15 / 50
2章 雛本 真璃
それじゃ理由になりませんか?
しおりを挟む
此花さんが真剣な表情で、談話室のテーブルの上に置かれている20センチほどのクマの人形を見る。
そしてスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を走らせる。
私は此花さんの後ろに立ってそれを見、我慢出来ずに口を開いた。
「だから、もっとよく見なさい。形はどうなっているのか。大きさはどの程度なのか。光はどこから当たってるのか。影はどんな風についてるのか。絵の力以前にあなたには観察力が足りてないわ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝る暇があったら対象を見る」
——私がこの穂乃咲病院に入院してから五日が経った。
あれから此花さんとは、普段積極的に関わりに行くことは無いが一日のうち一時間ほど集まって私が絵を教えるという不思議な関係が続いている。
ちなみに彼女の絵心の無さは相当な物で、正直教えるのは苦労していた。
……延命治療の方は、返事は保留中だ。
あの後また両親と話したり、一人で考えてみたりもしたが、どうしても踏ん切りがつかない。
両親の本気の思いをぶつけられてもなお、やはり私にはそれを受けたいと思えるような最後の決め手という物が無かった。
「そこは丸みがあるでしょ。どうしてそんなに角張ってるの」
「ごめんなさい……」
「分かったら直す」
言いながら時計を見ると、こんなやり取りを続けて約一時間が経つ。今日はそろそろお開きの時間だ。
そう考えて視線を戻し、私は此花さんの隣の席に腰をかける。
「今日はこのあたりで終わりましょう」
「は、はいぃ。ありがとうございました……」
此花さんは緊張から解き放たれたように机に突っ伏すと、大きく息を吐いた。私はそれを横目で見て、紙コップのお茶を飲みほす。
真面目にやってるのは分かるんだけど、この子を教えるのは随分骨が折れそうだ。
呆れ気味に私も息を吐いたところで、此花さんが「そういえば」と顔を上げて話し始めた。
「私、雛本さんの絵、見せてもらいました」
「は?」
思いもよらなかった言葉に思わず声を上げるが、彼女は続ける。
「昨日雛本さんが検査で病室にいなかった時に、雛本さんのお母さんが絵を持って来て、内緒で見せてくれました」
「私に言った時点で内緒じゃなくなってるんだけど」
言うと、此花さんは唸り始めた。
「あー、えっと。そうなんですけど。でも、やっぱり伝えたくて。……すごく、綺麗でしたって」
こちらに向き直り、此花さんは真剣な顔で言う。
「私、芸術とか、そういうの全然分からないので、うまい言葉で感想は言えないんですけど……。でも、すごく綺麗でした。何度でも見返したくなるような……。私、感動したんです」
そこまで言って、此花さんはスケッチブックと鉛筆をこちらに差し出すと、頭を下げた。
「だから、もっと雛本さんの絵を見せてください。お願いします」
私はそのスケッチブックをしばらく見た後、しかしそれを手で押し返す。
「……この前も言ったでしょ。私が絵を描く意味はもう無いの。何度も言わせないで」
すると、此花さんはこちらに目を合わせたかと思うと、私の手をものともせずスケッチブックを私の胸に押し当ててきた。
「私が見たいんです。それじゃ理由になりませんか?」
返す言葉を失った。
あまりの強引さに驚いたから。そして、此花さんの目と手にこもる力を感じたから。
——多分この子は、心から本気でそう言ってるんだ。
「……あなた、随分ぐいぐい来るようになったわね」
「ほんとはあんまりぐいぐい行くの好きじゃないですけど……。雛本さんのお母さんによろしくされたので。ぐいぐい行こうかな、と」
「あの人、そんな事まで言ってたの?」
聞いた私に、此花さんは頷き返してくる。
「『真璃と仲良くしてあげて。よろしくね』って言われました」
溜め息しか出なかった。
というか、いつ間にうちの親とそこまでの交流を持つようになっていたんだ、この子は。
私は此花さんに押し付けられたスケッチブックを一旦手に取り、それをテーブルに置いた。
「申し訳ないけど、描く気にはなれないわ」
しかし私はそう告げる。
彼女の思いを感じ、気持ちが動かなかったわけではない。だが、やはり私自身が絵を描く理由にまでは成りえなかった。
私の言葉を受け、さっきとはうってかわって、此花さんは俯き気味になる。
「そうですか……。やっぱり、私なんかじゃ理由にならないですよね」
私は無言で席を立つと、「また明日」とだけ告げ、談話室を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
