした華山先輩とよく似ていた。姉妹だから当然かもしれないが、不思議な感覚だった。2人は言葉は交わさなかったが、憎しみとかそういうネガティブな感情はなかったと思う。物を言わずともわかっている。そういう感じだった。
全員の焼香が終わり、喪主代表の挨拶が終わる。親族席には3人だけ。マドカの父と父方の祖父母。居た堪れない。火葬場に向かう前、マドカの顔を見た。化粧をされたマドカは美しかった。笑ったらもっといいのにと思う。もったいない。笑えよ。なんだか苛立ちの方が悲しみを上回って涙さえ出ない。なんで死んでしまったんだ。中を花でいっぱいにした棺の蓋をみんなで閉めた。見た目より軽くて拍子抜けした。こんなに軽い蓋が閉まってしまうだけで、もうマドカの顔は一生見られないのかと思う。
出棺の時。とうとうヨウジロウは来なかった。棺が霊柩車に収まる。僕らは数珠を持って、合掌する。今日は天気が良い。今までの残暑が嘘のように過ごしやすい日。日差しは甘やかで、喪服を来ていても暑さは感じない。霊柩車のクラクションが鳴る。ぼんやりとしていた僕の身体がビクッと跳ねる。その時だった。
辺りが突然うす暗くなった。まさに一瞬の出来事だったので、何か目に異常が起こったのかと勘違いをする。にわかに音が消えた。それまで意識することのなかった自然の音が、消えたことによって意識に立ち上る。鳥のさえずり、人の声、虫の羽音。日食に似ているな、と思った。子供の頃、見た金環日食。あの時も音が消えた。生きているものの音がみんな消えた。不思議だった。
ああ、日食か。次の皆既日食まであと10年は待たなければならないことなど、知りもしない僕は、間抜けな顔をして空を見上げた。
途端に皆既日食どころの騒ぎではないと直感する。
さっきまで雲ひとつなかった空には、
とてつもなく大きな物体が太陽光を遮断して、
上空200メートルほどの高さで静止していた。
「マドカは研究会のみなさんが大好きみたいです」
彼は破顔した。マドカは大学からそう離れていない場所に実家があるくせに、一人暮らしをしていた。マドカのわがままだったらしい。娘が一人暮らしをしているというのは不安で仕方ないだろう。しかもソレウス構造体に寄生されてしまった。かける言葉がない。
「あの子の母親は10年前、ソレウス体に寄生され、死にました」
初めて知った事実があまりに重すぎた。ソレウス構造体に寄生されて亡くなるケースはそう多くない。彼はソファーに浅く腰掛け、手を組んでいた。彼は淡々と話し出す。
マドカの母親が発症したのは11年前。まだソレウス構造体の性質がよくわかっていない頃だ。ソレウスキラーはまだ臨床実験段階だった。ソレウス構造体の寄生が医師より告げられたとき、まだ身体が動いていたマドカの母は、実験を受けることに進んで同意した。幼い娘を残して死ぬわけにはいかないという思いからだった。それからそう経たないうちに彼女の身体は動かなくなり、程なくソレウスキラーが実施される。
しかし、マドカの母は再び一人娘を自らの腕で抱くことはできなかった。アミラルβ線の放射量にミスがあった。本来ならソレウス構造体をおびき寄せるはずのアミラルβ線がソレウス構造体と悪性細胞を刺激した。細胞の崩壊が始まる。重大な医療事故。これを教訓に、その後アミラルβ線の放射に関するミスは起きていないらしい。多くの人々が救われるきっかけとなった。
けれどマドカの母親は戻ってこない。マドカが操縦研に入ったのは母親のこともあったのかもしれない。思いもよらずマドカの思いを知り、目頭が熱くなる。
「マドカは絶対に助かります」
僕が震える声で言うと、マドカの父は微笑んだ。
掃討実験の開始予定時刻まで30分を切った。僕はアクションフィールドへ向かう。関係者専用駐車場にはさっきまではなかった赤のカラーコーンが置かれ、『関係者以外立入禁止』の張り紙がガムテープで止められている。その向こうには、病院でよく見かける白いパーテーションがいくつも並べられていた。確かにこの位置からは見えなくなっているが、院内の上階から見下ろせば丸見えだろう。
