観客席のモブは、恋をする予定じゃなかった

しろうさぎ

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雨の日1

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その日の朝、雨はまだ降っていなかった。

空は曇っていて、陽の光が薄い布越しに差し込むように町を照らしていた。雲は低く垂れこめ、いつもなら聞こえるはずの小鳥の声が、どこか遠い。早朝のこの時間は、通りを歩く人影もほとんどなく、まるで町全体が深く息を潜めているみたいだった。

月に一度の、花の買い付けの日。
朝早く出て、夜遅く帰ってくる――それが当たり前の一日。

パパとママは、いつも通り早朝に支度を整えていた。
ママは籠を抱え、パパは外套の襟を整えている。
その姿はいつも通りなのに、なぜか今日は心の中がモヤモヤする。

「すぐ戻るよ」

不安が顔に出てしまったのか、パパが私の頭を撫でながら優しく笑う。その笑顔はいつもと同じはずなのに、どこか少しだけ固く感じてしまう。隣にいるママも微笑んでいるのに、目元だけが、やわらかく沈んでいるように見えた。

「雨、降りそうね」

花屋の店先でママが空を見上げる。
その横顔がほんの一瞬崩れて、泣きそうに見えた。
笑っているのに、目だけが潤んでいる。

私は思わず、声をかけようとしたけれど。パパが明るく言う。

「帰る頃には晴れてるさ。ほら、俺たちは晴れ男と晴れ女だからな」

わざとらしいくらい、軽い声。
ママが小さく笑う。

いつものやり取り。
いつもの軽口。

なのに、空気だけがいつもより重い。
なぜかはわからない。わからないけど、不安がじわじわと広がってくる気がした。天気が悪いし、いつもより気が滅入ってしまっているからかも…。ちゃんと笑顔で見送らなくちゃ。

「行ってらっしゃい」

そう言うと、二人は同時に振り返った。
そして――パパが、いつもより強く私を抱きしめる。

「店番、頼んだぞ」

胸に顔を押しつけられる。いつもならすぐに離れるのに、今日はなかなか離れない。

「愛してる。君は俺の小さなプリンセスだ。この先もずっと、パパとママの愛する娘は、アイリスただ一人だけ。…どんなことがあっても、花を嫌いになるなよ。」

意味が分からなくて、私は笑った。

「花を嫌いになんてならないよ」

パパは私の髪に顔を埋める。ほんの一瞬、肩が震えた気がした。
ママは、戸惑う私と目が合うと、私の頬を両手で包んだ。

親指が、そっと目元をなぞる。

「……アイリス」

その声は、ひどく静かだった。

「あなたの瞳は、今日もとっても綺麗ね」

突然そんなことを言うから、私は瞬きをする。

「いつもと同じだよ?」

少し照れくさくて笑うと、ママは首を振った。

「違うわ。あなたの虹色は、毎日少しずつ違うの。キラキラしていて……見ているだけで、幸せになる」

パパが横から、ふっと笑う。

「世界一綺麗な瞳だ」

大げさだと思って、私は顔をしかめる。
でもママは、真剣だった。

「もし――」

そこで一瞬、言葉が止まる。

指先に、わずかに力がこもる。

「もし、いつかあなたが、自分の瞳を嫌いになりそうになっても」

胸がどくりと鳴る。どうして突然そんなことを言うの。
ママは、優しく微笑む。

「忘れないで。その虹色は、私たちが一番大好きな色よ」

ママの額が、私の額にそっと触れた。

「何があっても、自分を信じて。どんなことがあっても、自分を嫌いにならないで。」

その声は、祈りみたいだった。

「あなたは、愛されて生まれてきたの」

涙が出そうになって、私は笑う。

「なにそれ」

ママも笑う。でも、その目の奥が、揺れている。

「覚えておいてね。愛してるわ、アイリス」

ママの細い腕にぎゅっと力がこもり、私を包む。

「あなたは、私たちの誇りよ」

耳元で、そう囁く。その声が震えている。

パパが私の頭を撫でる。

「俺もだ。世界で一番愛している。」

二人の体温が、やけに熱い。
どうしてだろう。今日は、離れたくない。

でも、

「ほら、遅くなる」

パパが無理に明るく言って、ゆっくり体を離した。
最後にもう一度だけ、私の頬に触れたママの指先が冷たかった。

「気をつけてね…パパ、ママ」

私は、店の角が見えなくなるまで見送った。その背中が小さくなっていく。どうしてだろう…胸の奥が、ひどく騒がしかった。


あの時、走ればよかった。追いかければよかった。
もう一度、抱きしめて「行かないで」って言えばよかった…

その日はただ、月に一度の買い付けの日で。
朝早く出て、夜遅く帰ってくるはずの、いつも通りの一日のはずだったのに…

それが――

最後だった。
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