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昨晩は横になりながら色々なことを考えていたら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
ベッドから抜け出して洗面台の前に立つと、鏡の奥には酷い顔をした自分の姿が映し出されていた。
それを見てオリヴィアは思わず苦笑した。
昨日起こった出来事は、紛れもない現実なのだと突き付けられているような気分だった。
「酷い顔……。とりあえず支度を済ませて邸に戻らないと」
皮肉なことに、今日もこのドレスを着たまま帰らなくてはならない。
本当は今すぐにでも別の召し物に着替えてしまいたいが、他に代用品がないのだから我慢するしかなかった。
オリヴィアは準備を終えると部屋から出て、廊下を歩いて行く。
本当は世話になった王妃に挨拶をしてから行くべきなのだろうが、わざわざ起こすのも申し訳ないと思い、今日は会わないまま帰ることにした。
馬車は待機して貰っているので、乗り場にさえ辿り着けば後は邸まで送ってくれるはずだ。
(こんなに朝早くに起きるのは初めてかもしれないわ。というか、完全に明け方前よね)
外は薄暗く、まだ太陽の光が隠れているような時間だ。
皆寝静まっているのか、外は静寂に包まれている。
この時間ならば、誰の目にも付くことなく帰れるはずだ。
離宮の出口が見え始めると、傍に一台の馬車が待機してあった。
恐らく王妃が用意してくれたものなのだろう。
(あれね……。本当に王妃様には感謝しかないわ……。帰ったらお礼の手紙を早速書こう)
そんなことを思いながら馬車に近づこうとすると、何者かの会話が突然耳に入り込んできた。
「そろそろ太陽が昇る時間ですし、目的の令嬢はそろそろおいでになりますかね」
「ああ、そうだな。乗せるまでは怪しまれるような行動は絶対にするなよ。昨日は失敗したからな。もう後はない。これで失敗したら、俺達全員消されるぞ」
オリヴィアは物騒な会話を聞いてしまうと、慌てて口元を手で塞いでゆっくりと前を向いたまま後退していった。
(うそ……。今話していた令嬢って、わたしのこと……?)
この状況から考えてそうとしか思えない。
昨日のことがあまりにもショックで忘れていたが、オリヴィアの誘拐計画が行われようとしていたことを今になって思い出した。
恐怖のあまりオリヴィアの体は震えて、足も竦んでしまい少しづつしか動くことが出来ない。
せめてもの救いは、闇に紛れて姿を隠せていることだ。
しかし早く戻らなくては、オリヴィアがここにいることがあの男達に気付かれてしまう。
(怖い……、もういや、だれか、助けて……)
オリヴィアは心の中で必死に助けを呼ぼうとしていた。
今は声を出すことさえ叶わないし、音を少しでも立ててしまえば直ぐに見つかってしまうだろう。
しかし後ろ向きに歩いていたことも有り、軸が傾き体が斜めに蹌踉めいた。
「きゃっ……」
オリヴィアは転びそうになり、その瞬間僅かに声を上げてしまった。
「……誰か、いるのか?」
「まさか、……ブリーゲル公爵令嬢様ですか?」
転ばすには済んだが、男達にオリヴィアの声は届いてしまったようだ。
二人は機嫌を取るような優しい声を出しながら、オリヴィアのことを探すように、こちらへと近づいて来る。
彼女の足は恐怖から完全に竦み、その場から動くことが出来なくなっていた。
(うそ……足が、動かない。どうして……。いや、来ないでっ!!)
「にゃー」
そんな時、庭の方から猫の鳴き声が響いた。
「なんだ、猫かよ。驚かせるなよ」
「そう言えば王妃様は猫を数匹飼っているって聞いたことがあったな」
男達は先程の声は猫のものだと勘違いしてくれたようで、馬車の方へと戻っていった。
しかしオリヴィアの足は固まっていて、その場から動くことが出来ない。
この場にいれば遅かれ早かれあの二人に存在が見つかってしまうため、なんの解決にもなっていない。
そんな時、どこからか私の名前を呼ぶような声が聞こえた気がした。
『リヴィ、聞こえているか? 近づくけど、声は出さないでくれ』
(え……?)
僅かに聞こえて来る声は良く聞き取れなかったが、知っている者の声質に似ているような気がした。
(ジーク、さま……?)
