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4章 雛本真璃 2
良かったら一緒に食べない?
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時刻は十七時三十分。もうじき夕食の時間。
外も暗くなり始めた頃、私は一人病室のベッドに横になり、ぼうっと真っ白な天井を見つめていた。
——今更だけど、あなたの名前、聞いても良い?——
ふと、数時間前に此花さんに言われた言葉が思い出される。あまりの衝撃だったため、先ほどから何度もその時の記憶を反芻してしまっていた。
……結局、談話室で絵を見せた後、此花さんはほどなくしてやって来た看護師に連れられてどこかに行ってしまった。
私はというと、状況が全く呑み込めないままとりあえず病室まで戻り、それからずっとこの状態でいる。
……あれは冗談で言っているような雰囲気ではなかった。いやそもそも、彼女は冗談であんな事を言う子ではないだろう。
それに此花さんを連れて行った看護師も、慌てているような感じだったし。……一体何があったのだろうか。
コン コン
そんな音で、思考は中断された。病室の扉がノックされた音。
気だるい体を起こしながら「どうぞ」と返事をすると、此花さんが倒れた時に話を聞きに来た、彼女の主治医の先生が入ってくる。
「雛本さん、こんばんは。こんな夕食前の時間にすみませんが、少しお話よろしいでしょうか」
「ええ。大丈夫です」
私の答えを聞き、先生はこちらまで来るとベッドの脇の椅子に腰を掛けた。
「先ほど、談話室で此花さんと話していたそうですね。看護師から聞きました」
「……はい。名前を……、聞かれました」
そう言うと、先生は「そうですか」と大きく息を吐く。そうして少し間をとった後、何かを迷うかのように口を開いた。
「……単刀直入に言いますと、此花さんはこの病院で過ごした記憶を丸々喪失してしまっています」
先生のその言葉に、私はすぐに言葉を返すことが出来ない。いや、言葉を返す以前に、言われた事が理解出来なかった。
この病院で過ごした記憶を……、喪失している……?
混乱しながらも先生の言葉をもう一度頭の中で繰り返していると、先生は俯き気味に話を続ける。
「私もこんな症状は初めてで驚いています。しかし、話している限りはそうとしか思えません。此花さんは事故の記憶と一緒に、この二ヶ月ほどの記憶を忘れているのです」
余裕の無い頭でなんとか話を聞きながら、声を絞り出した。
「どうして、ですか?」
「……分かりません。——が、おそらく事故の件が関係しているのではないかと思います。雛本さんから事故の事を教えられて、此花さんは倒れた。そして目覚めるとこれまでの記憶を失っていた、となっては、まずはその事が原因だと考えるのが妥当でしょう」
言って、先生は立ち上がる。
「とにかく、それだけ取り急ぎお伝えしようと思って来ました。また何か分かったらお伝えします。……此花さんには自分が記憶を失ってしまっている事は話してありますが、一応事故の事は話していませんので、雛本さんもそれだけは話さなないようにお願いします」
そしてそう言い残し、先生は扉の前で一度頭を下げて、病室から出て行った。
私はそれを見届けた後、再びベッドに背中を預ける。
此花さんは、何も覚えていない。私とこの病院で過ごした記憶を、何も……。
——あなたが絵をやめちゃうのは、絶対勿体ないよ!——
——だというのに、彼女はあの言葉を私にかけたのか。
私の絵を見て、その言葉で、私の心を、此花さんは見事に救い出してくれた。彼女にとって私は初対面の人間のはずなのに。
……あの時もこれまでも、此花さんはずっと同じことを言っていた。それを私が信じ切れていなかっただけで。
だが記憶を失っているにもかかわらずその言葉をかけるという事は、今までの言葉も、きっと全て本心だったのだろう。
それを素直に信じられなかったのは、私の心の弱さのせい。
沢山の嫌な事や辛い事が私の心を弱らせて、その弱った心を守るために、固い殻の中へ閉じ込めてしまっていた。
