3 / 45
ツェツェクという少女
しおりを挟む太陽が山々の影に隠れつつある頃、暗闇が覆いつつある草原に向けて足を進める。
そこには羊と向かい合って遊んでいたのだろうか、夕日に照らされて長い長い二つの影がこちらに向かって伸びてきていた。
その少女の後姿を見ると、ああ、帰ってきたのだとジュチの胸の内に感慨が一気に湧いてきた。少年にとって彼女こそが家と日常の象徴だった。
「おーい!」
今少し距離が二人を隔てていたため、注意を惹くために大声を上げた。
振り返った幼い少女が目を細めてこちらを見ると、やがて寄ってくるジュチを認め、遠間からでもわかるほどパッと顔を明るくし、大声を上げた。
「ジュチー!」
ブンブンと両手を頭の上で勢い良く手を振るのは十二歳の割に痩せたジュチよりもさらに幼く、小さい少女だった。素朴だが可愛らしい顔立ちで、その笑顔は子供らしい天真爛漫な明るさに満ちている。周囲から自然と可愛がられる愛嬌があった。
そして手を振るだけでは収まらず、ぐんぐんと勢いよくこちらに駆けてくる。そのまま走り寄ってくる勢いを殺さずに真っ直ぐにジュチに向けて突っ込んだ。
突っ込んでくるのが体重が軽い少女とはいえ中々の衝撃だったが、走り寄ってくる姿に心構えをしていたこともあり、なんとかその勢いを抱き止めて抑え切った。
少女はそのままえへへと無邪気に笑み、抱き着いたジュチのお腹にぐりぐりと頭をこすりつけ、全身で親愛の情を表してくる。その様子は人懐っこい子犬さながらだった。
対するジュチもしょうがないなと口だけは仕方なさげだが、口元は言葉に反するようになんともだらしなくやにさがっている。
この人なつこく幼い少女こそ、ジュチの義妹ツェツェクであった。
「どこ行ってたの? わたし、ジュチがいなくて寂しかったんだよ」
ひとしきり体を触れ合わせてしっかり堪能したあと、ツェツェクは若干の不満を込めた非難を義兄に向ける。対するジュチは今日の自分が大いに馬鹿をやった自覚があり、義妹にあまり強く出ることが出来ない。
「……んー。ちょっと野暮用があってな?」
「やぼよー?」
難しそうに首を捻るツェツェクに思わず苦笑する少年。正体不明の膨大な知識に目覚めつつある義兄と違って彼女は見た目通りの幼子であるため、語彙がまだまだ足りていないのだ。
「ちょっと行きたいところがあったんだ。ああ、そうだ。それにお土産があったんだった」
「お土産? なぁに?」
子供らしい舌っ足らずな声音でこてんと首をかしげた仕草にやはり俺の義妹は世界一可愛いと兄馬鹿全開な妄言を脳裏で漏らす。
「ほら。この辺りじゃ中々見かけない種類だろ」
「……お花!」
ジュチは例の岩窟から採取してきたそこでしか咲かない鮮やかな青色の花弁を束ねたものをそっと差し出す。決して派手ではないが、よく晴れた青空のような深みのある色合いだった。
なお全く関係ないがこの辺りの年頃の青年が婚約者と会う時に度胸試しと求愛のため、贈り物を求めてしばしばアレッポの岩窟に挑戦することがある。もちろん目的は岩窟の入り口にそっと咲く青の花弁だ。
とはいえそんな風習など一切知らない二人のやり取りに妙な思惑はない。あくまで義理の兄妹の微笑ましいやり取りに過ぎなかった。
ゆっくり差し出された花弁を受け取ったツェツェクはパッと花咲くような笑みを浮かべた。
「とってもきれい! ジュチ、ありがとう!」
ジュチの首ったけに抱き着くように全身で喜びを示し、無邪気に笑う義妹にジュチはほっと肩の力を抜いた。こちらの好意を無碍にするような子ではないが、やはり喜んでもらうのは嬉しいものだった。
「おっと」
そういえば例の火蜥蜴はどうなったと肩を見るが、見当たらない。周囲を視線で見渡しても見当たらず首を傾げたが、すぐに所在を示すかのように目の前を小さく火の灯る尻尾がぷらぷらと揺れる。その割に頭に重さを感じないのだから不思議なものであった。
色々と自由すぎる珍獣にこの野郎いい度胸だなと思わないこともないが、ジュチにとっては目の前のはにかむように笑っている義妹の方がはるかに優先順位が高い。さりげなく頭を振って火蜥蜴を振り落としつつ、義妹に笑いかける。
