たまき酒

猫正宗

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04 姉妹の日常とピリ辛胡瓜

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 フライパンからぷすぷすと、黒い煙が上がっている。

「あっ⁉︎ しまった!」

 慌ててコンロを弱火にすると、今度は鍋からお味噌汁がジュワッと吹きこぼれた。

「うわっ」

 急いでコンロのつまみに指を伸ばすと、次は出しておいた生卵を落っことしてしまった。

 パシャっと割れて中身が飛び散る。

 それを呆然と眺めながら、私は立ち尽くした。

「……あちゃー」

 やってしまった。

 なんと言うことだろうか。

 こんな風に不手際で食材を無駄にしてしまうなんて、なんだかやり場のない申し訳なさでいっぱいになる。

 キッチンに立った私は、一人で大騒ぎだ。

 やはり料理は大変である。

 私がこんなにあたふたしながら何をしているのかと言うと、それは晩ご飯の準備。

 つい先日から新社会人として働き出したいのりの力になろうと思い立ち、あの子の帰宅時間にあわせて料理をしているところだった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 一応の晩ご飯が完成したのは、それからおよそ三十分後だった。

 配膳を済ませるのとほぼ同時に玄関が開けられ、いのりが仕事から帰ってくる。

「ただいまぁ」

 トントンと廊下に軽い足音を響かせ、いのりがリビングに顔を出した。

「ただいま、お姉ちゃん! はぁ、今日も疲れたぁ」

「お疲れ様。晩ご飯の用意できてるから、着替えて手を洗ってきなさい」

「え⁉︎ ば、晩ご飯って、お姉ちゃんが⁉︎」

 いのりが大袈裟に驚いた。

 というか私が料理をしたのがそんなに意外だったのだろうか。

 まったく失礼な話だ。

 そりゃまあ料理は全然これっぽっちも得意ではないけど、私だってキッチンに立つことくらい、ごくたまにならなくもないのである。

 まぁ、年にほんの数回程度ではあるのだけれども。

「……なぁに、あんた。その反応?」

「え、えっとぉ……。えへへ」

 じろりと睨むと、いのりは人差し指をツンツン突き合わせながら、罰が悪そうに言葉を濁した。

 けれどもすぐに片目を瞑り、顔の前で手を合わせて可愛らしく謝ってくる。

「お姉ちゃんが料理するのなんて実家でもみたことなかったから、ちょと驚いただけだよぉ。えへへ。びっくりしてごめんなさい」

「……ま、別にいいけどさ。珍しいのは事実だし。それよりほら、早く着替えてらっしゃい」

「はぁい」

 私は部屋へと着替えに行った妹の後ろ姿を、ため息まじりに見送った。

 ◇

 スーツからラフな家着に着替えたいのりが戻ってきた。

 リビングのダイニングテーブルに、私と対面になって座る。

「うわぁ。お姉ちゃんの手料理なんて初めてだぁ。これみんなお姉ちゃんが作ってくれたんだよね? このお味噌汁も?」

「そうよ。あんまり上手じゃないけどね』

 今日の夕飯のメニューは『ウィンナーの玉子とじ』に『ほうれん草のお浸し』、『長ネギのお味噌汁』。

 背伸びはせず比較的簡単な料理に挑戦してみたのだけれど、それでも正直なところ出来は上々とは言い難い。

「じゃあ食べましょうか。頂きます」

「いただきまぁす」

 私はまず最初にウィンナーの玉子とじに箸を伸ばした。

 口に放り込んでもぐもぐと咀嚼する。

 ウィンナーのパリッとした食感は小気味良くて問題ないのだけれど、どうにも玉子の方がいただけない。

 予定では半熟に仕上がったトロトロの玉子が、ウィンナーにふっくらと絡み付いているはずだった。

 けれども私の作ったこの料理は、火が通り過ぎてしまって、玉子がまるで炒り卵のようにパサパサになってしまっていた。

「う、うーん……」

 納得のいかない結果に呻きながら、続いてほうれん草のお浸しに手を伸ばす。

 こっちは茹でて搾ったほうれん草をザク切りにし、白だしを掛けただけのお手軽料理だ。

 これならそうそう失敗していないだろうと高を括っていた私は、小鉢を突いてから固まった。

 ……辛い。

 このお浸し、塩辛くて舌がヒリヒリするし喉が乾く。

 何これ、ちょっと辛過ぎる。

「うあー」

 私は思わずまた呻いた。

 これはきっと白だしの分量が多過ぎたのだ。

 テンパって味見をしていなかったことを後悔しつつ、口直しにお味噌汁をすすった。

 …………薄い。

 今度はお浸しとは打って変わり、味がしない。

 というか正確には味噌の味はしっかりするのだけれど、出汁の味がまったくしないのである。

 そういえば私、出汁入り味噌を使ったっけ?

 よく思い出せない。

「…………」

 私はもう呻き声も出せずに、無言でそっと箸を置いた。

 料理は失敗だ。

 申し訳なくなった私は、わずかに上目遣いでいのりを眺める。

 きっと今日もお腹を空かせて帰って来ただろうに、こんな出来損ないの晩ご飯だなんて、悪いことをしてしまった。

 これならまだ、コンビニでお弁当でも買っておいた方が良かったかもしれない。

「……ん? どうしたのお姉ちゃん。食べないの?」

 ぱくぱくとご飯を食べていたいのりが、様子を窺うような私の視線に気付いた。

「いや、食べるわよ。でも、あー、なんだ。何というか……ごめんね」

 思わず謝ってしまう。

 するといのりはご飯を頬張りながら、キョトンとして首を傾げてみせた。

「ごめんって、何が?」

「これ。ご飯美味しくないでしょ。私、作るの失敗しちゃったから」

「あー、なるほど。ふふふ。たしかにお姉ちゃんってば、料理の腕はまだまだみたいだねぇ。でも何でそんなことで謝るの? 変なお姉ちゃん」

 いのりはくすくす笑ってから、再び箸を動かした。

 もさもさの玉子とじをおかずにパサパサの白いご飯を頬張り、味の薄いお味噌汁をズズズと啜っている。

「えっと、無理しなくていいのよ?」

「はぇ? 無理って?」

 やっぱり今し方味わった通り、私の作った夕餉ゆうげは失敗だと思う。

 でも何故だろうか。

 気のせいかも知れないけれど、食事をするいのりの顔は、心なしか不満げどころか満足そうにすら見えるのだ。

 不思議に思った私は恐る恐る尋ねてみた。

「……もしかしてさ。美味しい?」

「このご飯のこと? うん、美味しいよ」

「で、でも色々失敗しちゃってるじゃない。玉子とじはもさもさだし、お浸しは辛いし……」

「んー、そうかなぁ? 味はそうかもしれないけど美味しいよ? 失敗って言うけどこれくらいなら別に普通だし、それにお姉ちゃんの愛情がこもってるんだから」

 いのりが幸せそうに微笑む。

「えっとね。お姉ちゃんがキッチンに立って、どんな気持ちで作ってくれたのかなぁ、なんて考えながら食べるとね。なんだか胸がぽかぽかするんだよ」

 うわぁ……。

 心の中で感嘆の声をあげる。

 いのりはニコニコ嬉しそうに微笑んでいて、今の台詞もどうも本心から言っているらしい。

 我が妹ながら、なんていい子なんだろうか。

 私はいのりの笑顔がどうにもこそばゆくて、胸がむずむずしてきた。

「えへへ。お姉ちゃん、ありがとう」

「ど、どういたしまして」

 急に感謝を伝えられだ私は、ついそっぽを向いて素っ気なく応えてしまった。

 そのまま気恥ずかしさを誤魔化すように、視線を逸らしたまま、再びお箸を握る。

 照れ隠しに頬ばったご飯は、やはり水気が足りずに少し芯が残っていたけれども、何だかさっきまでより美味しく思えた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 食事を終えた私は、ダイニングテーブルからローソファへと移動し、深く腰をかけてテレビを観ていた。

 時刻は夜の8時過ぎ。

 いのりは部屋の隅でサビ猫のねぎさんと遊んでいる。

 テレビの液晶画面には旅番組が映し出されていて、芸能人の旅先案内人が老舗旅館で豪華な料理を食べながら高そうなお酒を飲んでいた。

 それをぼーっと眺めていると、なんだか私も飲みたくなってくる。

「……缶ビールでも飲んじゃおうかなぁ」

 ぼそっと呟くといのりが反応した。

「お姉ちゃん晩酌するの? なら何か軽く作るよ?」

「あら悪いわね。それじゃあお願いしようかな。あ、でもご飯食べた後だし簡単なのでいいわよ」

「はぁい。じゃあすぐに作るから少し待っててね。ねぎさんはお姉ちゃんと遊んでてー」

 いのりが立ち上がり、ねぎさんをソファに置いてからキッチンへと消えていく。

「ニャ」

 ねぎさんはトコトコ歩いて私の膝に座り直すと、すぐに丸くなってしまった。

 とは言え眠ってはいないようで、膝の上からじっと液晶画面を眺めている。

「なぁにあんた。一緒にテレビ観るの?」

「ミャア」

 もふもふの被毛を手のひらで撫で付けると、ねぎさんが短く鳴いた。

 ◇

「お姉ちゃん、出来たよぉ。冷蔵庫にあったビールも持ってきた」

 トレーを手にしたいのりが戻ってきた。

 でもまださっきから5分ほどしか経っていない。

「こんなのでいいかな? 『ピリ辛きゅうり』なんだけど。これお父さんのおつまみに、よく作ってあげてたんだぁ」

「へぇ、そうなんだ? もちろんいいわよ、ありがと。それにしてもあんた、あっという間に戻ってきたわね。もしかしてそれ、前から仕込んでたの?」

「ううん。いまササっと作ったんだよ。でも多分味は染みてると思うから、食べてみて」

 ピリ辛きゅうりの盛られた平皿が差し出された。

 私は促されるまま爪楊枝を1本手に取り、そのひとつにぷすっと突き刺す。

「どれどれ?」

 きゅうりはひと口サイズに乱切りされている。

 ぽいっと口に放り込むと、ピリッとした辛さが舌先から頬の内側へと走った。

 ほどよい刺激だ。

 奥歯で噛むとぽりっと小気味のよい音がなる。

 心地よい咀嚼感を味わいながらそのままもぐもぐしていると、きゅうりの内側の瑞々しい水分と一緒に浅漬けのつゆがじわっと染み出してきた。

 その塩気の塩梅が、また絶妙である。

「これ美味しいわねー。ちょうどいい漬かり具合じゃない。それにしてもこんな短時間で味が染みるなんて、どうやったの?」

「えへへ。実は裏技があるんだぁ」

「裏技って?」

 いのりが話しながら私の隣に腰掛けた。

 彼女は持ってきた2本の缶ビールを私と自分の前に1本ずつ並べてから、ひとつきゅうりを摘む。

 むぐむぐと口を動かし、ごくんと飲み込んだ。

「うん、美味しい。ちゃんと出来てるね。実はこれ、少しレンジで温めてるの」

「へぇ。そうなんだ?」

 なんでもいのりが言うには、浅漬けみたいな簡単なお漬物は、お汁と和えてからレンジで加熱すると短時間でも味が染み込むのだとか。

 そんな方法があるとは知らなかった。

「ホントはね。レンジでチンしたあと少し冷やしたほうがいいんだよ。そうするとポリポリしたまま漬かるんだぁ。でもこれは手早く作りたかったし、粗熱を取っただけなんだけどね」

「いいんじゃない? 十分美味しいわよこれ」

 話しながらもう一つ摘む。

 程よい塩気とピリリと辛い刺激にビールが飲みたくなってきた私は、目の前の缶ビールに手を伸ばし、プルタブに指を引っ掛けてから引き上げた。

 カコンっと軽快な音が響き、開いた缶の口の辺りでシュワシュワと泡が弾けだす。

 いつの間にか膝で寝てしまっていたねぎさんの耳が、ぴくりと動いた。

 いのりが冷蔵庫から持ってきた缶ビールは『エビスビール』。

 いわゆるプレミアムビールなんて言われてちょっと値段はお高めだけど、濃厚なコクと深い麦芽の味わいが楽しめる美味しいビールだ。

「お姉ちゃん、乾杯しよ」

「ん。乾杯」

 縁起の良い恵比寿様の描かれた黄金色の缶を持ち上げ、いのりの缶と合わせてから、ぐいっと煽る。

 鼻を抜ける麦芽の香りと、舌に感じるホップの苦味。

 長期熟成で醸造されたエビスビールは雑味のないまろやかな味わいながら、他のビールに比べて苦味は強く、飲み口はずっしりと重たい。

 喉越しも重厚だ。

「んく、んく、んく、……ぷはぁ!」

 ごくごくと飲んでから、一旦缶から口を離した。

 口内に残る後味はすっきりしていて、わずかに豊かなホップの風味が残る。

 それがまた、まるで次の一口を誘うような余韻なのだ。

 私はもう一度缶に唇を添えて飲み始めた。

 隣りではいのりもエビスビールを傾けて、ゆっくりと味わっている。

「ふぅ……。ね、お姉ちゃん。このビール、なんだか味が濃いね」

「あら、わかってるじゃない。さすが麦芽100%のプレミアムビールよねぇ」

「麦芽100%? よく聞く言葉だけど、高級ビールってことなんだよね?」

「んー、ちょっと違うわね。麦芽100%だから高級って訳じゃないわ。第一、お米やコーンなんかの副原料の方が麦芽より割高って言うくらいだし。だからね。こういう副原料は製造コストを抑える為というよりも、目的の味わいを出す為に使われるわけ」

「そうなんだぁ? じゃあ麦芽100%にする理由ってなんなの?」

「それは狙っている味わいの違いじゃないかしら。一般にお米やコーンなんかの副材料を使うとすっきりとした飲み口になって、麦芽100%だと濃厚でずっしりとした味わいになるみたいね。ほら、その証拠に、ね? エビスは濃くて美味しいでしょう?」

「うん! わたしこのビール気に入っちゃった」

「ふふふ。私もよ」

 ふたりして顔を見合わせて笑い合う。

 私はいのりと一緒に、ささやかな肴とちょっと贅沢なエビスビールを楽しんだ。

 ◇

 気付けばテレビの旅番組は終わっていた。

 3本目の缶ビールを手にした私は、ほろ酔いになっていい気分を楽しみながらいのりに話し掛ける。

「ねぇ、いのり。あんた明日は帰るの遅くなるんだっけ?」

「うん。明日って入社後初めての金曜日でしょ? だから会社で新人歓迎会するんだって」

「そっか。楽しい飲み会だといいわね。でも気をつけなきゃダメよ? あんたまだお酒には慣れてないんだから、飲み過ぎないようにね。あと終電までには必ず帰ってくること!」

「あはは、わかってるよぉ。お姉ちゃんってば心配性だなぁ」

 いのりが笑い飛ばす。

 けれども心配にもなるというものだ。

 なにせこの子はこんなに可愛いくせに、何となく隙が多く思える。

 やっぱり不安になってきた私は念を押した。

「ほんとに分かってんでしょうね」

「大丈夫だってぇ。心配しなくてもそんな終電になんてならないよー。それにもし遅くなりそうなら、ちゃんと連絡します。……ってお姉ちゃん、お母さんみたいだね」

 いのりがくすくすと笑う。

 私は人差し指を立ててから、いのりのおでこをちょんと押した。

「ん。それなら良し」

 ちゃんと分かっているならそれでいいのだ。

 口うるさくするのはここまでにしておこう。

 私は話題を変えた。

「そういえばいのり。あんたその後、同期入社の何とかいう男の子とはどうなってるのよ? ほら、この間、居酒屋さんで話してた――」

「……へ? もしかして神楽坂くんのこと?」

「そうそう、その彼。なんか進展あったんじゃないの?」

「何にもないよー」

「えー? ほんとにぃ?」

 先日の居酒屋で少し話を聞いただけではあるけど、私の見立てではその神楽坂くんは、いのりのことが気に掛かっているのだと思う。

 だとすればそろそろ何かアクションを起こす頃合いかも知れない。

 明日の歓迎会など、その彼からすればもってこいの場だろう。

「神楽坂くんかぁ。ね、いのり。新人歓迎会で何かあったら教えなさいよ?」

「う、うん。別にそれはいいけど……」

「うふふ。楽しみねぇ」

 身内の浮いた話を肴に出来るなんて、少し前の私は考えもしていなかった。

 でもこういうのも楽しいものだと思う。

 その後も私たちの雑談は、いのりがお風呂場に消えていくまで続いた。
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