『リヴィ、こちらに来れるか? あの者達に見つからないように』
声のする方向に視線を向けると、闇の中にジークヴァルトの姿は確かにあった。
オリヴィアは泣きそうな顔で、顔を横に振った。
彼に会いたくないからではなく、足が動かないことを必死に伝えようとしていたのだ。
たしかに昨日までは彼に会いたくないと思っていたが、こんな状況なので今はそんなことよりも、この場から助け出して貰いたい気持ちでいっぱいだった。
『リヴィ……?』
オリヴィアは足を指さして、首を横に振る素振りを何度も繰り返していた。
声が出せない以上、身振りで気付いて貰うしか方法はない。
その間にも、闇は少しづつ薄くなっていく。
(ジーク様、足が動かないことにどうか気付いて……)
何度か繰り返した後、ジークヴァルトは漸く理解してくれたのか忍び足で彼女の元に近づいた。
『体を持ち上げるから、声は上げないでくれるか?』
その言葉にオリヴィアは小さく頷いた。
急にジークヴァルトとの距離が近くなり、こんな時だというのにドキドキしてしまう。
同じようなことを昨日体験したが、イヴァンに抱きかかえられた時とは明らかに何かが違っていた。
オリヴィアは昨日の時のように彼の首に掴まると、そのタイミングを見計らってジークヴァルトは彼女の体をふわっと持ち上げた。
浮遊する瞬間、一瞬声が漏れそうになったがそこは必死に耐えた。
『いい子だな。もう大丈夫だ』
彼は優しい表情を見せると、ゆっくりと部屋のある方向へと歩いて行った。
***
オリヴィアが連れて行かれたは部屋は、昨晩泊まっていた場所とは別のところだった。
応接間のようで、オリヴィアがいた部屋よりも随分と狭い。
そしてソファーの上には毛布のようなものが一枚置かれていた。
(もしかして、ジーク様は昨晩ここに泊まられたの……?)
「ここまで来れば安心だな。ゆっくりと体を下ろすから、まだ手は離すなよ」
「……はい」
ジークヴァルトはそう声をかけると、ゆっくりとソファーの上に彼女の体を下ろしていった。
「もう離しても構わない」
「……っ」
オリヴィアはそう言われても、彼の首に回した手を離そうとはしなかった。
それどころか、彼の体にぎゅっとしがみつくように掴まっている。
そして彼女の体は小さく揺れていた。
「……怖かったよな」
「うっ……、こわ、かった………。どうしてわたしばかり、こんな目に遭わなければならないんですかっ……」
オリヴィアは震えた声で答えると、そのまま泣き出してしまった。
彼はそんなオリヴィアのことを包み込むように抱きしめると、何度も「すまない」と謝り続けていた。
ジークヴァルトの腕の中はとても温かくて、オリヴィアに安心感を与えた。
ずっとこの腕の中に包まれていたいと彼女は強く思い、その気持ちから手を離すことは無かった。
その時、オリヴィアは思い知った。
今でもジークヴァルトに強い恋心を抱いているということに。
離れたくなくて、奪われたくなくて、縋るかのように彼の体に必死にしがみついていた。
例え彼が心変わりしたとしても、手放したくはなかったのだろう。
以前リーゼルに対して、恋心だけでは王太子妃は成り立たないと話したことを思い出した。
今更ではあるが、自分もそうだったのではないかと思えてきてしまう。
オリヴィアが今まで努力して来れたのは、全てジークヴァルトのためであり、根底には彼を慕う気持ちが強く存在していたからだ。
この気持ちが大きかったからこそ、今のオリヴィアがあるのだろう。
(やっぱり、ジーク様と離れるなんて嫌……)
それからオリヴィアが泣き止むまで、ジークヴァルトはずっと抱きしめていてくれた。
彼女が落ち着いたことに気付くと、ゆっくりと体を剥がしていく。
そして心配そうにオリヴィアの顔を覗き込み、真っ赤に腫れた目元に指を這わせていく。
「随分と腫れ上がっているな。冷やすか?」
「……大丈夫です」
「そうか。こんな風に沢山泣かせてしまったのは、恐らく私のせいなのだろうな。本当にごめん……」
彼は後悔を滲ませるような表情を浮かべると、オリヴィアに向けて深々と頭を下げた。
「顔を上げてください。わたしなら、大丈夫です」