次の日の午後。私は病院の図書室に足を運び、読書をしていた。
今日此花さんは昼食の後に怪我の具合について色々と診察が入っているらしいので、終わり次第図書室に集合して絵を教えるという事になっている。
そして私は、図書室で木花神社についての本を見つけ、読んでいた所だった。
そもそも私がここに転院してきたのも、木花神社で祀られている『咲神命』という神様についての話を、両親が知っていたからである。だけど私はあまりそれを知らなかったため、少し読んでみようと手に取ったわけだ。
しかし、木花神社についての話は、どれもこれもいまいち信憑性に欠ける物ばかりだ。
例えば、木花神社を経営する家庭で生まれる第一子は必ず女の子であり、先祖代々第一子が巫女をしている、とか。そのため必然的に、木花神社では夫は婿養子となるそうだ。
また、木花神社で巫女をすることを義務付けられているその第一子には、生まれながらにして不思議な力が宿っており、咲神命の力を一部借りて行使する事が出来るとかなんとか……。
……本当なのだろうか。
もしこれが本当なら、あの子にも何か特別な力がある事になるが……。
「……まぁ、あり得ないわね」
そんな力を持つ子供が代々生まれてたとしたら、それはとんでもない事である。とてもじゃないが信じられない。
というわけで話半分という感じに本をめくり進めると、次に木花神社で祀られる咲神命についての話が書かれているページが現れた。
咲神命はそもそも山を守る神様だったらしく、その守っていた山の木は全て桜の木だったそうだ。
山を守って毎年桜の花を無事に咲かせる、という所から転じて、健康や安産、農業、厄除け等々のご利益があるとされているらしい。
——なるほど。この病院の中庭にあれだけ大きな桜の木があったのも、この話にちなんでの事だったのか。
読み進めると、咲神命が持つ力についての伝説が書かれたページに辿り着く。
咲神命はその山を守るために、山の植物が病気にかかれば指の一振りでその病気を全て取り除き、山に何かしら取り返しのつかない致命的な問題が発生した場合に至っては、時を遡りその問題の根源を絶ちに行くという事までやってのけるそうだ。
……もはやなんでもアリである。
しかし咲神命の力が最大限に発揮されるのは、意外にも桜の花が咲いている時期ではなく、桜の木につぼみが付き始めた頃らしい。
それは桜のつぼみを見た咲神命が、そろそろ花が咲き始める時期だからここが正念場だ、と気を引き締めるからだと綴られていた。
そこまで読んだところで、私は静かにその本を閉じた。これ以上読んでも特に得るものは無い気がしてきたからだ。
……まぁ、この咲神命に限らず神様の伝説なんて大体こんな物だろう。
私は席を立ち、本が元あった棚に戻す。
此花さんはまだ来ないようだし、次は何の本を読んで時間を潰そうか。
そう思ってあても無く棚の間を歩いていると、図書室の一番奥の棚に新聞が保管されているのが見えた。
病院のお世辞にも大きいとは言えない図書室のため、町の図書館のように沢山の量が保管されているわけでは無さそうだが、見た感じ一、二ヶ月程度の量はありそうだ。
私はふと此花さんと夕食を食べた日の事を思い出す。
一ヶ月ほど前にあった、高速道路での大きな事故。此花さんの話を聞いて思い出したあの事故の記事を、少し見てみようと思い立った。
左から新しい順に並んでいるようなので、右に指を走らせていく。
恐らくこの辺りだろうという新聞を二、三部引き出してみると、それは簡単に見つかった。
2018年1月28日の日曜日。その日の新聞の一面で、例の事故の記事が大きく取り上げられている。高速道路のトンネルから黒煙が立ち上っている写真が載っていた。
読んでみたが、事故の内容としては私が思い出した事と同じである。
事故に遭った人たちの名前などは勿論載っているはずは無いので、新しく得られる情報は無いかもしれない。
……いや。一つあった。
この事故が起こった場所。
隣の県の高速道路だったが、その高速道路が通っているのは、温泉街で有名な町がある市だ。
……確か、此花さんは家族で温泉旅行に行こうと準備しているのが最後の記憶だと言っていた。
もしその行き先がこの場所だったとしたら——。
「雛本さん。お待たせしました」
声にはっとして顔を上げ振り返ると、いつの間にか此花さんが後ろに立っていた。
「新聞見てるんですか? 何か気になる事、ありました?」
そう言って私の手元を覗き込んでくる此花さんから、私はとっさにその面を折って隠してしまう。
そんな私に、此花さんは怪訝そうな目を向けてきた。
「何見てたんですか?」
