それでもお前を愛と呼びたい

甲池幸

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羽化前夜

愛しいお前、どうか笑っていて

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 楽しい時間はあっという間で、スケッチをしながらゆっくり歩いていたのに簡単に頂上についてしまう。登り切った達成感からか、隣のお子様は大きく伸びをしている。両手を高くあげるから、アウターの太い袖口が肘まで落っこちて、ついでにそれに引っ張られた長袖もずり落ちて、細い手首がのぞく。
(あ)
 日焼けの跡。
「なに?」
「手首、日焼けのあとあるんだね」
 きょとん、と縦に大きなつり目が瞬いて、そこでようやく、失言に気が付く。
「あ、いや、別に。だからどうってこともないんだけど。剣道部、あんまり外出てるイメージなかったから」
 あぁ、だめだ。別に友達の日焼け跡を指摘するくらいなんでもないことだったはずなのに、心の奥底に、いや表面に、やましい気持ちがあるから、言葉を重ねるほど言い訳がましくなる。くそ、いつもの揶揄う感じで行けば、別に、なんでもなかったのに。
 後悔したところで、口から出た言葉も時間も戻らない。
 終一は首筋を爪で強くかいた。どうにか、この固まった空気を動かす言葉を――
「ははっ」
 ――空回る思考を遮って、太陽がほがらかに笑う。ちょっと眉を寄せて、顔をくしゃくしゃにして。時間が止まったような気がした。否、時間がここで、止まってくれればいいのにと願った。
「なんだよ、急に。んな焦るとこじゃなくね?」
「……いや、不躾だった、かなって」
 いたたまれなくて目を逸らす。焦ることじゃないのは、唯希の方にやましい気持ちが何もないからだ。終一だって、この会話の相手が森純太だったら「純太も外出るんだね」と言うだけで済む。変に焦ったり、言い訳を並べたりしない。
「別に嫌な気持ちになってねえし、だいじょぶだよ、終」
 柔らかな声が返ってきて、余計に、罪悪感が増す。どんな顔をしているのかなんて、目を逸らしたままでもわかる。眉を下げて、口角をゆるやかに上げた、優しい笑みだ。終一を、甘やかすときの顔。
「……うん。ごめん、ほんと」
「ん。いーよ」
 終一が小さな声で落とした謝罪を、唯希はそれ以上何も聞かずに、ただ、肯定する。そんな風に優しくされると本当に、心の底から『ごめんなさい』の気持ちになった。唯希は本気で、終一が不躾な発言をしてしまったことを気に病んで萎れていると思っているのだろう。視線を無理に合わせようとしないし、声も言葉もとても優しい。真夜中の教室に甘やかしに来てくれる時と、同じくらい。
(今は全然、弱ってるとかじゃないんだけど)
 かといって、焦った理由をきちんと説明するのも難しい。ちょっとお前の焼けてない肌が眩しすぎて煩悩が……なんて言ったら、間違いなく絶交だ。たぶん、二度と会話もしてもらえない。
(それは困る。困ると言うか)
 やだ。
 絶対に。
(よし。隠し通そう。ずるだけど、しょうがない。まあ、無防備に肌とか膝とか晒してるお子様も多少は悪い気がするし。うん)
 心の中で膨れ上がる罪悪感をどうにか押し殺して、終一は唯希に向き直る。目が合うと、ものすごく優しい顔で「ん?」と発言を促された。罪悪感で死にそうだ。
「……つかぬことを伺いますが」
 あぁ、違う。だめだ。まだ、動揺が抜けきっていない。
「すげー敬語。なに?」
 唯希はまるく、やわらかな音で笑う。ほとんど、空気みたいな声で。
「いや、その」
 終一は短く息を吸い込んだ。
「唯希って、心とか、読めない、よね?」
 もし読めてしまったら、言わなくても絶交ルートまっしぐらだ。至極真面目な問いかけに、唯希はぽかんと呆けた顔で答える。
「読めねえ、けど」
「そ。ならいいや」
「なに、なんか俺に知られたくねえこと考えてたの?」
 楽しそうに、きゅっと口角をあげて、唯希が距離を詰めてくる。柔軟剤の香りなのか、ワックスの匂いなのか、ベリーのような甘い香りがする。指先で肌を撫でられたみたいに、ほんの微かに。
「べつに」
 ふいっと視線を逸らす。べつに、そんなに物凄くダメなことを考えていたわけじゃない。いや、知られるのは、困るんだけど。
(ただちょっと、焼けてない肌が白くて眩しいなってだけだし)
 ちょっとだけ、服の下を想像してしまっただけだし。
「なんだよ、教えてくんねえの?」
 唯希はこちらがそれほど弱っていないことに気が付いたのか、今度は回り込んで目を合わせてくる。こいつ、自分の顔が俺に有効だって気づき始めたな?