オリヴィアは落ち着きを取り戻し、穏やかな声で答えた。
彼の前では大丈夫でなくても強がってしまうようだ。
それは今に始まったことではない。
それに気付いていたのか、ジークヴァルトは顔を上げると困ったような表情を浮かべていた。
「今は無理をする必要なんてない。私を愚か者だと罵ってくれても構わない。言いたいことがあるのならば、全て言ってくれ」
「……それなら一つだけ、宜しいでしょうか?」
言いたいことなら山のようにあるが、オリヴィアが知りたかったことは一つだけだった。
「ああ、構わない」
「わたしは今でもジーク様のことを、信じていていいのですよね?」
それは以前した質問と同じ言葉だった。
オリヴィアの言葉を聞いて、ジークヴァルトは僅かに目を細めた。
そしてまた直ぐには返事をくれなかった。
「ジーク様、答えてください」
「リヴィ……、私もリヴィに伝えなければならないことがある」
ジークヴァルトはオリヴィアの言葉には応えず、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめながら静かに言った。
何か分からなかったが、オリヴィアは胸騒ぎを感じていた。
「私の質問に答えてくださいっ!」
嫌な予感がして、オリヴィアは声を荒げるようにして繰り返した。
「リヴィ、聞いて欲しい」
「いや、聞きたくないっ……」
彼女は表情を歪めると、耳を自身の手で塞いだ。
しかしジークヴァルトは困ったような表情を浮かべると、彼女の手を引き剥がした。
そして再び塞がないようにと手を握った。
「リヴィ、聞いてくれ」
「……っ」
オリヴィアが泣きそうな表情を見せると、彼の顔も僅かに歪み苦しげな表情を浮かばせた。
こんな顔をしているくらいだから、きっと良い話ではないのだろう。
「悔しいが、今の私の力ではリヴィのことを守ることが出来ない……。だから、婚約を白紙に戻そう。そうすればもうリヴィが襲われる事はないかと思う」
オリヴィアは目を丸くさせ、驚いたような顔を見せていた。
しかしその表情はすぐにぐちゃぐちゃに歪み、彼女の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。
オリヴィアは握られている手を力づくで引き剥がすと、反発する様に彼の胸を拳で何度も叩いた。
彼女の手は震えているので、全然痛みなど与えることは出来ていないのだろう。
それでもオリヴィアは続けた。
絶対に受け入れたくなかったから。
「いや……、それだけは、絶対に……いや……」
オリヴィアは泣きながら、縋るように必死に声を上げ続けてた。
彼女にとって、ジークヴァルトと離れることが何よりも辛いことだったからだ。
ここで受け入れてしまえば、絶対に後悔するとオリヴィアは分かっていたのだろう。
「私だって、リヴィと離れるなんて考えたくはない。だけど、お前を守るためには他に方法が……」
先程の御者のことといい、まだオリヴィアを付け狙っている人間が近くに潜んでいることは確かのようだ。
そして今回は危ういところで食い止められたが、次回も同じように止められるかは分からない。
ジークヴァルトは恐らくそのように感じているのだろう。
オリヴィアもその事が分かっているからこそ、余計に辛かった。
あんな怖い目になんて二度と遭いたくはないし、ジークヴァルトとも離れたくない。
「ジーク様の考えを……聞かせて、ください」
オリヴィアは涙を自身の指で拭うと、昂ぶった感情を抑えて言葉を繋げた。
そして逃げないように、彼の掌をぎゅっと強く握りしめた。
(あんな卑怯なことをする者達になんて負けたくない。そんなことで、わたしの今までの努力を……、想いを絶対に無駄になんてさせない……)
昨日まではあんなにも弱気だったはずなのに、彼の顔を見ているとそんな気持ちが強まっていく。
やはりオリヴィアにとって、ジークヴァルトの存在は大きいようだ。
「……わかった」
彼女の強い意志を感じ取ったのか、ジークヴァルトはオリヴィアの言葉を受け入れてくれた。