人と関わる事も絵を描く事も、全て拒否することで、これ以上傷つかないように守ろうとしていたのだ。
……此花さんは、そんな私に嫌な顔もせず関わり続けてくれた。私が自分の弱さに気付けたのも、彼女のお陰だ。
そこまで考えたところで、再び扉がノックされる音がした。時計を見ると、まだ十八時まで十五分ほどある。多分夕食の配膳ではない。
先ほどと全く同じように、体を起こして「どうぞ」と声をかける。
開かれた扉から顔を覗かせてきたのは、此花さんだった。
「あの、ちょっとお話……、していい?」
不安そうにこちらを見てそう聞いてくる彼女に、頷いて中に入るよう促す。
此花さんは恐る恐るといった感じに病室に入ってきて、ベッドの横にある椅子に腰をかけると、
「雛本、真璃さん。……ごめんなさい。私、何も覚えてなくて」
そう言って頭を下げてきた。
「……あなたが悪いわけじゃないもの。謝る必要なんてないわ」
それを聞くと、此花さんは顔を上げる。表情は変わらず曇ったままだ。
「でも私、雛本さんにはすごくお世話になってたみたいだから……。本当に、申し訳なくて……」
「お世話?」
聞き返す私に、此花さんは「はい」と答えて続ける。
「さっきお父さんに聞きました。仲良くしてもらって、絵を教えてもらったりしてた、って」
そんな事を言う彼女に、私は思わず首を横に振った。
「……いいえ、違うわ。絵を教えていたのは事実だけど、お世話になったのは私の方」
「え?」
不思議そうな目を向けてくる此花さん。
「私、あなたに酷い事を言ったわ。でもあなたは、そんな私に声をかけ続けてくれた。それが無かったら、多分私は死ぬまでずっとつまらない顔をしたまま過ごしていたと思うから……」
此花さんは、私の言葉をいまいちよく呑み込めていないようだった。私は時計を一瞥し、此花さんに向かって再び口を開く。
「ねえ、此花さん。そろそろ夕食の時間だけど、良かったら一緒に食べない? そこでゆっくりお話ししましょう」
一度きりだと言ってしまったけど。……彼女がそれを覚えていないのは分かってるけど。
「……うん。私も言おうと思ってた」
私の提案をそう快諾して笑う此花さんに、私は少し安堵していた——。
外も暗くなり始めた頃、私は一人病室のベッドに横になり、ぼうっと真っ白な天井を見つめていた。
——今更だけど、あなたの名前、聞いても良い?——
ふと、数時間前に此花さんに言われた言葉が思い出される。あまりの衝撃だったため、先ほどから何度もその時の記憶を反芻してしまっていた。
……結局、談話室で絵を見せた後、此花さんはほどなくしてやって来た看護師に連れられてどこかに行ってしまった。
私はというと、状況が全く呑み込めないままとりあえず病室まで戻り、それからずっとこの状態でいる。
……あれは冗談で言っているような雰囲気ではなかった。いやそもそも、彼女は冗談であんな事を言う子ではないだろう。
それに此花さんを連れて行った看護師も、慌てているような感じだったし。……一体何があったのだろうか。
コン コン
そんな音で、思考は中断された。病室の扉がノックされた音。
気だるい体を起こしながら「どうぞ」と返事をすると、此花さんが倒れた時に話を聞きに来た、彼女の主治医の先生が入ってくる。
「雛本さん、こんばんは。こんな夕食前の時間にすみませんが、少しお話よろしいでしょうか」
「ええ。大丈夫です」
私の答えを聞き、先生はこちらまで来るとベッドの脇の椅子に腰を掛けた。
「先ほど、談話室で此花さんと話していたそうですね。看護師から聞きました」
「……はい。名前を……、聞かれました」
そう言うと、先生は「そうですか」と大きく息を吐く。そうして少し間をとった後、何かを迷うかのように口を開いた。
「……単刀直入に言いますと、此花さんはこの病院で過ごした記憶を丸々喪失してしまっています」
先生のその言葉に、私はすぐに言葉を返すことが出来ない。いや、言葉を返す以前に、言われた事が理解出来なかった。
この病院で過ごした記憶を……、喪失している……?
