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羽化前夜
俺にとっては一大事だよ、わかんないの
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彼に抱く好感が、特別な色を持った好意だと気づいたのは、高等部に上がって最初の冬だった。
二台の石油ストーブがめいっぱい稼働しているせいで、教室の空気は乾燥していた。その乾いた空気を普段は聞こえない囁き声が揺らす。高い声、笑い声、低い声。聞き慣れない声の中に混じる、自分の家族の声。
(兄貴、ほんとに声でかい)
年に一度の、授業参観の日。朝から夕方まで、みっちり、家族が最大二人まで、授業と学校生活の見学に来る。周りのクラスメイトも、分かりやすく浮足立っている。普段は授業が始まる直前まで遊びまわっているのに、今日は全員が五分前には着席して、ぴんと背筋を伸ばしていた。その空気も、背中に突き刺さる視線も、なにもかもがむず痒くて、終一は唇を引き延ばした。意味もなく、咳ばらいをしてみる。
「ほい」
左隣の席から差し出されたのは、銀色の包装紙に包まれた小さくて四角い何かだった。
「なに?」
横目で、隣に座るクラスメイトを見る。赤みがかった茶髪を短く刈った、背の低い生徒だ。終一の視線を受けて、縦に大きな瞳がやわらかく細められる。
「のど飴。最近、乾燥ひどいよなー」
返事をする前に、ころんと机に小さくて四角い物体が置き去りにされる。
「べつに、喉が痛かったわけじゃないんだけど」
「なんだよ。咳してたから、ついに終も喉やられたのかと思った」
「自己管理くらい、ちゃんとできるし」
「いや、喉痛いのは自己管理あんま関係なくね?」
言いながら、唯希は手元の飴玉の包装紙を向いた。オレンジ色のつやつやした四角形を、授業前だと言うのに堂々と口に放り込む。授業中は何も食べちゃいけない規則なのに。
「悪い子だ」
「授業始まる前には噛むからいいんですー」
「のど飴の意味なくない? それ」
「俺は別に、喉いてえわけじゃねえもん」
ころんと唯希の口の中で飴が転がる音がする。見慣れた横顔だ。いつからか、好きに座っていいよと言われたら、自然と互いに隣を選ぶようになったから。
「じゃあ、なんでのど飴?」
唯希の顔がこちらを向いた。少し首をかしげるみたいに、終一を覗き込む。唯希は瞳をまるく緩めて、ひっそりと口角をあげる。
「だって終、朝からずっと咳してたじゃん」
「え、俺のため?」
「あと、普通に味が好き」
悪びれることなく唯希はそう付け足して、がりがりと口の中の飴玉をかみ砕いた。いつもは舐めるのに珍しい。手元ではすでに、二個目の飴を開けている。じとっと半目でにらめば、唯希は肩を振るわせて軽く笑った。
「それ、どう考えても俺がついででしょ」
「あー? んなことねえよ。終、朝からずっと咳してんなーと思って、購買覗いたら、たまたま、俺の好きな飴があったってだけ。運命だろ」
「こじつけって言うんだよ。そういうの」
「はは、夢のねえガキだなー」
「唯希が汚い大人なんでしょ」
もうすっかりいつも通りの軽口の応酬を続けながら、銀色の包装紙を開く。唯希が三個目の飴玉を口に含むのを横目に、終一もオレンジ色の四角形を舌にのせた。柑橘の香りが鼻を抜ける。
「俺も別に、喉が痛かったわけじゃないし」
「あ? いや、めっちゃずっと、咳してたけど。無自覚?」
「いや、だから。乾燥、とかじゃなくて」
ちらりと後ろに視線を向ける。にっこにこでこちらを見ている大男と、ばちりと目があった。その隣にはふわふわと花を散らすようにご機嫌な母の姿も見える。浮かれているのは、保護者も同じだ。
「落ち着かないでしょ、どうしたって」
普段、親元から離れて生活していることもあって、そもそもが久方ぶりの再会なのに、それに加えて級友に囲まれた空間を保護者にずっと見られている、なんて。落ち着かなくて、ふわふわと浮ついて、咳払いくらい、増えて当たり前だ。当たり前って、ことにしておいて欲しい。いたたまれないから。