「元々リヴィには全て話すつもりでいたからな。私の話を聞いてくれるか? 今更言い訳のようになってしまうかもしれないが……」
「構いません。全て聞かせてください」
ベッドから抜け出して洗面台の前に立つと、鏡の奥には酷い顔をした自分の姿が映し出されていた。
それを見てオリヴィアは思わず苦笑した。
昨日起こった出来事は、紛れもない現実なのだと突き付けられているような気分だった。
「酷い顔……。とりあえず支度を済ませて邸に戻らないと」
皮肉なことに、今日もこのドレスを着たまま帰らなくてはならない。
本当は今すぐにでも別の召し物に着替えてしまいたいが、他に代用品がないのだから我慢するしかなかった。
オリヴィアは準備を終えると部屋から出て、廊下を歩いて行く。
本当は世話になった王妃に挨拶をしてから行くべきなのだろうが、わざわざ起こすのも申し訳ないと思い、今日は会わないまま帰ることにした。
馬車は待機して貰っているので、乗り場にさえ辿り着けば後は邸まで送ってくれるはずだ。
(こんなに朝早くに起きるのは初めてかもしれないわ。というか、完全に明け方前よね)
外は薄暗く、まだ太陽の光が隠れているような時間だ。
皆寝静まっているのか、外は静寂に包まれている。
この時間ならば、誰の目にも付くことなく帰れるはずだ。
離宮の出口が見え始めると、傍に一台の馬車が待機してあった。
恐らく王妃が用意してくれたものなのだろう。
(あれね……。本当に王妃様には感謝しかないわ……。帰ったらお礼の手紙を早速書こう)
そんなことを思いながら馬車に近づこうとすると、何者かの会話が突然耳に入り込んできた。
「そろそろ太陽が昇る時間ですし、目的の令嬢はそろそろおいでになりますかね」
「ああ、そうだな。乗せるまでは怪しまれるような行動は絶対にするなよ。昨日は失敗したからな。もう後はない。これで失敗したら、俺達全員消されるぞ」
オリヴィアは物騒な会話を聞いてしまうと、慌てて口元を手で塞いでゆっくりと前を向いたまま後退していった。
(うそ……。今話していた令嬢って、わたしのこと……?)
この状況から考えてそうとしか思えない。
昨日のことがあまりにもショックで忘れていたが、オリヴィアの誘拐計画が行われようとしていたことを今になって思い出した。
恐怖のあまりオリヴィアの体は震えて、足も竦んでしまい少しづつしか動くことが出来ない。
せめてもの救いは、闇に紛れて姿を隠せていることだ。
しかし早く戻らなくては、オリヴィアがここにいることがあの男達に気付かれてしまう。
(怖い……、もういや、だれか、助けて……)
オリヴィアは心の中で必死に助けを呼ぼうとしていた。
今は声を出すことさえ叶わないし、音を少しでも立ててしまえば直ぐに見つかってしまうだろう。
しかし後ろ向きに歩いていたことも有り、軸が傾き体が斜めに蹌踉めいた。
「きゃっ……」
オリヴィアは転びそうになり、その瞬間僅かに声を上げてしまった。
「……誰か、いるのか?」
「まさか、……ブリーゲル公爵令嬢様ですか?」
転ばすには済んだが、男達にオリヴィアの声は届いてしまったようだ。
二人は機嫌を取るような優しい声を出しながら、オリヴィアのことを探すように、こちらへと近づいて来る。
彼女の足は恐怖から完全に竦み、その場から動くことが出来なくなっていた。
(うそ……足が、動かない。どうして……。いや、来ないでっ!!)
「にゃー」
そんな時、庭の方から猫の鳴き声が響いた。
「なんだ、猫かよ。驚かせるなよ」
「そう言えば王妃様は猫を数匹飼っているって聞いたことがあったな」
男達は先程の声は猫のものだと勘違いしてくれたようで、馬車の方へと戻っていった。
しかしオリヴィアの足は固まっていて、その場から動くことが出来ない。
この場にいれば遅かれ早かれあの二人に存在が見つかってしまうため、なんの解決にもなっていない。
そんな時、どこからか私の名前を呼ぶような声が聞こえた気がした。
『リヴィ、聞こえているか? 近づくけど、声は出さないでくれ』
(え……?)
僅かに聞こえて来る声は良く聞き取れなかったが、知っている者の声質に似ているような気がした。
(ジーク、さま……?)