「教えるも何も、べつに何にも考えてないから」
 冷たく突き放して、逃げるように遊歩道を下る。
「あー? じゃあ、なんであんなこと聞いたんだよ」
「興味本位」
「すげー急じゃん」
 隣に並んだ唯希が軽く笑う。朗らかな視線はもう紫陽花に向いていて、それ以上の追及はやめてくれたことが分かる。唯希は、いつだって、当たり前みたいな顔で終一を甘やかす。優しさがくすぐったくて、あまくて、口角が勝手に上がりそうになる。どうにかこらえて引き延ばしてみるけれど、あんまり、うまくいっている気がしなかった。
「あ、そうだ。タクシー、もう呼ぶ?」
「え、歩かないの?」
 行きは終一の我儘を聞いてもらったから、当然、帰りは唯希の気持ちを優先するものだと思っていた。ぱち、ぱち。互いに瞬いて、視線を交わす。先に口を開いた唯希はまだ、半分呆けた顔のままだった。
「いいの?」
 細くて、頼りない、小さな声が落ちる。
(――あぁ、ほんと。ばかじゃないの)
 だめなわけ、ないのに。
「当たり前でしょ。なに? 俺のこと、自分の我儘ばっかり通すやつだと思ってたわけ?」
「え。あ!? ちげーよ! そりゃ終が優しいのは知ってっけど。革靴! 足、いてえんじゃねえの」
 わざと眉をよせて、唯希を睨みつける。そうしていないと抱きしめてしまいそうだった。ぎゅっと、短く切った爪が手のひらに食い込むくらい、拳を握る。腹の底で暴れているのが苛立ちなのか、悲しみなのか分からなかった。
「べつに。下りなら大丈夫だし」
 視線をそらして、足を進める。一歩遅れて、唯希が歩き出す。
「いや、無理すんなよ」
 駆け寄ってきた唯希は眉を寄せていた。あぁ、ちがう。そんな顔を、させたいわけじゃない。笑っていてほしい。幸せで居てほしい。一点の曇りもないくらい、心の底から。そう願っているのに、なんて伝えたら笑ってくれるのか、いつも分からない。
「無理すんな? どの口が、」
 ちがう、責めたいわけじゃない。纏まらないままぶつけそうになった言葉を、すんでのところで飲み込む。唯希が目を見開いて、ざっくりと傷ついた顔になる。泣きそうなのは、終一も同じだった。同じなのに、足を止めた終一の顔を覗き込む唯希は眉をさげて笑っている。
(そんな顔で、笑わないでよ)
「終」
 柔らかな声で、名前を呼ばれる。そうやって甘やかしたいのは、終一の方なのに、いつも、上手くいかない。
「ごめん。歩きたかった?」
「ちがう」
「じゃあ、タクシー呼ぶ?」
「やだ」
 喉が詰まるから短く返せば、唯希が浅く息を吐くように笑う。
「じゃあ……このまま、ここにいる?」
「そういうこと言ってるんじゃない」
「はは、今日は難しいなー?」
 うーん、とか。あー、あれか? とか。唯希の少し高くて、柔らかな声が沈黙を埋める。そんな、背伸びをした声を聞きたいわけじゃなかった。あの一瞬の、頼りない声に滲んだ傷の方を知りたかった。でも、それをどう聞いたらいいのか、どんな聞き方ならその傷を抉らないのか、分からないから、飲み込むしかない。
 にがくて、いたい唾を飲み込んで、細く、息を吐き出す。
 涙がにじまないように。愛が、ちゃんと届くように。