「ツェツェクに似合うと思って、取りに行ったんだ。うん、やっぱりよく似合ってる。綺麗だ」
「そうかな? わたし、きれい?」
胸の前で大事そうに花弁の小束を抱え、舌足らずな声で嬉しそうに問うツェツェクにもちろんだと頷き返す。
義妹の名であるツェツェクは草原の言葉で『花』を意味する。
少女の名前に引っ掛けた贈り物であり、思いついたときはなかなかいい考えだと自画自賛したものだった。本当は花冠にして送りたかったのだが、飛竜に襲われて大半が散ってしまい、贈れたのはほんの数本のささやかな花束に過ぎなかった。
だがそれでも義妹の目を楽しませ、喜ばせることは出来たらしい。
それを見て、まあ帳尻は合ったかと今日一日の苦労が報われたような気がした。もちろんもう一度同じことを繰り返す気は起きなかったが。どう考えても飛竜に丸焼きにされて食われるか、さもなければモージに喉首を絞め上げられて窒息死させられる未来しか見えない。
と、ここでああそういうことだったのかと今日己がしでかした愚行について奇妙な納得が腑に落ちた。
要するに、己は義妹に喜んでほしかったのだなぁ、と。
そのためにあんな馬鹿な真似をしてしまったし、迷惑や心配をかけたことを反省しているが、正直あまり後悔はしていない。精神がスレた影響で無意味な浅慮は慎むつもりだったが、自身を動かす胸の衝動が治まった気配は無かった。
ジュチがこの時自覚したのはこの子をきっと幸せにするのだ、という使命感に似たナニカだ。そして己ならばそれが出来るとこの時根拠なく少年は思っていた。
それはこの時分の少年が抱く無根拠な全能感に近かっただろう。飛竜の襲撃と死に瀕して垣間見た前世 (?)の記憶という非日常が少年の頼りない理性を揺るがしていたということもある。
とはいえこの雄大なる大地に生きる少年としてとても自然な反応とも言えた。前者は一生自慢できる武勇伝であり、後者は自分を特別な存在ではないかと錯覚するには十分な神秘体験だ。
十二歳と考えると少しばかり早いが、この年代特有の厨二病といえた。
「ツェツェク、帰ろう。モージが待ち草臥れて夕餉を全部食べてるかもしれない」
「もう、モージはそんなに食いしん坊でも怒りん坊でもないよ! なのにそんなこと言ったらまた怒られちゃう」
「良いんだよ。あれも俺とモージのこみゅにけーしょんって奴なんだから」
「こ、こみゅ…?」
ここらの言語とは語感からして異なる異国の言葉に訳が分からないと言った顔をするツェツェクに何故かどや顔になるジュチ。これも、自分自身意味がよく分からない知ったばかりの言葉を使いたがる厨二病の症状の一つだった。
やがて二人は手と手をつなぎ合わせて少しだけ足早にモージのいる天幕へ向けて歩き出した。
「んふふっ…」
「? どうかしたか?」
「なんでもないっ」
やけに機嫌の良さそうなツェツェクの様子を伺うと歌うように語尾を跳ねさせて答えた。
「ねえ、ジュチ」
「なんだ?」
「楽しいねっ」
突然の言葉にはてな、と首を傾げるがなんとなくツェツェクらしいなとも思う。日常のふとした何気ないことにも喜びと幸せを見つけることが上手い少女なのだ。
「わたしね、ジュチが好き」
出し抜けに義妹の口から飛び出た告白に少しだけジュチの心音は早くなった。
「義母さんも好き。部族の皆が好き。皆と居る此処が好き!」
「俺も……。うん、俺も、そうだ」
無邪気な義妹の言葉に言葉少なく、しかし確かに共感を示すジュチ。
自分たちは決して恵まれた境遇ではない。縄張りが痩せた土地ばかりの部族はそもそも養える家畜の絶対数が少なく、あらゆる面で余裕がない。
天神の気まぐれ一つで大地の実りは大きく左右され、悪い方に転べば飢え死にかはたまた戦争かといった苦境に追い込まれるだろう。
それでも―――そう、それでも。
「部族で生きている俺たちは、本当に幸せだ」
自分たちは幸運だと、誰憚ることなくジュチは心の底からそう主張する。