その白い舞台幕の向こうを覗くと華山リナが立っていた。革ジャンのポケットに両手を突っ込み、目を瞑っていた。4メートル四方のアクションフィールドの真ん中で、イヤホンから流れる音楽に合わせリズムをとっている。これが彼女なりの精神統一法なのだ。その側では2人の男がノートPCに噛り付いていた。最終チェックに余念がない。
華山先輩とヨウジロウたちは特別処置室横のオペレーション室で待機すると言ったが、僕はここでリナチームの掃討実験を見守ることにした。もし彼らが何か不甲斐ないことをしたならば、殴り倒してでも代わりに遂行するつもりだった。確かに華山リナは伝説の操縦者だ。でもそれはジャイアント・アーマーズに限ってのこと。ソレウスキラーに関しては僕の方が知識も経験もある。
僕はソ対機から貸与されたタブレット端末を取り出す。ベイリー所長の好意だった。僕は画面の中に展開された仮想フィールドを見た。危うくタブレットを落としてしまいそうになる。華山リナの自信とそれを裏付ける才能が恐ろしくなった。表示された仮想フィールドは立方体ではなかった。6つの面が平面ではない。中央に向かってたわんでいる。角が尖ったサイコロと言えば伝わるだろうか。
リナチームの狙いをなんとなく察する。仮想フィールドを僅かに狭くすることで、アクションフィールドでの動きが少なく済む。また、違った形の2つのフィールドを同期することでソレウスキラーは予測不能な動きをする。これでソレウス構造体は敵の行動予測が困難になるのだ。
しかしそれはリナチーム側も同様。いくらコンピュータで補助するとは言え、操縦するリナもそのズレに対応しなければならない。常人にできることではなかった。彼らはこの方法でソ対機の高難度の試験をパスしたというのか。僕はさっきまであったはずの自信が崩壊した。彼らには勝てない。
開始時刻が来た。タブレット端末にアミラルβ線放射開始の旨が表示された。華山リナはイヤホンをつけたまま、まだ身体をゆらゆらとさせ目を瞑っている。もう夏も終わろうとしているのに、健気に頑張るセミの声に紛れて、イヤホンから漏れたハイハットの音が聴こえてきた。日差しが堪える。
リナが動き出した。細かいフットワークで攻撃を避け、断続的に打撃を繰り出す華山先輩とは異なったファイトスタイル。最小限の動き。煙のようにゆらゆらと。ソレウス構造体から繰り出される攻撃を避け続ける。タブレットに目をやると、仮想フィールド内で“ソレウス構造体”が蠢いていた。ソレウス構造体、そのままの姿の仮想ヴィジュアル。所詮紛い物の仮想ヴィジュアルになどリナには興味の欠片もないらしい。ふざけているようなファイトスタイルだったが、リナの口元は固く結ばれ真剣だった。ウエアラブルデバイス越しにでも、獣のような目が空間を鋭く注視してしているのを感じる。
マドカは助かるかもしれない。彼らが失敗するはずがない。リナの動きが速くなる。リナの不規則な操縦と同期がズレた特殊フィールドが化学反応を起こす。ソレウス構造体は予測不能な動きに対応できなかった。2分が経過した時だった。それまで法則性のない動きをしていたリナが、アクションフィールドの角へ向かって踏み込んだ。直線的動き。ーー突進。側から見ていても凄まじい速さだったが、対峙するソレウス構造体にはもっと速く感じたはずだった。
角に追い詰められたソレウス構造体。リナが右手を突き出す。左手は使わない。捕捉アームなど、はなから必要なかった。串刺し。
ソレウス構造体は完全に沈黙した。成功だった。僕はタブレット端末の電源を落とす。全身の力が抜けた。マドカは助かった。いや、まだソレウス構造体が消滅しただけで、悪性細胞は身体中転移している。だからこれからも細胞を正常化させるための治療は続く。高分子ミセルなどの癌治療技術が進んでいるので、きっと大丈夫だ。よかった。僕は自分の手で掃討実験を行えなかったことに対してつい先日まで憤っていたことなんか、すっかり忘れていた。とにかく、よかった。今はそれだけ。
僕はアクションフィールドの真ん中で、ウエアラブルデバイスを外しながら汗を拭うリナに頭を下げた。声を出したら泣きそうだったので、無言だったけれどもリナには伝わったらしい。
「早くお友達のところへ行ってあげな?」
僕はもう一度お辞儀をして、走って特別処置室へ向かう。
足取りは軽い。涙より先に決壊した鼻水が流れ出す。こんな間抜けな状態の自分を客観視して可笑しくなる。特別処置室からは皆が騒ぐ声が聴こえた。僕はその輪に入るべく意気揚々とドアを開ける。
華山先輩もヨウジロウも泣き叫んでいた。佐藤主任が「どうして」と頭を抱えていた。ベイリー所長が呆然としたまま、ただ突っ立っていた。マドカの父親が特別処置室へ入ろうして、スタッフに組み敷かれていた。特別処置室の中ではスタッフがパニック状態で、青白い顔のマドカを心臓マッサージしていた。スクリーンには仮想フィールドが映し出されたまま。右上の残り時間を示す数字がゼロになる。それを待っていたようにバイオシールドが崩壊した。白血球が流れ込んだ血管フィールド内に、倒したはずのソレウス構造体が2体、不気味に揺蕩っていた。
そしてマドカは、ーー死んだ。
僕は1人、夕陽が差し込むいつもの部室にいた。ここは4人の場所だった。誰一人欠けちゃいけなかった。なのに。マドカはいなくなってしまった。ソレウス構造体はリナが倒した個体も含め3体いた。こんなことは前代未聞だった。前例となるデータが一切ない。ソレウス構造体は単独で行動し、1人の人間の体の中に1体というのが当たり前だと誰もが考えていた。
でも、マドカの体内には3体いたのだ、現実として。3体のうち1体が倒されたことで、他のソレウス構造体たちが悪性細胞を活性化させた。一瞬で悪性細胞は溶解を始め、マドカは多臓器不全で死んだ。
掃討実験は成功だった。でもマドカは助からなかった。僕らがやっていれば助かった? いや無理だ。あんなことが起きたら誰も対応できない。自分の手でマドカを殺さずに済んだ、なんて最低なことを思う。
4人で囲んだ卓上にはマドカの化粧ポーチが置かれていた。「ぶしつ用」とマジックペンで書いてある。仕舞いきれていない化粧道具が2つ、3つ、乱雑に転がっている。それからクッションはマドカがゲーセンのUFOキャッチャーで取ってきたクマのキャラクターのもので、「4人分取るのに3500円も使ったので、コウちゃん先輩お金ください」と言われた。
好みの傾向が全く掴めないほど多ジャンルの漫画に、毎号大して代わり映えもしないのに欠かさず買っていたファッション誌。なぜかずっと置いてある冬場用のブーツ。この部屋にはマドカのものが多い。あいつはまだ入部して半年も経ってないくせに。こんなに置いて行っても、誰も持って帰らんぞ、と言ってやりたかった。
PCの電源をつけた。対外的な対応は全部マドカがしていた。まあ掃討実験の資格もないし、マドカがいなくなったこの状態では、もう再び挑戦しようとは誰も思わないだろう。金輪際開くことはないだろうな、と思いながら、メールボックスのアイコンをクリックした。ソ対機からのメールは1通も来ていない。すなわちそこにあるのは迷惑メールだけ。ざっと目を通し、閉じようとした時、一件のメールに気がついた。差出人には「雑司ヶ谷キミヒコ」とある。
『件名:逃げろ。』
意味がわからない。僕はすこぶる無気力で、メールの中身を見ることなくボックスを閉じた。
部室の鍵を締めて、バイク駐輪場へ向かう。日は沈んでいたが、まだほのかに明るい。光源を失った世界で影が消滅する。原付のエンジンをかける。毎度のごとく容易にはかからない。いつものことだと20回ほどキックをする。しかし、かからない。その後、何度も何度も試してみたが、とうとうエンジンが音を立てることはなかった。
笑いがこみ上げてきた。ついでに涙もこみ上げてきた。情けない。僕はキックスターターのバーを踏みつけながら泣いた。1人の学生が怯えた顔でバイクにそそくさとまたがると、逃げるように去っていった。変なやつと思われたに違いない。そんなことも気にせず泣いた。
黒い飛行機が主翼の先端についたライトを点滅させながら、頭の上を旋回し東へ飛んでゆく。わざわざ近づいてから去ってゆくなんて、僕を嘲るために来やがったのか。
