上 下
24 / 46

XXIII.三条時緒の世界

しおりを挟む
 白塗りの壁の大きな屋敷。周囲をぐるりと囲む植え込みは常に手入れが行き届いており、その中央にそびえるのはこの界隈でも特に立派な建物である。

 今時は植えられた薔薇や芍薬が花を咲かせており、田舎町には少々不釣り合いな華やかさを増している。

 燐華が叔母の家の前で未練たらしく立ち往生している丁度その頃、時緒もまた自身の家に着いていた。

 外面は古い西洋風の館だが、その内部は大掛かりなリノベーションが施され、ひとたび足を踏み入れれば洗練された照明や、都会でもそうそうない規模のシステムキッチン等、最新設備が軒を連ねる。部屋数も住んでいる人数からすると明らかに多く、空いた部屋で軽い旅館業を営める程もある。

 その無駄に巨大かつ豪奢な建物が三条時緒の家であった。

 鍵であるICカードをかざし、扉を開けると誰よりも先に床を這う掃除ロボットが時緒を出迎える。

「しーっ」

 時緒は床を這うロボットに向かって口元で人差し指を立てると、慣れた様子でそれをひょいと跨ぎ、極力音を立てないように小走りで自室に向かう。

 だが、急くようなその足も不意に現れた人影を認めるなり、途端に勢いを失った。

 そう、時緒はその人物に見つかりたくないが為に急いで自室に逃げ込もうとしていたのだ。勿論、同じ家に住んでいればいずれ顔を合わせることになるのだが、家に帰る瞬間、つまり室内と外とを隔てるあの扉をひとたび潜るということは、何かしらの挨拶を交わす必要が生まれるということだ。だから時緒はこの帰宅の瞬間だけは、家の誰とも会いたくなかった。

 この目の前にいる「母親」という人物には特に。

「……た、ただいま」

「……おかえりなさい」

 母親の切れ長の目はナイフのように鋭く冷たく、そしてその口から発せられる声もその表情から想像できるままの温度の低いものであった。

 時緒は目を伏せたまま母親の横を通り過ぎる。

 通り過ぎる際、思わず自分自身の母親に軽く会釈をしてしまうが、対する母親の方は微動だにしなかった。

 背後の母の気配がなくなったところで再び時緒はその足を急がせ、二階の自室に駆け込み、特にそうする必要は無いのだが、後ろ手に鍵を閉めた。

 そこでようやく母に遭遇した時から無意識に止めてしまっていた息をいっきに吐き出した。そして自室をぐるりと眺める。

 目の前に広がるのは時緒の世界。

 天井近くまである大きい本棚に敷き詰められているのは取り取りの漫画、ライトノベル、アニメのDVD、それらの背表紙が極彩色の模様をした壁ととなりそびえ立っている。洋服や下着が仕舞ってある棚の上には、これまた煌びやかな衣装で飾り立てられた少女をモチーフにしたフィギュアが並んでおり、棚の上では収まりきらなくそれらが勉強机の上にまで浸食していた。

「ただいまぁ」

 緩んだ表情と共に愛するアニメや漫画のキャラクターたちへ向けられた挨拶は、先程母親に向けた声色とは明らかに違う、安堵を含むものであった。

 時緒の家は俗にいう「金持ち」であり、時緒自身も同年代の子と比べて自分が裕福な家庭に生まれたことを自覚している。

 お陰で大好きなアニメや漫画、関連する諸々の品物を存分に買い揃えることができる。

 だが時緒はこの家に生まれたことを幸運だとは思っていなかった。

 時緒の両親はまさに仕事に生きる人間で、二人とも優れた経営者としての手腕を振っている。父はとあるIT企業の社長であり、元々前に勤めていたの大手広告代理店を退職してから同時期に辞めた何人かとスタートアップ企業として今の会社を立ち上げた。今や若者ならば誰しもが一度は目にするWEB媒体をいくつか運営し、その広告収入だけで毎月莫大な利益を生む企業にまで急成長している。

 対する母親の職業はフラワーデザイナーである。その筋ではかなり有名な方で、よく雑誌の取材を受けているらしい。本社を東京に持ち単身赴任状態の父と違い、依頼を受けている時以外はこうして家にいることが多い。だが、ブライダル関連等の比較的大きな仕事でプランナーとの打ち合わせが必要になる時は家事を雇った手伝いに任せ、数日家を空けることもある。

 時緒自身、父親はおろか母親の仕事内容すらもよくわかっていなかったが、それを知りいとは一度も思ったことはなかった。

 こうした裕福な暮らしを実現している両親に対する時緒の想いは憧れや尊敬よりも、むしろ畏怖にも似た念の方が強い。

 二人とも揃ってストイックという言葉を絵に描いたような性格で、各々の仕事に対しては当然のこと、時緒に対する教育事に関しても一切の妥協を許さなかった。

 趣味に生き、学業を疎かにしがちな時緒は当然の結果の如く成績が悪く、両親とりわけ母はそれを決して看過しなかった。

 時緒の為にわざわざ高い交通費を負担してまで巷で評判の良い家庭教師を呼んだり、高い通信教育の商材を片っ端から買い揃えたりした。そしてその過剰なまでの教育は学業に留まらなかった。土日の学校がない日にはピアノのレッスンへ通わせ、母自身の本職でもある花に関しては自ら教え込んだ。

 しかしそのどれもが時緒にとっては苦痛でしかなく、度々言いつけられた勉強をサボっては母から叱られる毎日だった。幼い時緒が必死に詭弁を弄したところで、それは戯言として切り捨てられる他なく、時緒が抵抗を見せれば見せる程に母の教育は苛烈を極めた。

 だが、今ではそのどれもが過去のことである。

 今では予定の無い日にはこうして自室で自由に過ごすことができる。

 時緒は部屋のカーテンを開けると、気怠そうに窓の縁に頬杖を突いた。

 自室の窓から外を眺めるとN市内の建物が密集するその奥に、未だ人の手の入らない山々と海を望むことができる。今日みたいな雨でなければ、日の照り返した日本海が青々と輝き、所どころ海に突き出すように横たわる岩肌に生える緑が一層濃く映る。

 都会ではなくこのような不便極まりない場所に家を置いたのは両親の出身がこの地であったという理由の他に、都会に蔓延る余計な喧騒や心身を惑わせるような煩悩の類を排除し、幼いうちから自然豊かな環境で育つことにより感性を養い、敬慕に値する人格を形成する為という教育方針に則ってのことでもある。

 日を追うごとに厳しくなっていく母に対し時緒が見せた抵抗は様々なものがあった。学校の試験でわざと白紙を提出したり、ピアノのレッスンへ行ったと見せかけ無断欠席を繰り返したりと、幼い時緒の考え得る限りの悪行を敢行した。その度に母は時緒をこっぴどく叱りつけ、見せしめと言わんばかりに時緒に対する課題を増やしていったが、しかしそれも丁度一年前、去年の春までのこと。

 ある日時緒は母が大切な作品に使用する筈であった花材を、片っ端から全部ハサミで細切れにしてやったのだ。

 細切れになった花たちは母がわざわざこだわりを持って様々な所から仕入れたものであったが、その本来の可憐な面影は見事に失せ、見るも無残な生ごみへと成り果てた。

 その日は勉強事で叱られたばかりか罰と称して時緒の大切な漫画やライトノベルの一部を母に処分された日でもあった。だからこれは普段の抵抗に加え母に対する仕返しも含んだものであった。

 当然時緒はより厳しいお咎めを覚悟していたし、それがあって当然と思っていた。それを承知の上で行ったのだ。

 だがその惨状を見るなり母が時緒に対して放った言葉は一言だけであった。

『そう、勝手にしなさい』

 それ以来母が時緒に対して何かを課すことはなくなった。

 子育てを放棄したわけではない。食事だってこれまで通り用意するし、必要なものは何でも買い揃えたが、時緒に対しての熱心な教育だけがこの時を境にぱたりと止んだのだ。

 週に一度程帰って来る父もまた、何らかの事情を知ってか、そのことに触れようともしなかった。

 あの時、時緒が切り刻んだ花が仕事ではなく、父との結婚記念日を飾る為に用意していたものだと知ったのはそれから少し経ってのことであった。

 もう時緒を縛るものは何もない。

 何時間でも好きなだけ別次元の魅惑の世界に浸っていられるし、今みたいに部屋を欲望だけで埋め尽くしたところで誰も時緒に介入してこない。

 だがそうして得た「自由」は、何故だか反対に酷く狭苦しく感じるものであった。

 以前までは自身の趣味は母から隠れながら嗜むものであった。隠さなければならないものであればある程、その欲求は高まり、膨張し、人知れず己の脳内という宇宙の中で爆発させるのである。

 以前の生活に戻りたいとは微塵も思わない。だが以前の抑圧され、それでも隠れながら浸った幻想の世界は背徳的でありながら至極甘美なもので、日々の苦しい生活の中で唯一安らぎを得られるものであった。

 魅力的なのは今も変わらない。だが何か違う気がした。わざわざ隠れなくても良いという余裕ができた今、時緒が浸っているかの世界はあくまでも人工物であり、他人に作った世界に他ならないことを明瞭に自覚できてしまうようになったのだ。

 楽しい。確かに、紛れもなく楽しい。だがその他人の作りし限られた虚構の世界の中で妄想し、そのまま何も変わらず大人になっていく。その事実が急に恐ろしくなった。

 これまでは感じたことのなかった感情だ。

 元から時緒の本質に内包されているものであったのかもしれない。だがこれまでは肝を煎る母という存在が上手く阻害していてくれていたお陰で表面化を免れていたに過ぎなかった。

 余裕ができて初めてわかる自身の世界の小ささ。

「キミたちは良いよねぇー」

 時緒は窓から視線を逸らし、傍らのアニメキャラクターの少女を模した人形たちへ話しかける。

 この世界に生まれた時点で時緒は失敗だったのだ。

 ならば願うは一つ。

 この世界ではないどこか。それこそ、魔法やモンスターが当たり前のように存在する「異世界」へ行きたい。

 時緒は異世界の存在を信じていた。そしていつかその異世界に旅立てる人間が現実に現れるとしたら、それは自分をおいて他にいないと信じて疑わなかった。

 理由なんてものはない。

 自分自身が誰よりも強くそう願っているから「そう」なのだ。

 そして最近、同じことの繰り返しだった時緒の日常に変化が訪れた。

 傍から見れば多分に馬鹿らしい事柄かもしれない。

 だが、時緒は信じることにした。誰よりもそう、強く……。
しおりを挟む

処理中です...