モージという特殊な立ち位置の重鎮の養子、という点から察せられるがジュチもツェツェクも訳ありの子供だった。他所の部族を見渡せば幾らでも見受けられる程度の事情だが、訳ありには違いない。実のところ部族の奴隷階級である隷民に落されても誰も文句を言う者がいない、そんな境遇だったのだ。
それでも義兄妹達は部族の一員として迎えられ、今を生きている。
それは辺境の弱小部族であるからこそ、だったのだと思う。周囲を厳しい自然に囲まれ、苦境には団結して協力をしなければ生き残れない。一つの事実としてこの大地は決して人に優しい土地ではなかった。
厳冬には燃料の節約のため部族の皆が集まって一つの大天幕で身を寄せ合って過ごし、秋頃にはたっぷりと脂肪を蓄えた野の獣たちを協力して巻き狩りで追い込む。春と夏には男たちは家畜たちを放牧に何日も遠出し、女たちはその間一切を取り仕切り、家を守る。
それでもなお全体のために切り捨てられる犠牲はどうしても出る。だがその選別は合理的に、あるいは公平に行われ、ジュチたちに殊更に貧乏くじが回されることはなかった。
尤も幼い子供らがそうした事情を完全に論理的に理解していた訳ではない。
保護者はぶっきらぼうだが優しく、部族の皆も暖かかった。越冬期には族長の大天幕に一堂に会しての大遊戯大会が開かれ、そこでは誰も彼もが隔てなかった。暮らし向きが苦しくても、人の情は通じ合っていた。
彼らが理解していたのはそれくらいで、そしてそれだけで十分だった。
「ずっと皆と一緒にいたいな……」
「馬鹿、なに言ってんだ」
縁起でもない、と呟くと首を傾げられた。本当に思ったことをそのまま言ったという感じで、話のまとまりのなさがなんとも幼子らしかった。
「大丈夫だ」
根拠などないけれど、それでもジュチは言う。
「きっと、大丈夫だ」
夕日が山々の陰に隠れた空を見ると、暗闇が忍び寄りつつあった。
0
あなたにおすすめの小説
御家騒動なんて真っ平ごめんです〜捨てられた双子の片割れは平凡な人生を歩みたい〜
伽羅
ファンタジー
【幼少期】
双子の弟に殺された…と思ったら、何故か赤ん坊に生まれ変わっていた。
ここはもしかして異世界か?
だが、そこでも双子だったため、後継者争いを懸念する親に孤児院の前に捨てられてしまう。
ようやく里親が見つかり、平和に暮らせると思っていたが…。
【学院期】
学院に通い出すとそこには双子の片割れのエドワード王子も通っていた。
周りに双子だとバレないように学院生活を送っていたが、何故かエドワード王子の影武者をする事になり…。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【ご報告】
2月15日付で、誤字脱字の修正および一部表現の見直しを行いました。
ただし、記載内容の趣旨に大きな変更はございません。
引き続きよろしくお願いいたします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私は貴方を許さない
白湯子
恋愛
甘やかされて育ってきたエリザベータは皇太子殿下を見た瞬間、前世の記憶を思い出す。無実の罪を着させられ、最期には断頭台で処刑されたことを。
前世の記憶に酷く混乱するも、優しい義弟に支えられ今世では自分のために生きようとするが…。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。
その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
転生したので好きに生きよう!
ゆっけ
ファンタジー
前世では妹によって全てを奪われ続けていた少女。そんな少女はある日、事故にあい亡くなってしまう。
不思議な場所で目覚める少女は女神と出会う。その女神は全く人の話を聞かないで少女を地上へと送る。
奪われ続けた少女が異世界で周囲から愛される話。…にしようと思います。
※見切り発車感が凄い。
※マイペースに更新する予定なのでいつ次話が更新するか作者も不明。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる