メイコとアンコ

笹木柑那

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第一章 仕事とか

1.通勤電車

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 社会人生活の中で小さいけれどじわじわと苦痛を与えてくる日常的な苦痛で、最もポピュラーなのが通勤電車だろう。

 電車の長椅子にはご丁寧に、一人分ごとに縫い目がある。中の中綿がずれてしまわないように縫いつけるためなのかもしれないが、多くの人はこれを一人分の座席の目安としているのではないだろうか。
 七人掛けの椅子では七等分、六人掛けの椅子では六等分になっているからだ。

 その『一人分の座席』を越えてくる人。これが何よりも長時間に渡ってイライラと疲弊させる。
 突然の大きな咳払いは瞬間的な苛立ちで最高値は高いが、対して越境はじわじわとした責め苦だ。小さな体に大きな心が必要になる。
 私は体は小さいが心も小さいのでとても耐えがたい。

 何故一人分の領域を守っている私が、それを凌駕してくる親父の腕を避けるために縮こまらなければならないのか。理不尽だ。
 子供は半額なんだから座らせるなとか、座るのも半分にしろとか言う人がいるらしいが、では足を広げて座る人、新聞を広げて読む人、やむにやまれぬ事情なく単なる不摂生で一人分を超えて座る人は、その隣の縮こまっている人に対して料金を払ってくれ、と言いたい。

 いやしかし、腹立ち紛れにそうは思うものの、実際のところはお金なんて多く払ってくれなくていいから体をシュッと半分に折りたたんでほしい。
 そんなのは無理なのはようくわかっているので現実的なところを言うと、半分には折りたためなくとも、つまりは隣の人を圧迫しないような気遣いがほしい。ただそれだけなのである。なのにそれだけのことを頭に思い描かない人があまりに多いので、心の中で誰にも届かない文句を毎日毎日ぶつくさするハメになるのである。

 これは精神衛生上よくない。できれば人の悪口なんて呟かずに生きていけた方が幸せなのだ。
 自分にとっても、勿論周囲にとっても。
 イライラしている人がいると、たとえ満員電車の中であってもすぐにわかる。
 イライラしている人はそのイライラを起こす人にイライラを伝えなければ解消されないことがわかっているから、なんとかしてそのイライラを伝えようとしてくるからである。

 咳払い(これは無意味)、腕で押す(寝てる人には無意味)、これ見よがしのため息を吐く(イラついているのか伝わらない)、舌打ちをする(同左)。
 これらの精一杯の抵抗を試みても、、感づくのは周囲の無関係な善良なる市民のみで、問題を伝えたい人には決して伝わりはしないのである。

 何故なら、そんなことで伝わるなら既に改善しようと心がけているはずだからである。伝わらないまま、あるいはわかっていてもなお改善する気のないまま、ありのままの私、ありのままの俺でいる人たちにそんなささやかな抵抗は通じず、車内の空気を無駄にピリピリさせて居心地悪くさせるだけなのである。

 なんというジレンマ!
 なんたる苦痛!

 個人ごとに仕切りをつけてくれれば居眠りで舟こぎマスターになっている人も寄りかかってこないし快適に座れるのにと心底思うのだが、もう何度も考えてきたことだからこそ、何故それが実現されないかもよくわかっている。

 細い仕切りでは電車が揺れた時に立っている人がぶつかり危険だし、仕切りを太くすると座れる人数が減り、輸送効率を上げたいという交通会社の経営的目標と相反する。コストもかかる。
 二人ずつ向かい合って座るボックス席と、その両隣に配置される二人席なら一方は壁か通路なので比較的一人分の領域を圧迫されにくいのだが、輸送効率という点から全車両がそうはならないと思うし、その車両が全路線に存在するわけでもない。

 そんな脳内討論をしている間に電車は会社の最寄り駅へと着く、のであればまだしも、通勤時間が一時間半を超えてくるとそんな討論をしている間に他のイライラが現れてきて話題は乗っ取られ、また同じイライラが襲ってきて乗っ取り乗っ取られを三回くらい繰り返してやっと会社に着くのである。

 そして勿論会社に向かう道すがらも脳内討論は続いている。そんな気分を会社まで持ち越したくもないのだが、常にイライラの種が降り落ちてくるので精神的余裕というものはすべてそこに栄養を費やされ生産的なことは何も考えられなくなるのである。

 これが二時間やそれ以上の通勤時間をかけている人もいるもので(勿論片道で、である)、もはや「引っ越せよ!」と言いたくなるのだが、「お前もな!」と言われて返す刃もないのでこの辺りで脳内討論会はなし崩しに終了となる。
 そう。どんなにストレスでも、引っ越すわけにはいかない事情と言うものが存在することを私は身をもって知っている。



 ああ、今日も朝からストレスが溜まった。
 これは行かねばならない。

 今日は火曜日。何としても定時で上がろう。
 そして彼女と居酒屋で喋りまくろう。
 そう決めて、私は主戦場会社へと乗り込んだ。
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