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残り10時間30分26秒
しおりを挟むギンジロウとクルミは今、そろって正座していた。
こんな場所で、とも思ったが、二人にとって大事な話のときはいつもそうしているのだろう。
ただ奇妙なのは、ギンジロウが床に正座しているのに対し、クルミはなぜか椅子の上で正座していることだ。これではどちらが上なのか下なのか、さっぱり分からない。
「……クルミさん、これは一体どういうことなんですか?」
本来なら立場は絶対に上であるはずのギンジロウが、弱々しく問いかける。
一方のクルミは、ふんぞり返って鼻で笑った。
「ちょっとホスト遊びをしていただけでしょ。別にあなたのお金に手をつけたわけでもないし、悪いことでもないんだもの。文句ないでしょ?」
反省の色は一切なし。むしろ自分を正当化しようとしている。
だとすれば、この正座に何の意味があるのか――。
……というより、俺たちは本当にこの場に立ち会っていていいのだろうか。
「かつての名女優が今やホスト遊びざんまい……これは高く売れそうだな」
不謹慎にパシャパシャとカメラのシャッターを切るシガを、クルミは射抜くように睨みつける。
「見世物じゃないわ!」
「す、すみません……」
なぜかギンジロウが代わって頭を下げていた。
「あのー、ちょっといいっすか?」
と、ここで挙手したのはシンヤだった。
「クルミさん、”夫にはちゃんと説明してあって理解してもらってる”って前に言ってたっすよね。だから俺、スゲー包容力ある旦那さんだなって感心してたんすけど……実は言ってなかったんすか?」
余計なことを言ったのでは、と気まずそうなシンヤ。
なるほど、だからあれほどポロポロ喋っていたのかと俺も納得する。
するとクルミは急に表情を変えて叫んだ。
「そんなことないの! 悪いのは私! 強がって嘘ついちゃっただけなの、ごめんなさい!」
正座もやめ、シンヤにすがりつくクルミ。その姿はもはや名女優ではなく、一人の恋する女性だった。
「寂しい女って思われたくなくて……でも本当は寂しかったの。ごめんなさい、ウコンくん!」
その訴えはまるで一本のドラマを見ているようで。これが本心なのか演技なのか、俺には分からない。
ただ、俳優志望の俺としては、少しだけ尊敬すら覚えてしまう。
「謝る必要ないっすよ。俺の方こそ”姫を気持ちよくさせる”のが仕事なのに、逆に苦しめちゃって……ごめん」
自然に頭を撫でる仕草は、さすがホストだと感心する。
あれほどヒステリックだったクルミを、こうも簡単に宥められるとは――まさに手練れだ。
「……そういうわけで、私は彼が必要な存在なの。だから、あなたも理解してくれるわよね?」
それは要するに、ホスト遊びを認めろ。ということか。
「いくらなんでもそれは……」
可哀想じゃないか。俺は思わずそう言いかけたのだが。
「他人事に口を挟まないで!」
とクルミに一蹴され、黙り込むしかなかった。
「——そうですね」
しばらく沈黙していたギンジロウが、ようやく重い口を開いた。
受け入れてしまうのか……気弱な性格だし仕方ないのか、と俺は息を呑む。
「丁度いい機会です」
そう言ってギンジロウが取り出したのは、一枚の紙だった。
俺は身を乗り出して用紙を眺める。
「それって、もしかして……離婚届ですか?」
その紙に誰より目を丸くしたのはクルミだ。
「え……え……?」
「銀婚式の記念で出すのは、と躊躇っていましたが……今なら吹っ切れます。これを機に離婚させてください」
深々と頭を下げるギンジロウ。その姿に先ほどまでの気弱さはない。
「だって……あなた、私のこと大好きだって……」
「はい」
「今でもずっと好きだって言ってくれてたじゃない!」
「はい。これまでも、今も、これからも。クルミさんの自由奔放さも、気高さも、全部ずっと大好きです」
じゃあ、なぜ離婚なのかとクルミは固まる。
動揺する彼女を、ギンジロウは真っ直ぐに見つめた。
「今の私じゃあ、クルミさんを支えられなくなりました。昔はあなたに振り回されるのも楽しかった。ですが……この歳では、もう耐えられる自信がなくなってしまったんです」
だから、別れてください――ギンジロウのそれは、懇願にも近い声だった。
「いやよ! 私を射止めたとき言ったじゃない! 一生面倒見るって!」
子供のようにかぶりを振って叫ぶクルミ。
だがやがて、自分の稚さに気付いたのか、静かに頷いた。
「……わかった。この騒動が終わったら、書いてあげるわ」
そう言って彼女はシンヤの腕を引っ張る。
「ウコンくん、少しだけ付き合ってくれない……?」
「いいっすよ。その代わり、次に店来たときはシャンパン入れてくださいっすね」
二人はそう言い合いながら去っていった。
残されたギンジロウは、俺たちへ苦笑いを浮かべた。
「……すみません。お見苦しいところを」
「いえ、その……俺が言うのもなんですが、本当に良かったんですか?」
俺の視線が、つい彼の手にある離婚届へと向かう。
「正直、良かったかどうかは分かりません。後で間違いだったと後悔するかもしれません。でも……」
今にも泣き出しそうな笑顔のまま、それでも彼は気丈に振る舞った。
「それでも、この選択に後悔はないと、私は確信していますので」
そう言ってもう一度頭を下げ、ギンジロウはクルミたちとは別方向へ去っていった。
――ワガママなクルミと別れられて良かったじゃないか、と傍目には見える。
だがギンジロウの横顔には、そんな単純なものではない思いが浮かんでいた。
きっとそこには、二人にしか分からない複雑な何かがあったのかもしれない。
「後悔のない選択、か……」
俺は、誰に言うでもなく小さく呟いた。
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