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10.作戦決行
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掃討実験開始予定は18時だった。マドカの親族には開始時刻が伝えられたので、僕らも容易に知ることができた。それまでに準備を終えている必要がある。しかし早すぎるのも考えもので、ハッキングがバレて対策をされてしまうと、これも失敗となる。タイミングが重要だった。
ヨウジロウはどんな状況になろうとハッキングが成功するよう、いくつものプランを用意してきていた。
華山先輩にアクションフィールドの構築をどこで行うのかと聞くと、「上のテニスコート」と言った。大学のキャンパスの奥の方には誰も使っていないテニスコートがある。蒲生里大学は山を開いて作った無駄に広いキャンパスを有し、奥に行けば行くほどただの森でしかなく、学生も足を運びたがらない。“ただの森”とは言ったが、一応キャンパス内であるからWi-Fiは繋がる。好都合だった。
僕は原付でキャンパスを出て、大学病院へ向かう。夕方の国道は帰宅混雑のピークで車が連なっていたが、原付ならば問題はない。速度を落とし、渋滞の合間をすり抜けていく。
ポケットにはUSBメモリとゲストカード。この2つが、この作戦の要。このうちどちらかが作動しなかっただけで、全てお終い。神頼みするしかなかった。
大学病院の駐車場には場違いな大型トラックが何台も停まっていた。ソ対機の設備を搬入しているのだ。異様な雰囲気に気圧されながら、外れにある駐輪場に原付を停める。
裏手にある関係者入り口を目指す。案内表示の中に、一目で急ごしらえだとわかるものがあった。「ソレウス構造体対策機構暫定日本支部」。僕は少し離れたところから、入り口を眺めた。
あることに気づき、思わず眉をしかめてしまった。自分たちの詰めの甘さに嫌になる。入り口にICカードをかざすようなゲートがない。その辺の病院の入り口と変わらない外見。自動ドアの向こうに小さなカウンターがあり、警備員がひとり。
急な組織移管で、まだそこまで手が回っていないのだ。優先順位としては、まず掃討実験に使用する設備が1番で、その次がスタッフが利用するデバイスや資料。その他の施設設備に関して後回しになるのは当然だった。
ICカードを読み取らせて侵入するという手は使えなくなった。しかし、ここで帰るわけにはいかない。まだチャンスはある。玉砕覚悟だ。僕は深呼吸をして、平静を保つよう努力をする。少しずつ心音が穏やかになるのを感じる。ポケットの中のカードを確認した。心を決めて、入り口へと歩いて行く。
「お疲れ様です」
僕は何気ない風を装い、警備員に声をかけた。50代後半の体格の良い彼は、仏頂面のまま僕を睨む。
「関係者以外は入れんよ」
予想通りの返しだったので、慌てず行動する。僕はポケットから「ソレウス構造体対策機構」と堅苦しいフォントで印字されたカードを示した。一見、実験参加者のIDカードと変わらない。名前や所属の欄はないが、そもそも文字が小さいので遠目では気づかない。ただ、右上に“guest”と赤字で書かれている。僕はマジシャンみたいに指でその字を隠す。
「蒲生里大学ソレウスキラー操縦研の石立です。ベイリー所長に呼び出されまして。あの人、いつも突然呼び出すものですから、困るんですよね。こっちだって大学の授業とかあるんですけどね……」
僕はおしゃべり好きを演じて、相手に考える暇を与えない。大根役者の自覚はあった。やはり不自然だったのか、警備員の顔が険しくなる。なにか考え事をするように瞳が右上を向く。まずい。失敗したか。
しかし、僕の心配は杞憂に終わった。警備員は突然何かを思い出したように、口角が上がって黄色い歯を見せた。いかつくて分厚い両肩の力が抜け、警戒が解けたのがわかる。
「……あーあ! あんた、テレビで見たな。はいはい。蒲生里大の子ね。お疲れ様です。がんばれよ」
僕は「どうも」と微笑みかけて、中へ入った。うまく笑顔を作れていた自信はないが、入ってしまえばこっちのものだ。ゲストカードということはバレなかったらしい。多分警備員も急遽、地元の人を雇ったのだろう。ここまでセキュリティが甘くなるほど、ソ対機内部は混乱しているのだ。少し光明が差した気がする。
僕は首から下げるタイプの名札ケースを取り出し、ゲストカードを差し込んだ。これでぱっと見、怪しまれることはない。堂々と歩いてさえいれば大丈夫なはず。ベイリー所長や佐藤主任など近い関係者に会いさえしなければ、という前提はあるが。スニーカーが床を擦って、高い音がする。
前回来たことでなんとなく場所は把握していた。僕は目星をつけておいた部屋へ向かう。南棟3階の1番奥。ここにはソ対機のデータ閲覧用のPCが並んでいた。資格剥奪を告げられ、マドカが発症したあの日。向こうから呼び出しておきながら、ベイリー所長の用事が済むまでここで待たされた。資格を取り上げられる寸前だったが、まだその時には資料を閲覧する権利もあったわけで、自由に見ることができた。
あれから数日しか経っていないし、PCのログインパスワードは変わっていないはず。掃討実験用のコンピュータとネットワークで繋がっているかはわからないが、人に見つからずソ対機内のPCを操作できるのはここしかない。
エレベーターは人に見つかった場合、完全に詰んでしまうので階段で上がる。途中、数名のスタッフとすれ違ったが、多忙で意識を他に向けている暇もないのか僕を気にする人はいない。皆、ダンボールや小さなコンテナを抱えて、小走りで通り去っていく。順調だぞ、と3階に上がりかけた、その時だった。
「ちょっとそこの人!」
聞き覚えのある声がした。優しい声質なのにトゲのある抑揚。佐藤主任だ。失敗を覚悟し、バレないよう咄嗟に伏せた顔を恐る恐るあげる。北棟へ向かう廊下の奥に佐藤主任が立っていた。目の前のスタッフを叱っていた。「このデバイスは4階でしょ!」とかなんとか。僕にかけられた言葉ではなかった。安心している暇はないので、すぐさま背を向け方向転換をし、データ閲覧室へ向かう。
目的の部屋は電気もついておらず、人は誰もいなかった。時運は僕らの味方をしているようだ。ブラインドが降ろされ薄暗い部屋の中、なるべく出入り口から見えない位置のPCを探し出し、起動ボタンを押す。ファンが回り出す。画面が灯る。見つかるリスクを最小限に抑えるべく、音量ボタンの“▽”を静かに連打した。
ロック画面の入力スペースにパスワードを打ち込む。無事、ログインができた。それを確認すると僕はヘッドセット取り出し装着した。掃討実験で使用したやつ。結局、1回しか使わなかったが。ヘッドセットの使用を提案したのはマドカだったことを思い出す。ヨウジロウは待ち構えていたようで、回線は既にアクティブ状態だった。
「無事、病院に入れた。今からデバイスを突っ込む」
「了解」
もちろん小声で。部屋にものが多いからか、音が響く感じはしないが、用心するに越したことはない。僕はポケットから“第2の矢”を取り出すとキャップを外し、PC本体のUSB入力端子に挿入した。途端に冷却ファンの回転数が上がる。ドライバーソフトウェアが自動的にインストールされる。僕はあまりメカに詳しくないので、少し不安になりヨウジロウに尋ねる。
「突っ込んだけど、それだけでいいんだよな……?」
「大丈夫、勝手にやってくれる。心配いらない」
掃討実験の開始予定時刻まであと30分少々。ヨウジロウいわく、ハッキングは1分程度で終わるらしいから時間は十分間に合うだろう。ソ対機内ネットワークの乗っ取りさえ終わってしまえば、マドカの掃討実験を担当する他チームの仮想フィールドに、僕らの仮想フィールドを上書きしさえすればいい。それはヨウジロウが上手くやってくれるはずだ。
予定の1分が立たないうちにヨウジロウからの「よし」が聞こえた。どうやらネットワークへの侵入が完了したようだ。僕の仕事はひとまず終わりで、掃討実験開始を待つのみ。あとはヨウジロウと華山先輩の番だった。ふと脇の下の汗に気づく。べったりと濡れていた。僕はひとつため息をつくと、部屋から退散しようとした。
「……おかしい。……バレたかもしれん」
耳に飛び込んできた声には焦りがあった。どういうことだ。踵を返し、先程のPCの元へ戻る。ついたままのディスプレイには黒いウィンドウがひとつ表示されていて、その枠内で白い英数字の羅列が目まぐるしく上方へ流れていた。
「何が起きてる……?」
「バレた……、いや違う! ネットワークが損傷したらしい。負荷がかかりすぎた。……くそっ!」
要するに失敗したということか。畜生。僕は呆然としまま、動き続けるC言語の波を見つめていた。にわかに部屋の外が騒がしくなる。おそらくソ対機内の全てのコンピュータに影響が出たため、スタッフたちが異常を察したのだろう。比較的速い足音が段々と大きくなる。足音が止まった。入り口に誰かが立っている。
逆光で顔はわからない。部屋の電灯のスイッチが押される。暗順応していた目が突然の明るさに対応しきれず、未だそこに立つ人の顔はわからない。でもひとつだけわかることがある。
「……ごめん。見つかった」
ヘッドセットの向こうでヨウジロウが机を叩く音がした。
とうに陽が落ち、電灯が灯された部屋には、ベイリー所長と佐藤主任と僕の3人だけがいた。初めは他のスタッフもいたけれど、ベイリー所長が「なんでもないから」と部屋から追い出した。結局ネットワークが損傷しており修復に1時間程度かかるため、今日の掃討実験は中止となってしまった。忙殺され風呂にもろくに入れていないようで、髪がぺちゃんこの佐藤主任に睨まれる。目の下のクマが痛々しい。
「こんな無謀なことをして、一ノ瀬さんの掃討実験が遅れることになる、ということには思い至らなかったの?」
僕らは“根拠ない自信”に突き動かされ、行動してしまった。今までその自信が結果につながっていたので、少し勘違いしていたところもある。言われて初めて気づいた自分の愚かさに嫌になる。他のチームに任せておけば、今頃マドカは助かっていたかもしれない。
「マドカのため」という身勝手な正義感からこんな無茶な作戦に出たわけだが、結局何一つマドカのためになっていない。冷静さを失っていた。自己嫌悪に襲われる。
奥の机の上に鎮座していた固定電話が鳴る。固定電話なんて祖父母の家でしか見たことがなかった。これからもソ対機内が急場凌ぎであることが察せられた。受話器を取ったベイリー所長が英語で何かを話す。言語や話す抑揚はまさしく英語なのだけれど、ペコペコとお辞儀をする様子は日本人のそれだった。片手では数え切れないほどのお辞儀を経て、ベイリー所長が電話を切った。長くため息をつく。
「上にはこちら側のシステムにエラーが発生したと言っておいた。まあ混乱状態にあることは上も理解してるし」
ベイリー所長は肩をすくめて、僕に微笑んだ。申し訳なく思う。権力はないと言っていたベイリー所長が、責任を全て背負い込んで僕らを守ってくれた。若さとか青さとかそういうもので突っ走ってしまうのはもうやめた方がいい。大人になるのは嫌だけれど、そうも言っていられない。ベイリー所長は個人用のタブレット端末に目をやった。ブルーライトに照らされて、白い肌が強調される。彼はコツコツと画面をタップしながら、こちらを見ずに言った。
「一ノ瀬さんの掃討実験に立ち会ってもらう」
佐藤主任がほとほと呆れたといった表情のまま、僕らから背を向けた。もう小言を言う気力も残っていないらしい。ベイリー所長が鼻を掻く。
「また“こんなこと”されたら、僕は心労で狂っちまう。その方が安心」
掃討実験を僕らの手で遂行できないのは残念だが、ベイリー所長からの最大限の配慮。参加資格もないのに立会いができるなんてのは特例中の特例だ。家族でさえ認められていない。ありがたく思う。断る理由はない。僕は深々と頭を下げた。
「それから担当は、この予定表で行けば……」
しばらくの沈黙。ベイリー所長は伝えるべきか逡巡しているようだったが、口を開く。のちに続いた言葉を聞いて、僕は複雑な気持ちになった。別に何か不都合があるわけではないのだけど。
「……華山リナのチームだ」
実験の成功、という観点から言えば、これ以上ないチームかもしれない。あの先輩の姉。伝説の操縦者。マドカは多分助かるだろう。でも何か因縁めいたものを感じてしまって、気味が悪く、僕は唇を噛んだ。
2日後の昼、蒲生里大学病院。正規のゲストカードを与えられ、僕らは特別処置室へ通された。特別処置室は既存の手術室に掃討実験の関連機材を詰め込んだ窮屈なものだった。スタッフと機材でキャパシティはオーバーしている。さすがに掃討実験中は中には入れないということなので、僕らはオペレーション室で見守ることになった。
処置室に運ばれる前に、病室でマドカに会った。相変わらず、ただ気持ちよく昼寝をしているように満ち足りた表情のマドカ。苦しんでいるようには見えない。マドカの脳内では楽しげな夢が再生されているのかもしれない。その夢の中に僕らはいるのだろうか。早く僕らのところに戻ってきてほしかった。
ソ対機への侵入作戦が失敗した日の深夜、華山先輩の家の近くの道端で「リナさんがマドカの実験を担当する」と伝えた。彼女の表情に動揺は感じられなかった。意外ではあったけれど、少し安心する。
「姉なら失敗しない」
黒いコートのポケットに両手を突っ込んで、遠い目をしていた。日増しに冷たくなっていく晩夏の風がコートを揺らす。実の姉が掃討実験を行うということよりも、自分の手でマドカを救えなかったことに打ちひしがれていた。
病室でマドカを見つめるヨウジロウは辛そうだった。「最近、タバコが不味くて吸えない」と禁煙しだした。彼なりの願掛けなのかもしれない。早くマドカに「あのヨウジロウが禁煙してるぞ」と報告してあげたかった。マドカは「うそだー」と言いながら、ヨウジロウの頭を叩くだろう、きっと。
佐藤主任が僕らを特別処置室から連れ出す。「会いたくなかったら、ロビーで待っててもいい」と言う。僕は華山先輩を横目で見たが、間髪入れず首を横に振った。覚悟ができているらしかった。
関係者用の駐車場にアクションフィールドが展開されている。厳しい残暑で熱せられたアスファルトに白いチョークで大きな四角形が描かれていた。その側に長身の女が立っている。
短い銀髪。黒の革ジャン。華山リナだ。少し離れた所の縁石に実験チームのメンバー2人が腰掛けている。手にはノートPCが各2台ずつ。こんな屋外でオペレーションもするのか。驚きはしたが場所は関係ないし、ノートPCだってハイエンドモデルならスペックが劣ることもないだろう。彼らを信頼するしかない。
接近してくる僕らに気づいた華山リナが手を挙げた。華山先輩が歩くスピードを落とさず、リナの眼前まで詰め寄った。
「失敗したら承知しない」
先輩が言った。強い口調だった。リナは臆することなく実の妹に言葉を返す。
「ナナカ、友達いたの」
「姉ちゃんよりはいるよ」
無表情の先輩と不敵な笑みを浮かべるリナ。空気が凍ったようだ。僕らには行く末を見守ることしかできない。姉妹のことに外野があれこれいうのは野暮だ。
「……大切な友達なの?」
発せられたリナの声に先ほどまであった威圧感はなくなっていた。優しい目。一陣の風が吹いた。華山先輩が腹から絞り出すように言う。
「その人のためなら死ねるくらいね」
「…わかった。姉ちゃんに任せて」
リナが先輩の肩を優しく触れた。先輩は小さく頷くと、立ち尽くす僕らを残して病院内へ歩きだした。振り返った先輩の頬を一筋の涙が伝うのを見た。リナは淡いターコイズブルーの空を見上げ、イヤホンをつけると鼻歌を歌い出す。
このしんみりとした雰囲気に似合わぬ、ハイテンポの鼻歌。
ヨウジロウはどんな状況になろうとハッキングが成功するよう、いくつものプランを用意してきていた。
華山先輩にアクションフィールドの構築をどこで行うのかと聞くと、「上のテニスコート」と言った。大学のキャンパスの奥の方には誰も使っていないテニスコートがある。蒲生里大学は山を開いて作った無駄に広いキャンパスを有し、奥に行けば行くほどただの森でしかなく、学生も足を運びたがらない。“ただの森”とは言ったが、一応キャンパス内であるからWi-Fiは繋がる。好都合だった。
僕は原付でキャンパスを出て、大学病院へ向かう。夕方の国道は帰宅混雑のピークで車が連なっていたが、原付ならば問題はない。速度を落とし、渋滞の合間をすり抜けていく。
ポケットにはUSBメモリとゲストカード。この2つが、この作戦の要。このうちどちらかが作動しなかっただけで、全てお終い。神頼みするしかなかった。
大学病院の駐車場には場違いな大型トラックが何台も停まっていた。ソ対機の設備を搬入しているのだ。異様な雰囲気に気圧されながら、外れにある駐輪場に原付を停める。
裏手にある関係者入り口を目指す。案内表示の中に、一目で急ごしらえだとわかるものがあった。「ソレウス構造体対策機構暫定日本支部」。僕は少し離れたところから、入り口を眺めた。
あることに気づき、思わず眉をしかめてしまった。自分たちの詰めの甘さに嫌になる。入り口にICカードをかざすようなゲートがない。その辺の病院の入り口と変わらない外見。自動ドアの向こうに小さなカウンターがあり、警備員がひとり。
急な組織移管で、まだそこまで手が回っていないのだ。優先順位としては、まず掃討実験に使用する設備が1番で、その次がスタッフが利用するデバイスや資料。その他の施設設備に関して後回しになるのは当然だった。
ICカードを読み取らせて侵入するという手は使えなくなった。しかし、ここで帰るわけにはいかない。まだチャンスはある。玉砕覚悟だ。僕は深呼吸をして、平静を保つよう努力をする。少しずつ心音が穏やかになるのを感じる。ポケットの中のカードを確認した。心を決めて、入り口へと歩いて行く。
「お疲れ様です」
僕は何気ない風を装い、警備員に声をかけた。50代後半の体格の良い彼は、仏頂面のまま僕を睨む。
「関係者以外は入れんよ」
予想通りの返しだったので、慌てず行動する。僕はポケットから「ソレウス構造体対策機構」と堅苦しいフォントで印字されたカードを示した。一見、実験参加者のIDカードと変わらない。名前や所属の欄はないが、そもそも文字が小さいので遠目では気づかない。ただ、右上に“guest”と赤字で書かれている。僕はマジシャンみたいに指でその字を隠す。
「蒲生里大学ソレウスキラー操縦研の石立です。ベイリー所長に呼び出されまして。あの人、いつも突然呼び出すものですから、困るんですよね。こっちだって大学の授業とかあるんですけどね……」
僕はおしゃべり好きを演じて、相手に考える暇を与えない。大根役者の自覚はあった。やはり不自然だったのか、警備員の顔が険しくなる。なにか考え事をするように瞳が右上を向く。まずい。失敗したか。
しかし、僕の心配は杞憂に終わった。警備員は突然何かを思い出したように、口角が上がって黄色い歯を見せた。いかつくて分厚い両肩の力が抜け、警戒が解けたのがわかる。
「……あーあ! あんた、テレビで見たな。はいはい。蒲生里大の子ね。お疲れ様です。がんばれよ」
僕は「どうも」と微笑みかけて、中へ入った。うまく笑顔を作れていた自信はないが、入ってしまえばこっちのものだ。ゲストカードということはバレなかったらしい。多分警備員も急遽、地元の人を雇ったのだろう。ここまでセキュリティが甘くなるほど、ソ対機内部は混乱しているのだ。少し光明が差した気がする。
僕は首から下げるタイプの名札ケースを取り出し、ゲストカードを差し込んだ。これでぱっと見、怪しまれることはない。堂々と歩いてさえいれば大丈夫なはず。ベイリー所長や佐藤主任など近い関係者に会いさえしなければ、という前提はあるが。スニーカーが床を擦って、高い音がする。
前回来たことでなんとなく場所は把握していた。僕は目星をつけておいた部屋へ向かう。南棟3階の1番奥。ここにはソ対機のデータ閲覧用のPCが並んでいた。資格剥奪を告げられ、マドカが発症したあの日。向こうから呼び出しておきながら、ベイリー所長の用事が済むまでここで待たされた。資格を取り上げられる寸前だったが、まだその時には資料を閲覧する権利もあったわけで、自由に見ることができた。
あれから数日しか経っていないし、PCのログインパスワードは変わっていないはず。掃討実験用のコンピュータとネットワークで繋がっているかはわからないが、人に見つからずソ対機内のPCを操作できるのはここしかない。
エレベーターは人に見つかった場合、完全に詰んでしまうので階段で上がる。途中、数名のスタッフとすれ違ったが、多忙で意識を他に向けている暇もないのか僕を気にする人はいない。皆、ダンボールや小さなコンテナを抱えて、小走りで通り去っていく。順調だぞ、と3階に上がりかけた、その時だった。
「ちょっとそこの人!」
聞き覚えのある声がした。優しい声質なのにトゲのある抑揚。佐藤主任だ。失敗を覚悟し、バレないよう咄嗟に伏せた顔を恐る恐るあげる。北棟へ向かう廊下の奥に佐藤主任が立っていた。目の前のスタッフを叱っていた。「このデバイスは4階でしょ!」とかなんとか。僕にかけられた言葉ではなかった。安心している暇はないので、すぐさま背を向け方向転換をし、データ閲覧室へ向かう。
目的の部屋は電気もついておらず、人は誰もいなかった。時運は僕らの味方をしているようだ。ブラインドが降ろされ薄暗い部屋の中、なるべく出入り口から見えない位置のPCを探し出し、起動ボタンを押す。ファンが回り出す。画面が灯る。見つかるリスクを最小限に抑えるべく、音量ボタンの“▽”を静かに連打した。
ロック画面の入力スペースにパスワードを打ち込む。無事、ログインができた。それを確認すると僕はヘッドセット取り出し装着した。掃討実験で使用したやつ。結局、1回しか使わなかったが。ヘッドセットの使用を提案したのはマドカだったことを思い出す。ヨウジロウは待ち構えていたようで、回線は既にアクティブ状態だった。
「無事、病院に入れた。今からデバイスを突っ込む」
「了解」
もちろん小声で。部屋にものが多いからか、音が響く感じはしないが、用心するに越したことはない。僕はポケットから“第2の矢”を取り出すとキャップを外し、PC本体のUSB入力端子に挿入した。途端に冷却ファンの回転数が上がる。ドライバーソフトウェアが自動的にインストールされる。僕はあまりメカに詳しくないので、少し不安になりヨウジロウに尋ねる。
「突っ込んだけど、それだけでいいんだよな……?」
「大丈夫、勝手にやってくれる。心配いらない」
掃討実験の開始予定時刻まであと30分少々。ヨウジロウいわく、ハッキングは1分程度で終わるらしいから時間は十分間に合うだろう。ソ対機内ネットワークの乗っ取りさえ終わってしまえば、マドカの掃討実験を担当する他チームの仮想フィールドに、僕らの仮想フィールドを上書きしさえすればいい。それはヨウジロウが上手くやってくれるはずだ。
予定の1分が立たないうちにヨウジロウからの「よし」が聞こえた。どうやらネットワークへの侵入が完了したようだ。僕の仕事はひとまず終わりで、掃討実験開始を待つのみ。あとはヨウジロウと華山先輩の番だった。ふと脇の下の汗に気づく。べったりと濡れていた。僕はひとつため息をつくと、部屋から退散しようとした。
「……おかしい。……バレたかもしれん」
耳に飛び込んできた声には焦りがあった。どういうことだ。踵を返し、先程のPCの元へ戻る。ついたままのディスプレイには黒いウィンドウがひとつ表示されていて、その枠内で白い英数字の羅列が目まぐるしく上方へ流れていた。
「何が起きてる……?」
「バレた……、いや違う! ネットワークが損傷したらしい。負荷がかかりすぎた。……くそっ!」
要するに失敗したということか。畜生。僕は呆然としまま、動き続けるC言語の波を見つめていた。にわかに部屋の外が騒がしくなる。おそらくソ対機内の全てのコンピュータに影響が出たため、スタッフたちが異常を察したのだろう。比較的速い足音が段々と大きくなる。足音が止まった。入り口に誰かが立っている。
逆光で顔はわからない。部屋の電灯のスイッチが押される。暗順応していた目が突然の明るさに対応しきれず、未だそこに立つ人の顔はわからない。でもひとつだけわかることがある。
「……ごめん。見つかった」
ヘッドセットの向こうでヨウジロウが机を叩く音がした。
とうに陽が落ち、電灯が灯された部屋には、ベイリー所長と佐藤主任と僕の3人だけがいた。初めは他のスタッフもいたけれど、ベイリー所長が「なんでもないから」と部屋から追い出した。結局ネットワークが損傷しており修復に1時間程度かかるため、今日の掃討実験は中止となってしまった。忙殺され風呂にもろくに入れていないようで、髪がぺちゃんこの佐藤主任に睨まれる。目の下のクマが痛々しい。
「こんな無謀なことをして、一ノ瀬さんの掃討実験が遅れることになる、ということには思い至らなかったの?」
僕らは“根拠ない自信”に突き動かされ、行動してしまった。今までその自信が結果につながっていたので、少し勘違いしていたところもある。言われて初めて気づいた自分の愚かさに嫌になる。他のチームに任せておけば、今頃マドカは助かっていたかもしれない。
「マドカのため」という身勝手な正義感からこんな無茶な作戦に出たわけだが、結局何一つマドカのためになっていない。冷静さを失っていた。自己嫌悪に襲われる。
奥の机の上に鎮座していた固定電話が鳴る。固定電話なんて祖父母の家でしか見たことがなかった。これからもソ対機内が急場凌ぎであることが察せられた。受話器を取ったベイリー所長が英語で何かを話す。言語や話す抑揚はまさしく英語なのだけれど、ペコペコとお辞儀をする様子は日本人のそれだった。片手では数え切れないほどのお辞儀を経て、ベイリー所長が電話を切った。長くため息をつく。
「上にはこちら側のシステムにエラーが発生したと言っておいた。まあ混乱状態にあることは上も理解してるし」
ベイリー所長は肩をすくめて、僕に微笑んだ。申し訳なく思う。権力はないと言っていたベイリー所長が、責任を全て背負い込んで僕らを守ってくれた。若さとか青さとかそういうもので突っ走ってしまうのはもうやめた方がいい。大人になるのは嫌だけれど、そうも言っていられない。ベイリー所長は個人用のタブレット端末に目をやった。ブルーライトに照らされて、白い肌が強調される。彼はコツコツと画面をタップしながら、こちらを見ずに言った。
「一ノ瀬さんの掃討実験に立ち会ってもらう」
佐藤主任がほとほと呆れたといった表情のまま、僕らから背を向けた。もう小言を言う気力も残っていないらしい。ベイリー所長が鼻を掻く。
「また“こんなこと”されたら、僕は心労で狂っちまう。その方が安心」
掃討実験を僕らの手で遂行できないのは残念だが、ベイリー所長からの最大限の配慮。参加資格もないのに立会いができるなんてのは特例中の特例だ。家族でさえ認められていない。ありがたく思う。断る理由はない。僕は深々と頭を下げた。
「それから担当は、この予定表で行けば……」