「俺は、唯希にばっかり優しくさせるの、やだよ」
 踏みしめた遊歩道は褪せたレンガ色だった。視界の端で唯希が逃げるように、軸足と反対の足を半分、下げたのが見える。ただ、唯希が好きだと、大事だと言いたいだけなのに、どうして、唯希に届くまでの間に痛みを伴う音に変わってしまうんだろう。
「俺がいればいいってくらいの、友達、なんでしょ」
 自分で言っておいて、痛い言葉だった。もし、もっと早く勇気を出して、もっと特別な言葉を送っていたなら、友達以上になれただろうか。こんなときに、もっとちゃんと、優しく届く言葉を、吐けただろうか。
「だったら、俺にも優しくさせてよ」
 涙がこぼれないように、目元に力を込める。顔をあげたら、唯希は、酷い顔をしていた。眉が歪によっていて、唇が震えて、目は見開かれて。まるで、恐ろしいものを前にしているみたいな顔だった。ただ、お前が大事だって、言ってるだけなのに。
(馬鹿だなぁ。ほんとに)
 一歩近づいて、手を伸ばす。恐怖にそまった頬を指先でつまんだ。それでようやく、唯希の目元が緩む。うすく涙の膜が張って、瞳の輪郭が溶けた。
「知ってるんでしょ。俺が、唯希に特別あまいこと」
 むにむにと頬をひっぱって、落ちてきた涙を指の背で拭う。いつか、こんな言葉くらいは、彼が泣かずに、当たり前みたいな顔で受け取れる日が来たらいい。当たり前になるくらい、そばに居られたらいい。決して頼りなくはない、けれど、自分のそれより小さな手の指先を握ってゆるく引く。
「ほら、行こ」
 冷えた指先だった。とても、珍しく。ぎゅっと握りこんだ指先に、はやく、自分の体温が移ってしまえばいいと思う。二人分の体温がまざって、どっちがどっちか分からないくらい、ぬるい温度になればいい。
「ごめん」
 すん、と鼻をすする音がする。いつもとは逆だ。
「うん」
 いつも、唯希がしてくれるように、謝罪はただ、受け取って。いつも通りの、軽口をこぼす。
「雨、降らなかったね」
「…ほら、おれは雨男じゃねえんだよ」
「えー。学祭のあれで?」
「たまたまだし。あんときだって、外に出ようとしてたの、俺たちだけじゃなかったし」
「そうだっけ」
「そうだよ。覚えてねえの?」
「唯希ばっかり見てたから」
 繋がったままの指先が、びくりと強張る。お? これはちょっと、良さげな反応? 肩越しにちらりと振り返ると、ばっちり、目と目が合った。真っ赤に染まった、なんとも可愛い唯希の顔が見える。
「っ、っはは!」
「な、んだよ!」
「だって、ははっ、唯希、そんなっ、はは」
「あ? 終が、変なこと言うからだろ!」
 怒って逃げようとする唯希の手をぎゅっと握って捕まえる。
「うん、そうだね。俺のせい」
 目を細めて顔を覗き込めば、今度は、耳まで真っ赤に染まった。肩を震わせて笑う終一の声に、唯希の怒った声が重なって、下り坂を転がっていく。握った手は、離れないまま。二人の距離は、いつもより近いまま。
 いつの間にか、体温は混ざって、二人の手は同じ温度になっていた。
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