私はそれを聞こうか聞かざるか数秒迷っていた。
しかし、彼女だって自分の抜け落ちている部分の記憶が気になっていると言っていた。もしこれで思い出せるなら、悪い事ではないのではないか。
「……あなた、最後に覚えてるのが、家族と温泉旅行に行こうとしてた事だって言ってたわね?」
「え? あ、はい。そうですけど……」
突然投げられた質問に、此花さんは不思議そうに答える。
「それ、どこに行こうとしてたか、まで覚えてる?」
聞かれた此花さんは、腕を組み考え始めた。
「えっとー……。……あれ? どこだっけ。全然思い出せない……」
独り言のように言う此花さんに、私は質問を繋げる。
「隣の県にある、温泉街で有名な所だったりしない?」
「……隣の……、県? ……そう、いえば、そう、だった……、気が、する……」
ぶつ切りになっていくその言葉に違和感を覚えながらも、私はとっさに隠してしまっていたその新聞の一面を開くと、此花さんに見せた。
「その温泉街がある市を通ってる高速道路で、丁度あなたが病院に運ばれたって言ってた一ヶ月くらい前に大きな事故があったの」
此花さんはその記事を無言で見つめながら、新聞を手に取る。
「もしかして、この事故に巻き込まれたんじゃないかって思ったんだけど……」
そこまで言い切ったところで、彼女はぶつぶつと何かを呟き始めた。
「……此花さん?」
ぶつぶつぶつぶつ、と。
何を言っているのか聞き取れないほどの小さな呟きが続く。
そしてぐしゃっという音と共に、此花さんが新聞を握りしめた。
「————うぁぁァ……っ!」
それを皮切りに、彼女はこれまで聞いた事が無いようなうめき声とともに膝をつく。
「此花さん!?」
私は訳も分からず彼女の肩に手を置き、その体を支えた。
図書室を利用していた他の患者も、こちらの異変に気付いて近寄ってくる。
「やだ……っ! やだぁぁ……っ!!」
此花さんは一心不乱にそんな事を口にしながら、頭を振る。
「此花さん、落ち着いて!」
状況が理解できないままとにかく此花さんに声をかけるが、彼女の様子は一向に良くなる気配が無い。
「ごめ……っなさい……っ! ごめん、なさいっ!」
そしてそう叫んで私の肩を痛いほどに握りしめた後。
此花さんは力尽きたように私の胸に頭を預けて、その体からは力が抜けていった。
私は必死にその体を抱き抱える。
「……此花さん?」
返事が無い。彼女は完全に意識を失っていた。
「……先生を呼んでください! 誰か!」
——こちらに近寄っきていた他の利用者にそう必死に訴えかける事しか、今の私に出来ることは無かった。
そしてスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を走らせる。
私は此花さんの後ろに立ってそれを見、我慢出来ずに口を開いた。
「だから、もっとよく見なさい。形はどうなっているのか。大きさはどの程度なのか。光はどこから当たってるのか。影はどんな風についてるのか。絵の力以前にあなたには観察力が足りてないわ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝る暇があったら対象を見る」
——私がこの穂乃咲病院に入院してから五日が経った。
あれから此花さんとは、普段積極的に関わりに行くことは無いが一日のうち一時間ほど集まって私が絵を教えるという不思議な関係が続いている。
ちなみに彼女の絵心の無さは相当な物で、正直教えるのは苦労していた。
……延命治療の方は、返事は保留中だ。
あの後また両親と話したり、一人で考えてみたりもしたが、どうしても踏ん切りがつかない。
両親の本気の思いをぶつけられてもなお、やはり私にはそれを受けたいと思えるような最後の決め手という物が無かった。
「そこは丸みがあるでしょ。どうしてそんなに角張ってるの」
「ごめんなさい……」
「分かったら直す」
言いながら時計を見ると、こんなやり取りを続けて約一時間が経つ。今日はそろそろお開きの時間だ。
そう考えて視線を戻し、私は此花さんの隣の席に腰をかける。
「今日はこのあたりで終わりましょう」
「は、はいぃ。ありがとうございました……」
此花さんは緊張から解き放たれたように机に突っ伏すと、大きく息を吐いた。私はそれを横目で見て、紙コップのお茶を飲みほす。
真面目にやってるのは分かるんだけど、この子を教えるのは随分骨が折れそうだ。
呆れ気味に私も息を吐いたところで、此花さんが「そういえば」と顔を上げて話し始めた。
「私、雛本さんの絵、見せてもらいました」
「は?」
思いもよらなかった言葉に思わず声を上げるが、彼女は続ける。