『リヴィ、こちらに来れるか? あの者達に見つからないように』
声のする方向に視線を向けると、闇の中にジークヴァルトの姿は確かにあった。
オリヴィアは泣きそうな顔で、顔を横に振った。
彼に会いたくないからではなく、足が動かないことを必死に伝えようとしていたのだ。
たしかに昨日までは彼に会いたくないと思っていたが、こんな状況なので今はそんなことよりも、この場から助け出して貰いたい気持ちでいっぱいだった。
『リヴィ……?』
オリヴィアは足を指さして、首を横に振る素振りを何度も繰り返していた。
声が出せない以上、身振りで気付いて貰うしか方法はない。
その間にも、闇は少しづつ薄くなっていく。
(ジーク様、足が動かないことにどうか気付いて……)
何度か繰り返した後、ジークヴァルトは漸く理解してくれたのか忍び足で彼女の元に近づいた。
『体を持ち上げるから、声は上げないでくれるか?』
その言葉にオリヴィアは小さく頷いた。
急にジークヴァルトとの距離が近くなり、こんな時だというのにドキドキしてしまう。
同じようなことを昨日体験したが、イヴァンに抱きかかえられた時とは明らかに何かが違っていた。
オリヴィアは昨日の時のように彼の首に掴まると、そのタイミングを見計らってジークヴァルトは彼女の体をふわっと持ち上げた。
浮遊する瞬間、一瞬声が漏れそうになったがそこは必死に耐えた。
『いい子だな。もう大丈夫だ』
彼は優しい表情を見せると、ゆっくりと部屋のある方向へと歩いて行った。
***
オリヴィアが連れて行かれたは部屋は、昨晩泊まっていた場所とは別のところだった。
応接間のようで、オリヴィアがいた部屋よりも随分と狭い。
そしてソファーの上には毛布のようなものが一枚置かれていた。
(もしかして、ジーク様は昨晩ここに泊まられたの……?)
「ここまで来れば安心だな。ゆっくりと体を下ろすから、まだ手は離すなよ」
「……はい」
ジークヴァルトはそう声をかけると、ゆっくりとソファーの上に彼女の体を下ろしていった。
「もう離しても構わない」
「……っ」
オリヴィアはそう言われても、彼の首に回した手を離そうとはしなかった。
それどころか、彼の体にぎゅっとしがみつくように掴まっている。
そして彼女の体は小さく揺れていた。
「……怖かったよな」
「うっ……、こわ、かった………。どうしてわたしばかり、こんな目に遭わなければならないんですかっ……」
オリヴィアは震えた声で答えると、そのまま泣き出してしまった。
彼はそんなオリヴィアのことを包み込むように抱きしめると、何度も「すまない」と謝り続けていた。
ジークヴァルトの腕の中はとても温かくて、オリヴィアに安心感を与えた。
ずっとこの腕の中に包まれていたいと彼女は強く思い、その気持ちから手を離すことは無かった。
その時、オリヴィアは思い知った。
今でもジークヴァルトに強い恋心を抱いているということに。
離れたくなくて、奪われたくなくて、縋るかのように彼の体に必死にしがみついていた。
例え彼が心変わりしたとしても、手放したくはなかったのだろう。
以前リーゼルに対して、恋心だけでは王太子妃は成り立たないと話したことを思い出した。
今更ではあるが、自分もそうだったのではないかと思えてきてしまう。
オリヴィアが今まで努力して来れたのは、全てジークヴァルトのためであり、根底には彼を慕う気持ちが強く存在していたからだ。
この気持ちが大きかったからこそ、今のオリヴィアがあるのだろう。
(やっぱり、ジーク様と離れるなんて嫌……)
それからオリヴィアが泣き止むまで、ジークヴァルトはずっと抱きしめていてくれた。
彼女が落ち着いたことに気付くと、ゆっくりと体を剥がしていく。
そして心配そうにオリヴィアの顔を覗き込み、真っ赤に腫れた目元に指を這わせていく。
「随分と腫れ上がっているな。冷やすか?」
「……大丈夫です」
「そうか。こんな風に沢山泣かせてしまったのは、恐らく私のせいなのだろうな。本当にごめん……」
彼は後悔を滲ませるような表情を浮かべると、オリヴィアに向けて深々と頭を下げた。
「顔を上げてください。わたしなら、大丈夫です」
オリヴィアは落ち着きを取り戻し、穏やかな声で答えた。