「唯希だって親の前で授業受けるの、なんかやだなって思うでしょ」
ころんと口の中で飴玉を転がす。唯希は何も書かれていない黒板に目を向けた。口角が、綺麗に上がる。
「俺は、誰も来てねえから。超気楽」
「そうなんだ。ご家族、仕事?」
「んや、なんだっけ、でっかい遊園地あんじゃん。あれ行ってんだって」
なんだっけ、と言いながら、唯希はスマホを操作する。ほどなくして見せられたのは、メッセージアプリの画面だった。おそらくは、唯希の家族がみんな入ったグループだ。そこに何枚かの写真が送られてきている。頬をゆるめる中年の男女の間で、揃いのカチューシャをつけた青年と、少女が笑っている。
どこからどう見ても、楽しそうな、四人家族の写真だ。
本当は、五人なのに。
「ほら、楽しそうでしょ」
がり、と飴玉を噛む音がした。画面を見ている唯希の顔は静かで、真っ白だった。笑っているのに、ちっとも、楽しそうには見えない。終一が返す言葉を見つけられない間に、唯希の声が落ちてくる。
「兄貴と妹、誕生日近いんだよ。どっちも十一月で、四日しか離れてねえの。それぞれ当日にもお祝いすんだけどさ、だいたい毎年、二人合わせたお祝いってことで、どっか行くんだよなー。この時期」
毎年、十一月。授業参観もずっと、同じ時期だ。もしかしたら、唯希はまだ、一度も、授業参観に家族が来たことがないのかもしれない。そういえば去年も、唯希が家族と話している姿は見なかった。あの時はただ、見かけなかっただけだろう、と思っていたけれど。
「兄貴も妹も、こういうとこ好きでさ。両親も好きだから、毎年、近くなると、メッセがうるせえの。どこが空いてる、空いてない、どこから周るとか、何乗りたいとか、あれ食べたいとか。そんなんばっかで」
唯希の言葉はよどみない。声が震えることも、湿ることもない。笑い声の気配が上手に滲むから、まるで楽しいことを話しているみたいだった。
「唯希も好きでしょ」
知っている。
中等部の修学旅行のとき、行きのバスで高速道路から見えた観覧車に珍しく純太と一緒になってはしゃいで、先生に怒られていたこと。今年の夏、県大会優勝のお祝いにって、剣道部の顧問に、部費を使ってみんなで遊園地に行きたいとねだって、あっけなく却下されていたこと。クラスメイトが夏休みに家族で遊園地に行ったのだと話すとき、小さく「いいなー」とつぶやいていたこと。
隣にいたから、話していたことを覚えているから、知っている。
「俺はべつに。うるせえとこ嫌いだし」
嘘ばっかり。
周りがうるさく騒いでいるとき、文句を言うわりに、その横顔は晴れやかで楽しそうなのに。
嘘ばかりなのに、唯希の笑顔が、まるで本当に楽しいと思っているみたいに綺麗で、上手だから、涙が出そうだった。心臓の奥が寒くて、指先がちりちりと痛い。そんなに上手になるまで、いったいどのくらい、唯希は痛みを押し殺して笑ってきたのだろう。
家族向けに配布される年間行事の予定表に、唯一太文字で記載されている授業参観の日に、家族が別の場所で、みんなで笑い合っているような状況を、いったい何度、笑って許してきたのだろう。
(ゆるさくていいよ、そんなの)
もっと、怒っていい。
もっと、嫌だと泣いていい。
もっと、我儘を言っていい。
(おれがぜんぶ、ゆるして、かなえてあげるから)
まだ笑みを浮かべたままの唯希の頬に手を伸ばす。触れたら、見た目通り、子供体温で熱かった。その小さな体に、いったい、どのくらいの我慢と、寂しさを抱えているのだろう。心に形がないことが、こんなにももどかしいとは思わなかった。もし、心に形があって、それに触れられたなら、唯希に巣食う寂しさを、まるごと抱きしめられるのに。
「なに?」
まだ、唯希は笑ったままでいる。終一はぎゅっと、唯希の頬をつまんだ。むにむにと頬を引き延ばして、固まった笑みをほぐす。眉を下げる顔は、ようやく、泣き出す寸前に見えた。
「いへーよ」
「痛くしてるんだから、当たり前でしょ」
「あー?」
じっと、赤みがかった茶色の瞳を見つめる。ちゃんと伝わればいい。家族の誰も気づかない寂しさに、気づいている人間が、ここに一人はいるって。
「だから、泣いてもいいよ。唯希」
瞳がまるく、大きく見開かれる。柔らかな頬を両手で包み込んだ。
「ぜんぶ、俺のせいにして、泣いてもいいよ。そしたら、一緒に保健室行ってあげる」
涙が止まるまで隣に居るから、止まったら次は、楽しいところに行こう。遊園地でも、美術館でも、花畑でも、ショッピングモールでも、水族館でも、なんでもいい。唯希の、行きたいところに。
唯希の目じりと眉が下がる。目がほそくなって、口角が一度さがって、ゆっくりと、花が綻ぶように笑みに変わる。細く、静かに、吐息が落ちた。まるで笑い声みたいな息だった。
「今日の終、なんでそんなやさしーの」
きゅっと頬をつまんで、放す。唯希の体温が移ったせいか、手のひらが熱かった。
「俺はいつでも優しいでしょ」
「はは、そうだな」
やわらかな肯定が落ちて、前に向き直った唯希の頬を、透明なしずくが伝う。声はまだ、笑ったまま。ちょうど教室に入ってきた先生が、一瞬固まって、それから、何事もなかったように日直に号令を促した。
「起立」
宮崎の声にあわせて、クラスメイトがばらばらに椅子を引く。唯希は涙を拭うこともなく、まっすぐに立ち上がる。
「礼」
ほとんど揃った、挨拶が続く。頭を下げるのに合わせて、唯希がさりげなく目元を拭ったのが横目に映った。顔をあげた横顔は、泣いていたなんて信じられないくらい、いつも通りで。
(いつも、そうやって、見えないとこで泣いてたの)
号令にあわせて席につくと、教室のざわめきがゆっくりと引いていく。先生が教科書を開いて、授業が始まる。じっと見つめたままで居れば、唯希の視線がちらりとこちらを向いた。唯希は笑いながら黒板を指さして、口パクで前を向けと怒る。そんなところまで、ぜんぶ、本当にいつも通りだった。
(俺が知らなかっただけで、誰も気づいてないだけで、笑ってるときも、ほんとは泣いてたの)
先生の言葉に耳を傾けて、真面目に板書をする唯希から目が離せなくなる。だって、ほんの一瞬でも目を逸らしたら、唯希の悲しみを見逃すかもしれない。寂しさに気づかずに、綺麗な心が雫になって零れてしまうかもしれない。
(やだな)
ひとつも、見逃したくない。
ひとかけらも、失いたくない。
涙も、笑顔も、怒りも、悲しみも、寂しさも、楽しさも、嬉しさも、心の機微のすべてを知りたい。
落ちる涙の一滴も、零れた笑みの一欠けらも、余すことなく、視界に収めていたい。
朝見唯希の、あんなにも綺麗な心の、ぜんぶが欲しい。
(――あぁ)
これは、困った。伸ばした指先で、唯希の赤みがかった髪を、彼の小さな耳にかける。横目でこちらを見る唯希の表情は親し気だった。いつも通り、縦に大きな瞳を柔らかく細めて、彼は笑う。終一の指先にこもった熱の意味を、きっと、想像すらできずに。
「なんだよ。集中してなさすぎじゃね? どうしたの、終」
唯希は終一の手を振り払うこともなく、こちらを覗き込む。やわらかな、耳の骨を指先で弄びながら、終一は祈るように告げた。
「泣くとき、呼んで。ぜったい」
真意はどうせ、ひとつも伝わらない。伝わらないことを、願っている。
知らなくていい。こんな、身勝手で、醜い欲望のことなんて。
「いつでもいいから。俺の前以外で、泣かないって、約束して」
するりと耳の淵をなぞるように手を放す。きょとんとした顔をしていた唯希が、くすぐったそうに身をよじった。
「ほんとにどうしたんだよ。なんかあった?」
あったよ、あったでしょ。唯希が泣くのって、俺にとっては一大事だよ、分かんないの。
「理由なんていいでしょ。約束して」
おねがい。
呟くような、小さな声で希えば、やさしくて愚かな太陽は、眉と目じりを下げて笑う。
「わかったよ。約束する」
差し出された小指に、自分の小指を絡める。少し高い唯希の体温が、焼き付くように痛かった。本当に焼き付いて、この約束が形のある傷になればいいと、本気で思った。でも、はなれたあとの小指には、なにも、残ってはいなくて。唯希の視線はまた、黒板に吸い込まれる。唯希から視線を引き剥がして、かすかに体温の残る小指に唇を寄せる。