「昨日雛本さんが検査で病室にいなかった時に、雛本さんのお母さんが絵を持って来て、内緒で見せてくれました」
「私に言った時点で内緒じゃなくなってるんだけど」
言うと、此花さんは唸り始めた。
「あー、えっと。そうなんですけど。でも、やっぱり伝えたくて。……すごく、綺麗でしたって」
こちらに向き直り、此花さんは真剣な顔で言う。
「私、芸術とか、そういうの全然分からないので、うまい言葉で感想は言えないんですけど……。でも、すごく綺麗でした。何度でも見返したくなるような……。私、感動したんです」
そこまで言って、此花さんはスケッチブックと鉛筆をこちらに差し出すと、頭を下げた。
「だから、もっと雛本さんの絵を見せてください。お願いします」
私はそのスケッチブックをしばらく見た後、しかしそれを手で押し返す。
「……この前も言ったでしょ。私が絵を描く意味はもう無いの。何度も言わせないで」
すると、此花さんはこちらに目を合わせたかと思うと、私の手をものともせずスケッチブックを私の胸に押し当ててきた。
「私が見たいんです。それじゃ理由になりませんか?」
返す言葉を失った。
あまりの強引さに驚いたから。そして、此花さんの目と手にこもる力を感じたから。
——多分この子は、心から本気でそう言ってるんだ。
「……あなた、随分ぐいぐい来るようになったわね」
「ほんとはあんまりぐいぐい行くの好きじゃないですけど……。雛本さんのお母さんによろしくされたので。ぐいぐい行こうかな、と」
「あの人、そんな事まで言ってたの?」
聞いた私に、此花さんは頷き返してくる。
「『真璃と仲良くしてあげて。よろしくね』って言われました」
溜め息しか出なかった。
というか、いつ間にうちの親とそこまでの交流を持つようになっていたんだ、この子は。
私は此花さんに押し付けられたスケッチブックを一旦手に取り、それをテーブルに置いた。
「申し訳ないけど、描く気にはなれないわ」
しかし私はそう告げる。
彼女の思いを感じ、気持ちが動かなかったわけではない。だが、やはり私自身が絵を描く理由にまでは成りえなかった。
私の言葉を受け、さっきとはうってかわって、此花さんは俯き気味になる。
「そうですか……。やっぱり、私なんかじゃ理由にならないですよね」
私は無言で席を立つと、「また明日」とだけ告げ、談話室を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
次の日の午後。私は病院の図書室に足を運び、読書をしていた。
今日此花さんは昼食の後に怪我の具合について色々と診察が入っているらしいので、終わり次第図書室に集合して絵を教えるという事になっている。
そして私は、図書室で木花神社についての本を見つけ、読んでいた所だった。
そもそも私がここに転院してきたのも、木花神社で祀られている『咲神命』という神様についての話を、両親が知っていたからである。だけど私はあまりそれを知らなかったため、少し読んでみようと手に取ったわけだ。
しかし、木花神社についての話は、どれもこれもいまいち信憑性に欠ける物ばかりだ。
例えば、木花神社を経営する家庭で生まれる第一子は必ず女の子であり、先祖代々第一子が巫女をしている、とか。そのため必然的に、木花神社では夫は婿養子となるそうだ。
また、木花神社で巫女をすることを義務付けられているその第一子には、生まれながらにして不思議な力が宿っており、咲神命の力を一部借りて行使する事が出来るとかなんとか……。
……本当なのだろうか。
もしこれが本当なら、あの子にも何か特別な力がある事になるが……。
「……まぁ、あり得ないわね」
そんな力を持つ子供が代々生まれてたとしたら、それはとんでもない事である。とてもじゃないが信じられない。
というわけで話半分という感じに本をめくり進めると、次に木花神社で祀られる咲神命についての話が書かれているページが現れた。
咲神命はそもそも山を守る神様だったらしく、その守っていた山の木は全て桜の木だったそうだ。
山を守って毎年桜の花を無事に咲かせる、という所から転じて、健康や安産、農業、厄除け等々のご利益があるとされているらしい。
——なるほど。この病院の中庭にあれだけ大きな桜の木があったのも、この話にちなんでの事だったのか。
読み進めると、咲神命が持つ力についての伝説が書かれたページに辿り着く。
咲神命はその山を守るために、山の植物が病気にかかれば指の一振りでその病気を全て取り除き、山に何かしら取り返しのつかない致命的な問題が発生した場合に至っては、時を遡りその問題の根源を絶ちに行くという事までやってのけるそうだ。
……もはやなんでもアリである。
