メイコとアンコ

笹木柑那

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第二章 家族とか

6.甘えたい人

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 テーブルに突っ伏し、グラスをガンッ、と手荒く置く。
 薄い琥珀色のさざ波がたち、すぐに平らかになる。

「荒れてるねー。慣れないお酒なんて飲んじゃって。どうやって帰るのよ」

 メイコが苦笑する。
 自分が今どれだけ滑稽かはわかっている。
 飲めないお酒を飲んで、何がしたいのかと自分でも思う。
 妹との電話が久しぶりに応えた。

「どうして私だけ『普通』の暮らしができないの」

「介護してる人なんてこの世にいくらだっているわよ」

「なんで二十六歳なんて若さで介護なんてしないといけないのよ」

「そういう人もいるよ」

「わかってるよ! 周りを見れば大変なのは私だけじゃないって。だけど、兄妹も母親も自分がやりたいように生きてるのにどうして私だけが我慢を強いられるの」

 言葉は返らない。
 私は手荒にグラスを口に運ぶ。口の端からとろりとした液体が零れる。手で乱暴に拭うと、アルコールの匂いがつんと鼻をついた。

「別に、まだ二十六歳だし今すぐ結婚したいわけじゃない。だけど介護なんていつ終わるかもわからない。早く終わればいいのにと願うことさえ許されない。終わりが見えない、見ちゃいけないのよ」

 介護が終わるのは母が死んだときだからだ。

「はいはい、それ以上考えるとロクなことになんないわよ。今日はもう帰りなさい。お迎え呼んであげるから」

 週に一度、母を施設に一晩預かってもらえる。
 その時だけ、私は束の間の自由を得てこうして居酒屋に来る。

「お迎えなんていらない。自分で帰れる」

「無理なことはお酒を飲んだ時点でわかってるでしょ」

 そんな声を聞くうちに、私の意識は混濁していった。

     ◇

芽衣子メイコ。ほら、芽衣子、起きて。帰るよ」

 間近で平太の声が聞こえて、いつの間にか寝ていたのだと気が付いた。

「ごめん……。いつの間にか寝てた。アンコは?」

「誰もいないよ」

 平太は私の腕を持つと自分の肩にかけた。

「平太、ごめんね」

「何が」

「平太も自由になっていいよ。私はたぶんもう、あの人から逃れられない」

「自由ってなんだよ」

 よっ、と掛け声をかけて私と私のバックを抱えた平太が、レジの前を通り過ぎる。

「待って平太、お会計しなきゃ」

「支払いは済んでるよ」

「……ごめん。あ。スマホは?! いつもテーブルの上に置きっぱなしに」

「バックに入れてある」

「ありがと。ごめん」

「ごめんばっかだな、今日は」

「いつもごめんって思ってるよ」

 平太がため息を吐き出す。

「今日はらしくねえな」

「アンコだもん。しょうがないよ」

「ハハ、今日は腐ってんな。何でも聞いてやるよ、話せ」

 喉がぐっと詰まりそうになる。

「だって、平太いつも愚痴嫌がるじゃん」

「生産性のない愚痴は嫌いだね。だけど愚痴を吐くことで芽衣子が楽になることもあるのは知ってるし、今芽衣子が話したいのは愚痴じゃないんじゃないの? そういうの、弱音って言うんじゃないの?」

 ぼろりと涙が零れた。

「弱音なんてもっとタチ悪いじゃん。もうこんな生活嫌だって話だよ。あの人の介護なんて、もうやってられないって話だよ。そんな話、もっと生産性ないじゃん」

「うん。けど口に出してスッキリできたら明日も頑張れる。生産性あるだろ。だからいいよ、今日はとことん聞くから。――この間、俺が話を遮って聞かなかったから怒ってるんだろ? だからずっと連絡しなかったんだろ」

 わかっていたのか。
 でももう遅い。
 もういいのだ。
 私はメイコだ。愚痴なんて言わなくて、強いメイコ。
 平太になんか頼らない。
 私にはアンコがいる。
 だからいいのだ。 

「もういいよ。家が遠いから平日は会えない、お泊りもできない。そんな彼女、平太も嫌でしょ?」

 無理なのだ。
 一人で介護と仕事を続けながら誰かと付き合うなんて。

 私に休息はない。私の人生もない。
 いくら他人が「リフレッシュも必要ですよ」「リフレッシュのために利用してもいいんですよ」と言ってくれても、身内がそれを許さない。味方になるどころかこれでもかと首を絞めてくる。
 私は母と仕事と、あとは息をして生きているだけで手一杯だ。

 しゃくりあげそうになり、必死でそれを堪えた。
 こんなところで泣くのは卑怯だ。憐れみを誘って繋ぎとめたって意味がない。

「確かに嫌だね」

 息が詰まった。

「俺は芽衣子といたいから。一緒にいられるなら誰でもいいわけでもないし。何とかしないとね」

 無理矢理に涙を堪えようとしたら、ぐっと何かが込み上げて鼻水が出た。ついでのように涙がまたぼろりと零れる。

「肉じゃがが作れれば誰でもいいんでしょ。時々料理作って、甘えさせてくれれば誰でもいいんでしょ」

 平太は「ははっ」と笑った。

「俺、別に肉じゃが好きじゃないよ」

 私はしばらく言葉を止めて、「は?」と訊き返した。涙は幹線道路から旧道くらいに狭まった。

「芽衣子が楽しそうに作ってくれるから。あれこれ段取り考えながら作るの好きでしょ? それ見てるのが楽しいだけ。肉じゃが作ってって言えば『ハイハイ』って来てくれるから言ってるだけ」

 なんだそりゃ。
 初めて聞いた。

「芽衣子が苦しんでるのはわかってた。だから俺も、もっとちゃんと考えるよ。だから強がらなくていいよ。離れようとしなくていいよ」

 平太がぽかんとする私の顔を覗き込んだ。

「昔付き合ってた彼氏に、『お前は一人でも生きていける。でもあいつは一人じゃ生きていけないから俺が傍にいてやらなきゃ』とか漫画みたいなこと言われてフラれたの、トラウマなんでしょ?」

 いつかお酒を飲んだときに管を巻きながら喋ってしまった私のトラウマ。
 言うつもりはなかったし、覚えていたとも思わなかった。

「トラウマのくせに、心底嫌なくせに、また俺に頼らずにいれば、俺が離れてくと思って一人で頑張ってきたんでしょ? 俺を縛り付けないように自由にしようとしてた。わかってるよ。アンコじゃなくても、芽衣子が考えてることは俺にもわかる」

 平太が私の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。

「明日は予定があって休み取ったんだ。今日おふくろさんいないんだろ? 泊まっていっていいか?」

 もう終電ないし。
 そう言われれば、私は頷くしかなかった。

「お母さんの汗とおかゆがしみついたベッドなら空いてるよ。電動で背もたれが上がって快適だよ」

「おい」

「冗談」

 そう言って、私は平太の胸に顔を埋めた。
 甘えるのは得意じゃない。
 だけど平太にだけは、甘えたい。
 平太の大きな掌が、私の頭をぽんぽんと撫でた。

 母にも父にも頭を撫でられたことはない。
 大人になって私は初めて、頭も温もりを感じるのだと知ったのだ。
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