彼の前では大丈夫でなくても強がってしまうようだ。
それは今に始まったことではない。
それに気付いていたのか、ジークヴァルトは顔を上げると困ったような表情を浮かべていた。
「今は無理をする必要なんてない。私を愚か者だと罵ってくれても構わない。言いたいことがあるのならば、全て言ってくれ」
「……それなら一つだけ、宜しいでしょうか?」
言いたいことなら山のようにあるが、オリヴィアが知りたかったことは一つだけだった。
「ああ、構わない」
「わたしは今でもジーク様のことを、信じていていいのですよね?」
それは以前した質問と同じ言葉だった。
オリヴィアの言葉を聞いて、ジークヴァルトは僅かに目を細めた。
そしてまた直ぐには返事をくれなかった。
「ジーク様、答えてください」
「リヴィ……、私もリヴィに伝えなければならないことがある」
ジークヴァルトはオリヴィアの言葉には応えず、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめながら静かに言った。
何か分からなかったが、オリヴィアは胸騒ぎを感じていた。
「私の質問に答えてくださいっ!」
嫌な予感がして、オリヴィアは声を荒げるようにして繰り返した。
「リヴィ、聞いて欲しい」
「いや、聞きたくないっ……」
彼女は表情を歪めると、耳を自身の手で塞いだ。
しかしジークヴァルトは困ったような表情を浮かべると、彼女の手を引き剥がした。
そして再び塞がないようにと手を握った。
「リヴィ、聞いてくれ」
「……っ」
オリヴィアが泣きそうな表情を見せると、彼の顔も僅かに歪み苦しげな表情を浮かばせた。
こんな顔をしているくらいだから、きっと良い話ではないのだろう。
「悔しいが、今の私の力ではリヴィのことを守ることが出来ない……。だから、婚約を白紙に戻そう。そうすればもうリヴィが襲われる事はないかと思う」
オリヴィアは目を丸くさせ、驚いたような顔を見せていた。
しかしその表情はすぐにぐちゃぐちゃに歪み、彼女の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。
オリヴィアは握られている手を力づくで引き剥がすと、反発する様に彼の胸を拳で何度も叩いた。
彼女の手は震えているので、全然痛みなど与えることは出来ていないのだろう。
それでもオリヴィアは続けた。
絶対に受け入れたくなかったから。
「いや……、それだけは、絶対に……いや……」
オリヴィアは泣きながら、縋るように必死に声を上げ続けてた。
彼女にとって、ジークヴァルトと離れることが何よりも辛いことだったからだ。
ここで受け入れてしまえば、絶対に後悔するとオリヴィアは分かっていたのだろう。
「私だって、リヴィと離れるなんて考えたくはない。だけど、お前を守るためには他に方法が……」
先程の御者のことといい、まだオリヴィアを付け狙っている人間が近くに潜んでいることは確かのようだ。
そして今回は危ういところで食い止められたが、次回も同じように止められるかは分からない。
ジークヴァルトは恐らくそのように感じているのだろう。
オリヴィアもその事が分かっているからこそ、余計に辛かった。
あんな怖い目になんて二度と遭いたくはないし、ジークヴァルトとも離れたくない。
「ジーク様の考えを……聞かせて、ください」
オリヴィアは涙を自身の指で拭うと、昂ぶった感情を抑えて言葉を繋げた。
そして逃げないように、彼の掌をぎゅっと強く握りしめた。
(あんな卑怯なことをする者達になんて負けたくない。そんなことで、わたしの今までの努力を……、想いを絶対に無駄になんてさせない……)
昨日まではあんなにも弱気だったはずなのに、彼の顔を見ているとそんな気持ちが強まっていく。
やはりオリヴィアにとって、ジークヴァルトの存在は大きいようだ。
「……わかった」
彼女の強い意志を感じ取ったのか、ジークヴァルトはオリヴィアの言葉を受け入れてくれた。
「元々リヴィには全て話すつもりでいたからな。私の話を聞いてくれるか? 今更言い訳のようになってしまうかもしれないが……」
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