しかし咲神命の力が最大限に発揮されるのは、意外にも桜の花が咲いている時期ではなく、桜の木につぼみが付き始めた頃らしい。
それは桜のつぼみを見た咲神命が、そろそろ花が咲き始める時期だからここが正念場だ、と気を引き締めるからだと綴られていた。
そこまで読んだところで、私は静かにその本を閉じた。これ以上読んでも特に得るものは無い気がしてきたからだ。
……まぁ、この咲神命に限らず神様の伝説なんて大体こんな物だろう。
私は席を立ち、本が元あった棚に戻す。
此花さんはまだ来ないようだし、次は何の本を読んで時間を潰そうか。
そう思ってあても無く棚の間を歩いていると、図書室の一番奥の棚に新聞が保管されているのが見えた。
病院のお世辞にも大きいとは言えない図書室のため、町の図書館のように沢山の量が保管されているわけでは無さそうだが、見た感じ一、二ヶ月程度の量はありそうだ。
私はふと此花さんと夕食を食べた日の事を思い出す。
一ヶ月ほど前にあった、高速道路での大きな事故。此花さんの話を聞いて思い出したあの事故の記事を、少し見てみようと思い立った。
左から新しい順に並んでいるようなので、右に指を走らせていく。
恐らくこの辺りだろうという新聞を二、三部引き出してみると、それは簡単に見つかった。
2018年1月28日の日曜日。その日の新聞の一面で、例の事故の記事が大きく取り上げられている。高速道路のトンネルから黒煙が立ち上っている写真が載っていた。
読んでみたが、事故の内容としては私が思い出した事と同じである。
事故に遭った人たちの名前などは勿論載っているはずは無いので、新しく得られる情報は無いかもしれない。
……いや。一つあった。
この事故が起こった場所。
隣の県の高速道路だったが、その高速道路が通っているのは、温泉街で有名な町がある市だ。
……確か、此花さんは家族で温泉旅行に行こうと準備しているのが最後の記憶だと言っていた。
もしその行き先がこの場所だったとしたら——。
「雛本さん。お待たせしました」
声にはっとして顔を上げ振り返ると、いつの間にか此花さんが後ろに立っていた。
「新聞見てるんですか? 何か気になる事、ありました?」
そう言って私の手元を覗き込んでくる此花さんから、私はとっさにその面を折って隠してしまう。
そんな私に、此花さんは怪訝そうな目を向けてきた。
「何見てたんですか?」
私はそれを聞こうか聞かざるか数秒迷っていた。
しかし、彼女だって自分の抜け落ちている部分の記憶が気になっていると言っていた。もしこれで思い出せるなら、悪い事ではないのではないか。
「……あなた、最後に覚えてるのが、家族と温泉旅行に行こうとしてた事だって言ってたわね?」
「え? あ、はい。そうですけど……」
突然投げられた質問に、此花さんは不思議そうに答える。
「それ、どこに行こうとしてたか、まで覚えてる?」
聞かれた此花さんは、腕を組み考え始めた。
「えっとー……。……あれ? どこだっけ。全然思い出せない……」
独り言のように言う此花さんに、私は質問を繋げる。
「隣の県にある、温泉街で有名な所だったりしない?」
「……隣の……、県? ……そう、いえば、そう、だった……、気が、する……」
ぶつ切りになっていくその言葉に違和感を覚えながらも、私はとっさに隠してしまっていたその新聞の一面を開くと、此花さんに見せた。
「その温泉街がある市を通ってる高速道路で、丁度あなたが病院に運ばれたって言ってた一ヶ月くらい前に大きな事故があったの」
此花さんはその記事を無言で見つめながら、新聞を手に取る。
「もしかして、この事故に巻き込まれたんじゃないかって思ったんだけど……」
そこまで言い切ったところで、彼女はぶつぶつと何かを呟き始めた。
「……此花さん?」
ぶつぶつぶつぶつ、と。
何を言っているのか聞き取れないほどの小さな呟きが続く。
そしてぐしゃっという音と共に、此花さんが新聞を握りしめた。
「————うぁぁァ……っ!」
それを皮切りに、彼女はこれまで聞いた事が無いようなうめき声とともに膝をつく。
「此花さん!?」
私は訳も分からず彼女の肩に手を置き、その体を支えた。
図書室を利用していた他の患者も、こちらの異変に気付いて近寄ってくる。
「やだ……っ! やだぁぁ……っ!!」
此花さんは一心不乱にそんな事を口にしながら、頭を振る。
「此花さん、落ち着いて!」
状況が理解できないままとにかく此花さんに声をかけるが、彼女の様子は一向に良くなる気配が無い。
「ごめ……っなさい……っ! ごめん、なさいっ!」
そしてそう叫んで私の肩を痛いほどに握りしめた後。