(好きだよ、唯希。この世界の、誰よりも)
言えないから、飲み込んで。
終一はようやく、シャープペンシルを握った。
二台の石油ストーブがめいっぱい稼働しているせいで、教室の空気は乾燥していた。その乾いた空気を普段は聞こえない囁き声が揺らす。高い声、笑い声、低い声。聞き慣れない声の中に混じる、自分の家族の声。
(兄貴、ほんとに声でかい)
年に一度の、授業参観の日。朝から夕方まで、みっちり、家族が最大二人まで、授業と学校生活の見学に来る。周りのクラスメイトも、分かりやすく浮足立っている。普段は授業が始まる直前まで遊びまわっているのに、今日は全員が五分前には着席して、ぴんと背筋を伸ばしていた。その空気も、背中に突き刺さる視線も、なにもかもがむず痒くて、終一は唇を引き延ばした。意味もなく、咳ばらいをしてみる。
「ほい」
左隣の席から差し出されたのは、銀色の包装紙に包まれた小さくて四角い何かだった。
「なに?」
横目で、隣に座るクラスメイトを見る。赤みがかった茶髪を短く刈った、背の低い生徒だ。終一の視線を受けて、縦に大きな瞳がやわらかく細められる。
「のど飴。最近、乾燥ひどいよなー」
返事をする前に、ころんと机に小さくて四角い物体が置き去りにされる。
「べつに、喉が痛かったわけじゃないんだけど」
「なんだよ。咳してたから、ついに終も喉やられたのかと思った」
「自己管理くらい、ちゃんとできるし」
「いや、喉痛いのは自己管理あんま関係なくね?」
言いながら、唯希は手元の飴玉の包装紙を向いた。オレンジ色のつやつやした四角形を、授業前だと言うのに堂々と口に放り込む。授業中は何も食べちゃいけない規則なのに。
「悪い子だ」
「授業始まる前には噛むからいいんですー」
「のど飴の意味なくない? それ」
「俺は別に、喉いてえわけじゃねえもん」
ころんと唯希の口の中で飴が転がる音がする。見慣れた横顔だ。いつからか、好きに座っていいよと言われたら、自然と互いに隣を選ぶようになったから。
「じゃあ、なんでのど飴?」
唯希の顔がこちらを向いた。少し首をかしげるみたいに、終一を覗き込む。唯希は瞳をまるく緩めて、ひっそりと口角をあげる。
「だって終、朝からずっと咳してたじゃん」
「え、俺のため?」
「あと、普通に味が好き」
悪びれることなく唯希はそう付け足して、がりがりと口の中の飴玉をかみ砕いた。いつもは舐めるのに珍しい。手元ではすでに、二個目の飴を開けている。じとっと半目でにらめば、唯希は肩を振るわせて軽く笑った。
「それ、どう考えても俺がついででしょ」
「あー? んなことねえよ。終、朝からずっと咳してんなーと思って、購買覗いたら、たまたま、俺の好きな飴があったってだけ。運命だろ」
「こじつけって言うんだよ。そういうの」
「はは、夢のねえガキだなー」
「唯希が汚い大人なんでしょ」
もうすっかりいつも通りの軽口の応酬を続けながら、銀色の包装紙を開く。唯希が三個目の飴玉を口に含むのを横目に、終一もオレンジ色の四角形を舌にのせた。柑橘の香りが鼻を抜ける。
「俺も別に、喉が痛かったわけじゃないし」
「あ? いや、めっちゃずっと、咳してたけど。無自覚?」
「いや、だから。乾燥、とかじゃなくて」
ちらりと後ろに視線を向ける。にっこにこでこちらを見ている大男と、ばちりと目があった。その隣にはふわふわと花を散らすようにご機嫌な母の姿も見える。浮かれているのは、保護者も同じだ。
「落ち着かないでしょ、どうしたって」
普段、親元から離れて生活していることもあって、そもそもが久方ぶりの再会なのに、それに加えて級友に囲まれた空間を保護者にずっと見られている、なんて。落ち着かなくて、ふわふわと浮ついて、咳払いくらい、増えて当たり前だ。当たり前って、ことにしておいて欲しい。いたたまれないから。
「唯希だって親の前で授業受けるの、なんかやだなって思うでしょ」
ころんと口の中で飴玉を転がす。唯希は何も書かれていない黒板に目を向けた。口角が、綺麗に上がる。
「俺は、誰も来てねえから。超気楽」
「そうなんだ。ご家族、仕事?」
「んや、なんだっけ、でっかい遊園地あんじゃん。あれ行ってんだって」
なんだっけ、と言いながら、唯希はスマホを操作する。ほどなくして見せられたのは、メッセージアプリの画面だった。おそらくは、唯希の家族がみんな入ったグループだ。そこに何枚かの写真が送られてきている。頬をゆるめる中年の男女の間で、揃いのカチューシャをつけた青年と、少女が笑っている。
どこからどう見ても、楽しそうな、四人家族の写真だ。
本当は、五人なのに。
「ほら、楽しそうでしょ」
がり、と飴玉を噛む音がした。画面を見ている唯希の顔は静かで、真っ白だった。笑っているのに、ちっとも、楽しそうには見えない。終一が返す言葉を見つけられない間に、唯希の声が落ちてくる。
「兄貴と妹、誕生日近いんだよ。どっちも十一月で、四日しか離れてねえの。それぞれ当日にもお祝いすんだけどさ、だいたい毎年、二人合わせたお祝いってことで、どっか行くんだよなー。この時期」
毎年、十一月。授業参観もずっと、同じ時期だ。もしかしたら、唯希はまだ、一度も、授業参観に家族が来たことがないのかもしれない。そういえば去年も、唯希が家族と話している姿は見なかった。あの時はただ、見かけなかっただけだろう、と思っていたけれど。
「兄貴も妹も、こういうとこ好きでさ。両親も好きだから、毎年、近くなると、メッセがうるせえの。どこが空いてる、空いてない、どこから周るとか、何乗りたいとか、あれ食べたいとか。そんなんばっかで」
唯希の言葉はよどみない。声が震えることも、湿ることもない。笑い声の気配が上手に滲むから、まるで楽しいことを話しているみたいだった。
「唯希も好きでしょ」
知っている。
中等部の修学旅行のとき、行きのバスで高速道路から見えた観覧車に珍しく純太と一緒になってはしゃいで、先生に怒られていたこと。今年の夏、県大会優勝のお祝いにって、剣道部の顧問に、部費を使ってみんなで遊園地に行きたいとねだって、あっけなく却下されていたこと。クラスメイトが夏休みに家族で遊園地に行ったのだと話すとき、小さく「いいなー」とつぶやいていたこと。
隣にいたから、話していたことを覚えているから、知っている。
「俺はべつに。うるせえとこ嫌いだし」
嘘ばっかり。
周りがうるさく騒いでいるとき、文句を言うわりに、その横顔は晴れやかで楽しそうなのに。
嘘ばかりなのに、唯希の笑顔が、まるで本当に楽しいと思っているみたいに綺麗で、上手だから、涙が出そうだった。心臓の奥が寒くて、指先がちりちりと痛い。そんなに上手になるまで、いったいどのくらい、唯希は痛みを押し殺して笑ってきたのだろう。
家族向けに配布される年間行事の予定表に、唯一太文字で記載されている授業参観の日に、家族が別の場所で、みんなで笑い合っているような状況を、いったい何度、笑って許してきたのだろう。
(ゆるさくていいよ、そんなの)
もっと、怒っていい。
もっと、嫌だと泣いていい。
もっと、我儘を言っていい。
(おれがぜんぶ、ゆるして、かなえてあげるから)
まだ笑みを浮かべたままの唯希の頬に手を伸ばす。触れたら、見た目通り、子供体温で熱かった。その小さな体に、いったい、どのくらいの我慢と、寂しさを抱えているのだろう。心に形がないことが、こんなにももどかしいとは思わなかった。もし、心に形があって、それに触れられたなら、唯希に巣食う寂しさを、まるごと抱きしめられるのに。
「なに?」
まだ、唯希は笑ったままでいる。終一はぎゅっと、唯希の頬をつまんだ。むにむにと頬を引き延ばして、固まった笑みをほぐす。眉を下げる顔は、ようやく、泣き出す寸前に見えた。
「いへーよ」
「痛くしてるんだから、当たり前でしょ」
「あー?」
じっと、赤みがかった茶色の瞳を見つめる。ちゃんと伝わればいい。家族の誰も気づかない寂しさに、気づいている人間が、ここに一人はいるって。
「だから、泣いてもいいよ。唯希」
瞳がまるく、大きく見開かれる。柔らかな頬を両手で包み込んだ。
「ぜんぶ、俺のせいにして、泣いてもいいよ。そしたら、一緒に保健室行ってあげる」
涙が止まるまで隣に居るから、止まったら次は、楽しいところに行こう。遊園地でも、美術館でも、花畑でも、ショッピングモールでも、水族館でも、なんでもいい。唯希の、行きたいところに。
唯希の目じりと眉が下がる。目がほそくなって、口角が一度さがって、ゆっくりと、花が綻ぶように笑みに変わる。細く、静かに、吐息が落ちた。まるで笑い声みたいな息だった。
「今日の終、なんでそんなやさしーの」
きゅっと頬をつまんで、放す。唯希の体温が移ったせいか、手のひらが熱かった。
「俺はいつでも優しいでしょ」
「はは、そうだな」
やわらかな肯定が落ちて、前に向き直った唯希の頬を、透明なしずくが伝う。声はまだ、笑ったまま。ちょうど教室に入ってきた先生が、一瞬固まって、それから、何事もなかったように日直に号令を促した。
「起立」
宮崎の声にあわせて、クラスメイトがばらばらに椅子を引く。唯希は涙を拭うこともなく、まっすぐに立ち上がる。
「礼」
ほとんど揃った、挨拶が続く。頭を下げるのに合わせて、唯希がさりげなく目元を拭ったのが横目に映った。顔をあげた横顔は、泣いていたなんて信じられないくらい、いつも通りで。
(いつも、そうやって、見えないとこで泣いてたの)
号令にあわせて席につくと、教室のざわめきがゆっくりと引いていく。先生が教科書を開いて、授業が始まる。じっと見つめたままで居れば、唯希の視線がちらりとこちらを向いた。唯希は笑いながら黒板を指さして、口パクで前を向けと怒る。そんなところまで、ぜんぶ、本当にいつも通りだった。
(俺が知らなかっただけで、誰も気づいてないだけで、笑ってるときも、ほんとは泣いてたの)
先生の言葉に耳を傾けて、真面目に板書をする唯希から目が離せなくなる。だって、ほんの一瞬でも目を逸らしたら、唯希の悲しみを見逃すかもしれない。寂しさに気づかずに、綺麗な心が雫になって零れてしまうかもしれない。
(やだな)
ひとつも、見逃したくない。
ひとかけらも、失いたくない。
涙も、笑顔も、怒りも、悲しみも、寂しさも、楽しさも、嬉しさも、心の機微のすべてを知りたい。
落ちる涙の一滴も、零れた笑みの一欠けらも、余すことなく、視界に収めていたい。
朝見唯希の、あんなにも綺麗な心の、ぜんぶが欲しい。
(――あぁ)
これは、困った。伸ばした指先で、唯希の赤みがかった髪を、彼の小さな耳にかける。横目でこちらを見る唯希の表情は親し気だった。いつも通り、縦に大きな瞳を柔らかく細めて、彼は笑う。終一の指先にこもった熱の意味を、きっと、想像すらできずに。
「なんだよ。集中してなさすぎじゃね? どうしたの、終」
唯希は終一の手を振り払うこともなく、こちらを覗き込む。やわらかな、耳の骨を指先で弄びながら、終一は祈るように告げた。
「泣くとき、呼んで。ぜったい」
真意はどうせ、ひとつも伝わらない。伝わらないことを、願っている。
知らなくていい。こんな、身勝手で、醜い欲望のことなんて。
「いつでもいいから。俺の前以外で、泣かないって、約束して」
するりと耳の淵をなぞるように手を放す。きょとんとした顔をしていた唯希が、くすぐったそうに身をよじった。
「ほんとにどうしたんだよ。なんかあった?」
あったよ、あったでしょ。唯希が泣くのって、俺にとっては一大事だよ、分かんないの。
「理由なんていいでしょ。約束して」
おねがい。
呟くような、小さな声で希えば、やさしくて愚かな太陽は、眉と目じりを下げて笑う。
「わかったよ。約束する」
差し出された小指に、自分の小指を絡める。少し高い唯希の体温が、焼き付くように痛かった。本当に焼き付いて、この約束が形のある傷になればいいと、本気で思った。でも、はなれたあとの小指には、なにも、残ってはいなくて。唯希の視線はまた、黒板に吸い込まれる。唯希から視線を引き剥がして、かすかに体温の残る小指に唇を寄せる。
(好きだよ、唯希。この世界の、誰よりも)
言えないから、飲み込んで。
終一はようやく、シャープペンシルを握った。
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