混乱しながらも先生の言葉をもう一度頭の中で繰り返していると、先生は俯き気味に話を続ける。
「私もこんな症状は初めてで驚いています。しかし、話している限りはそうとしか思えません。此花さんは事故の記憶と一緒に、この二ヶ月ほどの記憶を忘れているのです」
余裕の無い頭でなんとか話を聞きながら、声を絞り出した。
「どうして、ですか?」
「……分かりません。——が、おそらく事故の件が関係しているのではないかと思います。雛本さんから事故の事を教えられて、此花さんは倒れた。そして目覚めるとこれまでの記憶を失っていた、となっては、まずはその事が原因だと考えるのが妥当でしょう」
言って、先生は立ち上がる。
「とにかく、それだけ取り急ぎお伝えしようと思って来ました。また何か分かったらお伝えします。……此花さんには自分が記憶を失ってしまっている事は話してありますが、一応事故の事は話していませんので、雛本さんもそれだけは話さなないようにお願いします」
そしてそう言い残し、先生は扉の前で一度頭を下げて、病室から出て行った。
私はそれを見届けた後、再びベッドに背中を預ける。
此花さんは、何も覚えていない。私とこの病院で過ごした記憶を、何も……。
——あなたが絵をやめちゃうのは、絶対勿体ないよ!——
——だというのに、彼女はあの言葉を私にかけたのか。
私の絵を見て、その言葉で、私の心を、此花さんは見事に救い出してくれた。彼女にとって私は初対面の人間のはずなのに。
……あの時もこれまでも、此花さんはずっと同じことを言っていた。それを私が信じ切れていなかっただけで。
だが記憶を失っているにもかかわらずその言葉をかけるという事は、今までの言葉も、きっと全て本心だったのだろう。
それを素直に信じられなかったのは、私の心の弱さのせい。
沢山の嫌な事や辛い事が私の心を弱らせて、その弱った心を守るために、固い殻の中へ閉じ込めてしまっていた。
人と関わる事も絵を描く事も、全て拒否することで、これ以上傷つかないように守ろうとしていたのだ。
……此花さんは、そんな私に嫌な顔もせず関わり続けてくれた。私が自分の弱さに気付けたのも、彼女のお陰だ。
そこまで考えたところで、再び扉がノックされる音がした。時計を見ると、まだ十八時まで十五分ほどある。多分夕食の配膳ではない。
先ほどと全く同じように、体を起こして「どうぞ」と声をかける。
開かれた扉から顔を覗かせてきたのは、此花さんだった。
「あの、ちょっとお話……、していい?」
不安そうにこちらを見てそう聞いてくる彼女に、頷いて中に入るよう促す。
此花さんは恐る恐るといった感じに病室に入ってきて、ベッドの横にある椅子に腰をかけると、
「雛本、真璃さん。……ごめんなさい。私、何も覚えてなくて」
そう言って頭を下げてきた。
「……あなたが悪いわけじゃないもの。謝る必要なんてないわ」
それを聞くと、此花さんは顔を上げる。表情は変わらず曇ったままだ。
「でも私、雛本さんにはすごくお世話になってたみたいだから……。本当に、申し訳なくて……」
「お世話?」
聞き返す私に、此花さんは「はい」と答えて続ける。
「さっきお父さんに聞きました。仲良くしてもらって、絵を教えてもらったりしてた、って」
そんな事を言う彼女に、私は思わず首を横に振った。
「……いいえ、違うわ。絵を教えていたのは事実だけど、お世話になったのは私の方」
「え?」
不思議そうな目を向けてくる此花さん。
「私、あなたに酷い事を言ったわ。でもあなたは、そんな私に声をかけ続けてくれた。それが無かったら、多分私は死ぬまでずっとつまらない顔をしたまま過ごしていたと思うから……」
此花さんは、私の言葉をいまいちよく呑み込めていないようだった。私は時計を一瞥し、此花さんに向かって再び口を開く。
「ねえ、此花さん。そろそろ夕食の時間だけど、良かったら一緒に食べない? そこでゆっくりお話ししましょう」
一度きりだと言ってしまったけど。……彼女がそれを覚えていないのは分かってるけど。
「……うん。私も言おうと思ってた」
私の提案をそう快諾して笑う此花さんに、私は少し安堵していた——。
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