しばらくの沈黙。ベイリー所長は伝えるべきか逡巡しているようだったが、口を開く。のちに続いた言葉を聞いて、僕は複雑な気持ちになった。別に何か不都合があるわけではないのだけど。
「……華山リナのチームだ」
実験の成功、という観点から言えば、これ以上ないチームかもしれない。あの先輩の姉。伝説の操縦者。マドカは多分助かるだろう。でも何か因縁めいたものを感じてしまって、気味が悪く、僕は唇を噛んだ。
2日後の昼、蒲生里大学病院。正規のゲストカードを与えられ、僕らは特別処置室へ通された。特別処置室は既存の手術室に掃討実験の関連機材を詰め込んだ窮屈なものだった。スタッフと機材でキャパシティはオーバーしている。さすがに掃討実験中は中には入れないということなので、僕らはオペレーション室で見守ることになった。
処置室に運ばれる前に、病室でマドカに会った。相変わらず、ただ気持ちよく昼寝をしているように満ち足りた表情のマドカ。苦しんでいるようには見えない。マドカの脳内では楽しげな夢が再生されているのかもしれない。その夢の中に僕らはいるのだろうか。早く僕らのところに戻ってきてほしかった。
ソ対機への侵入作戦が失敗した日の深夜、華山先輩の家の近くの道端で「リナさんがマドカの実験を担当する」と伝えた。彼女の表情に動揺は感じられなかった。意外ではあったけれど、少し安心する。
「姉なら失敗しない」
黒いコートのポケットに両手を突っ込んで、遠い目をしていた。日増しに冷たくなっていく晩夏の風がコートを揺らす。実の姉が掃討実験を行うということよりも、自分の手でマドカを救えなかったことに打ちひしがれていた。
病室でマドカを見つめるヨウジロウは辛そうだった。「最近、タバコが不味くて吸えない」と禁煙しだした。彼なりの願掛けなのかもしれない。早くマドカに「あのヨウジロウが禁煙してるぞ」と報告してあげたかった。マドカは「うそだー」と言いながら、ヨウジロウの頭を叩くだろう、きっと。
佐藤主任が僕らを特別処置室から連れ出す。「会いたくなかったら、ロビーで待っててもいい」と言う。僕は華山先輩を横目で見たが、間髪入れず首を横に振った。覚悟ができているらしかった。
関係者用の駐車場にアクションフィールドが展開されている。厳しい残暑で熱せられたアスファルトに白いチョークで大きな四角形が描かれていた。その側に長身の女が立っている。
短い銀髪。黒の革ジャン。華山リナだ。少し離れた所の縁石に実験チームのメンバー2人が腰掛けている。手にはノートPCが各2台ずつ。こんな屋外でオペレーションもするのか。驚きはしたが場所は関係ないし、ノートPCだってハイエンドモデルならスペックが劣ることもないだろう。彼らを信頼するしかない。
接近してくる僕らに気づいた華山リナが手を挙げた。華山先輩が歩くスピードを落とさず、リナの眼前まで詰め寄った。
「失敗したら承知しない」
先輩が言った。強い口調だった。リナは臆することなく実の妹に言葉を返す。
「ナナカ、友達いたの」
「姉ちゃんよりはいるよ」
無表情の先輩と不敵な笑みを浮かべるリナ。空気が凍ったようだ。僕らには行く末を見守ることしかできない。姉妹のことに外野があれこれいうのは野暮だ。
「……大切な友達なの?」
発せられたリナの声に先ほどまであった威圧感はなくなっていた。優しい目。一陣の風が吹いた。華山先輩が腹から絞り出すように言う。
「その人のためなら死ねるくらいね」
「…わかった。姉ちゃんに任せて」
リナが先輩の肩を優しく触れた。先輩は小さく頷くと、立ち尽くす僕らを残して病院内へ歩きだした。振り返った先輩の頬を一筋の涙が伝うのを見た。リナは淡いターコイズブルーの空を見上げ、イヤホンをつけると鼻歌を歌い出す。
このしんみりとした雰囲気に似合わぬ、ハイテンポの鼻歌。
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