葬式は駅前の斎場で行われた。マドカの父は完全に表情を失っていた。淡々と弔問客にお辞儀をしている。そうプログラミングされたただの機械みたいに。遺影は東京で撮ったあの記念写真をトリミングして拡大したものだった。100点満点中120点の笑顔。こんなにいい笑顔なのに、見るのが辛くなる日が来るなんて微塵も思っちゃいなかった。
昨晩の通夜にヨウジロウは来なかった。そして今日も見当たらない。僕も華山先輩も連絡はしてみた。返信がなかったわけではない。しかし返ってくるのは「すみません」だけ。何度送ってみたところで、返ってくるのはその5文字。「行けなくて、すみません」だろうか。「助けられずに、すみません」だろうか。ヨウジロウが謝ることなんて1つもない。ヨウジロウの気持ちはわからないでもなかった。だから今はそっとしておくことにした。
葬式はただ時間が無為に流れていくだけ。「焼香は、押しいただかず1回」と司会の女性が言った。僕は葬式に価値を見出せない。葬式は死んだ人、本人のためにあるわけじゃない。残された人のためにあるだと思う。それも、“故人を偲ぶ”とかいう感傷的な意味づけではなく、悲しみに占拠された脳みそを、葬式という“作業”に集中させることで、悲しみを紛らわせる。そういうもんだと思う。でなきゃ、焼香の作法なんて馬鹿馬鹿しいことを強いる道理が通らない。故人を思うのは別に今じゃなくても、ここじゃなくてもよい。どうせ生きてる限り、忘れることはない。忘れたくとも。
昨晩の通夜には華山リナも参列していた。彼女はマドカの遺影に深々と頭を下げたまま、動かなくなった。お陰で焼香の渋滞が起きる。強く握った拳が震えていた。ようやく頭をあげ振り返った彼女の顔はいつものクールな顔だったが、綺麗な顔に不釣り合いな筋が頬に入っていた。強く歯を噛みしめている。救えなかった悔しさか。罪悪感か。しかし、リナのチームは求められる仕事を完遂した。誰も責めることはできない。
黒い喪服に身を包んだリナは同じ格好をした華山先輩とよく似ていた。姉妹だから当然かもしれないが、不思議な感覚だった。2人は言葉は交わさなかったが、憎しみとかそういうネガティブな感情はなかったと思う。物を言わずともわかっている。そういう感じだった。
全員の焼香が終わり、喪主代表の挨拶が終わる。親族席には3人だけ。マドカの父と父方の祖父母。居た堪れない。火葬場に向かう前、マドカの顔を見た。化粧をされたマドカは美しかった。笑ったらもっといいのにと思う。もったいない。笑えよ。なんだか苛立ちの方が悲しみを上回って涙さえ出ない。なんで死んでしまったんだ。中を花でいっぱいにした棺の蓋をみんなで閉めた。見た目より軽くて拍子抜けした。こんなに軽い蓋が閉まってしまうだけで、もうマドカの顔は一生見られないのかと思う。
出棺の時。とうとうヨウジロウは来なかった。棺が霊柩車に収まる。僕らは数珠を持って、合掌する。今日は天気が良い。今までの残暑が嘘のように過ごしやすい日。日差しは甘やかで、喪服を来ていても暑さは感じない。霊柩車のクラクションが鳴る。ぼんやりとしていた僕の身体がビクッと跳ねる。その時だった。
辺りが突然うす暗くなった。まさに一瞬の出来事だったので、何か目に異常が起こったのかと勘違いをする。にわかに音が消えた。それまで意識することのなかった自然の音が、消えたことによって意識に立ち上る。鳥のさえずり、人の声、虫の羽音。日食に似ているな、と思った。子供の頃、見た金環日食。あの時も音が消えた。生きているものの音がみんな消えた。不思議だった。
ああ、日食か。次の皆既日食まであと10年は待たなければならないことなど、知りもしない僕は、間抜けな顔をして空を見上げた。
途端に皆既日食どころの騒ぎではないと直感する。
さっきまで雲ひとつなかった空には、
とてつもなく大きな物体が太陽光を遮断して、
上空200メートルほどの高さで静止していた。
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恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
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