此花さんは力尽きたように私の胸に頭を預けて、その体からは力が抜けていった。
私は必死にその体を抱き抱える。
「……此花さん?」
返事が無い。彼女は完全に意識を失っていた。
「……先生を呼んでください! 誰か!」
——こちらに近寄っきていた他の利用者にそう必死に訴えかける事しか、今の私に出来ることは無かった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】【ママ友百合】ラテアートにハートをのせて
千鶴田ルト
恋愛
専業主婦の優菜は、夫・拓馬と娘の結と共に平穏な暮らしを送っていた。
そんな彼女の前に現れた、カフェ店員の千春。
夫婦仲は良好。別れる理由なんてどこにもない。
それでも――千春との時間は、日常の中でそっと息を潜め、やがて大きな存在へと変わっていく。
ちょっと変わったママ友不倫百合ほのぼのガールズラブ物語です。
ハッピーエンドになるのでご安心ください。
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
君は恋人、でもまだ家族じゃない
山田森湖
恋愛
あらすじ
同棲して3年。
毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、
一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。
彼女は彼を愛している。
彼も自分を愛してくれていると信じている。
それでも、胸の奥には消えない不安がある。
「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」
結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。
最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。
周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。
幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には
“言えない言葉”だけが増えていく。
愛している。
でも、それだけでは前に進めない。
同棲という甘い日常の裏で、
少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。
このまま時間に流されるだけの恋なのか、
それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。
彼の寝息を聞きながら、
彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。
余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした
ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。
しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義!
そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。
「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」
完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています
オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。
◇◇◇◇◇◇◇
「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。
14回恋愛大賞奨励賞受賞しました!
これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。
この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)
氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁
瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。
彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる