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ホームズの論文

生命の書

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【内容】
 ホームズが初登場するホームズシリーズの第一作目『緋色の研究』でホームズが書いていたものが、『生命の書』です。この『生命の書』というタイトルは、新約聖書の『ヨハネ黙示録』に出てくる天国に入る予定者の名前を書き連ねた『生命の書』から取ったものになります。
 この『生命の書』は雑誌に掲載されていたもので、ワトスンはこの雑誌をテーブルに叩きつけました。
 内容は以下に記しています。

『ただ一滴いってきの水より(中略)論理家は大西洋またはナイヤガラ瀑布ばくふなど、見たり聞いたりしたことがなくても存在の可能なことを、推定しうるであろう。同様に、人生は一連の大きなくさりであるから、その本質を知ろうとすれば、一個のかんを知りさえすればよいのである。
 すべて他の学問とおなじく、推理分析学もまた、長期間刻苦こっく精励せいれいしてはじめて習得しうるのである。これが完成の域に達するには、生涯しょうがい研鑽けんさんに費やしても、いまだもって十分とは決していえない。
 初学者はこれら至難のわざたる精神的方面の研究にはいるに先だって、まず初歩の問題から習得すべきである。たとえば他人に会えば一見して経歴職業を判別しうるよう、習練をつむのである。
 このような習練はばかばかしく見えるかもしれないが、これこそが観察力を鋭敏えいびんにし、またどこに眼をそそぎ、何物をさぐりみるべきかを教えてくれるのである。指の爪、服のそで、靴、ズボンのひざがしら、人さし指や親指などのたこ、表情、カフス、これらのものはいずれの一つをとっても、それぞれの人物の職業を明示してくれる。有能な観察者がこれらのものをすべて総合するときは、かならずなんらか啓発けいはつされるものであることを、筆者はかたく信じて疑わない。』

 この論文を通してホームズが言いたいことは、表情や顔の動き、視線の移動で人心の奥底まで見抜けるということ、そして、観察と分析に習練した人をだますことは出来ないということです。


【影響】
 この『生命の書』が、ホームズの探偵学を一冊の本にまとめた『探偵学大全』に繫がったかもしれません。
 ホームズは『生命の書』で『指の爪、服の袖、靴、ズボンの膝頭、人さし指や親指などのたこ、表情、カフス、これらのものはいずれの一つをとっても、それぞれの人物の職業を明示してくれる。』と言っています。
 短編『ギリシャ語通訳』では、権威けんいがありそうななどから軍医だとわかり、いていることから退役たいえきして間もないと推理しています。
 短編『花婿失踪事件』では、ホームズは女なら、男ならズボンのを見た方が良いだろうと言っています。そして現に、依頼人のに二本の筋の跡がつて、そこからホームズは、タイプライターを使うときに袖口をテーブルに押しつけるからタイピストだと推理しています。
 短編『グロリア・スコット号』では、トレバー老人のを見て、採掘さいくつをかなり経験しているとホームズが見抜きます。
 このように、『生命の書』が後のホームズの推理や論文『職業が手の形に及ぼす影響』などに生きていることがわかります。


【不確定な推理】
 ホームズの『生命の書』は長編『緋色の研究』の冒頭で登場しています。『生命の書』では、観察と分析に習練した人を騙すことは出来ず、この結論はユークリッド幾何きかがくの定義のごとく絶対に誤りはないと語られています。
 この結論にワトスンはこじつけと誇張こちょうが見えたので、雑誌をテーブルに叩きつけることになります。
 ホームズはその結論が誤りではないと証明するために、ワトスンをアフガニスタン帰りの軍医だと推理した方法を説明しました。ワトスンを医者タイプだと外見で判断し、服装が軍人風だから、と軍医だとホームズは推理。ワトスンは顔は黒いが手首が白いため黒が生地きじではなく、熱帯地にいたのだとわかります。またワトスンは、憔悴しょうすいした顔をしていました。そのこととぎこちない動かし方から左腕を負傷していることを見抜きます。
 ただ、この推理は外見だけでワトスンを軍医だと見抜いていて、どう推理したのかまでは説明されていません。外見が軍医であっても、軍医でない可能性があるのにホームズは軍医だと言っていたことになります。
 このことについて、水野雅士さんは素晴らしい説明をしています。まずワトスンが医者だとわかったのは、スタンフォード青年がワトスンのことをホームズに紹介する際に『こちらワトスン先生(Doctorドクター Watsonワトスン)です』と言っていたからです(笑)。
 ワトスンがなぜ軍医だとわかったのかホームズに尋ねた時、ホームズは推理した、と言っていて誰かから聞いたことを完璧かんぺきに否定しています。見栄みえを張りたくなったのでしょうか。
 それはともかく、ワトスンを軍人だとホームズが見抜いた方法について説明するため、水野さんは正典での描写などを並べています。まず短編『背の曲った男』では、ホームズはワトスンに、『その癖を直さないと君が軍服を着慣れた人間』だということがわかると指摘してきしています。ワトスンの癖というのは、袖口にハンカチを入れるというものです。軍服はハンカチを入れられるポケットが付いていないらしく、軍人などはこういう癖を持った人が多かったようです。初対面の際にワトスンがこの癖をホームズに見られていた可能性はあります。
 また、『ギリシャ語通訳』では、ホームズとマイクロフトは推理対決をしています。その推理対決で、ホームズ達はちょうど通りかかった人を軍人だと推理しています。前述したように、軍靴や表情から軍人だと推理されていました。
 そして水野さんは、『このように見てくると、ワトスンが軍隊あがりであることを見分けるのはホームズにとって造作もないことだったと考えて差し支えないでしょう。』と締めくくっています。
 私は『緋色の研究』を読んだ時、ワトスンをアフガニスタン帰りの軍人だとする推理はこじつけがましいと思いましたが、これを読んで納得しました。ホームズというのは、奥が深いですね。
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