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第二章 【過去編】イザベル・ランドール

心地よい響き

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「どうせ夏になったらバレちゃうしね」

 自嘲めいた声がユリウスの口から漏れた。

「…………階段から落ちたの?」

 現実と向き合いたくなくて。イザベルは頓珍漢なことを言う。ユリウスはそれには答えず、無言で右腕も晒した。

「右腕も、背中も……同じだよ」

(そんな)

 性別によって傷への許容範囲は変わってくる。女の子はけっして傷を作ってはいけない。作ったとしても、顔や腕は論外だ。ぎりぎり許されるか許されないかの境目は半袖でも隠れる腹部のみ。
 男の子は女の子と違って基準がとても緩く、多少の傷ならどこに作っても許される。何なら傷があることで逆に受けが良くなったりする。

 しかし、この傷の量では流石に当てはまらない。

「今も痛む?」
「…………雨の日とかは、特にね」

 どう反応すれば最適なのか分からず、イザベルは当たり障りない質問を投げかけ続ける。

「刺すように痛いの?」 
「……ううん、鋭くはない、かな」
「これは切り傷?」
「たぶん……もう覚えて、ないや」

 説明するユリウスの瞳は異様に凪いでいて淡々としていた。諦念にも似た感情のこもっていない声だ。

「イザベルは……これを見て引く……? 傷だらけはきもちわるい?」
「ありえないわ。引くわけない」

 強く否定した。

「ここではもう、こんな怪我や傷を負わなくていい」

(誰も傷つける人はいないもの)

 使用人達は皆、優しいし、イザークも暴力や虐待を許さない。例え忌避したくなるような奇妙な顔をしていても。それだけで避けたり陰口を叩く使用人は速攻解雇だ。

「……そっか。そうだといいな」

 ユリウスはほんの少しだけ口元を弛めた。微かに強ばってはいたが、ここに来て初めて笑顔の片鱗が見えた。自然な表情に不覚にもドキンっとしてしまう。

 イザベルはそんな心を隠すように目を背けると隣に置いてあった瓶が目に止まった。

「これ、塗り薬?」

 蓋を開けると軟膏独特のツンっとした匂いが鼻につく。

「うん、一日三回体に塗ってくださいってシリル先生……? から渡されたやつ」
「へえ、もう塗ったの?」
「まだだよ」
「じゃあ私が塗ってあげる!」

 薬が服につかぬよう自身の袖をまくり、意気揚々とイザベルは宣言した。

(一緒に過ごしていくためには、まず仲良しにならないと!)

 同性ならお人形遊びやおままごとをして仲を深めればいいが、あいにくユリウスは男の子である。イザベルに木剣などを振り回すような男の子の遊びは出来ない。

 だからこういうところから距離を縮めていくのが良いと思ったのだった。

「腕はまだしも、背中は一人じゃ塗れないでしょ?」

 さもありそうな理由を述べれば、ユリウスはイザベルの圧に押されていく。
 
「……でも」
「いいわよね?」
「……うん」

 結局ユリウスが観念した。イザベルは下手な鼻歌を歌いながら容器の中の軟膏をたっぷり手につけた。

「手、ここに置いて伸ばして」

 言われた通りユリウスが手を伸ばし、その表面に薄く軟膏を塗っていく。その最中、仲良くなる一歩として愛称で呼び合うのがいいだろうと考えたイザベルはユリウスに尋ねた。

「わたしには〝ベル〟っていう愛称があるの。今度からわたしのことはベルでいいわ。ユリウスにも何かある?」

 しかし彼は静かに首を横に振った。

「僕にはユリウスしかないよ。だからベルが決めて」

 さらりと投げてよこすから。イザベルは小さな頭を懸命に働かせる羽目になってしまう。塗る手は止めず、ウンウン唸りながら難しい顔をしていた。 

 最終的にいいなと思う愛称を思いついた時には、彼の背中まで塗り終わってしまった。彼はめくった袖のボタンをきちんと留めて、イザベルを待っている。

 いつの間にかイザーク達は別室で話し合っているようで、二人っきりの部屋はとても静かだった。

「よーし、決めたわ! 『ユース』はどう?」

 あいだを伸ばす呼び方だ。「ユス」でもいいけれど、「ユース」の方が何だかしっくり来た。

「僕の……愛称」
「ええ、あなたの呼び方。気に入らないなんてそんな酷いこと言わないでね。とっても悩んで決めたんだから」

 これでこの呼び方は嫌いだ。なんて言われた暁には一日中凹んでしまう。

「……気に入らない……」
「え?」

 返す語気が強くなる。今やめてと言ったばかりなのに、ユリウスはイザベルの話を聞いていなかったのだろうか。

「……そんなこと絶対に思わないよ。この呼び名は僕のもの」

 大切そうに。宝物をもらったかのように。

「僕の愛称なんだよね?」
「……そのつもりだけど」
「一回呼んで欲しい」
「──ユース」
「もう一回」
「ユース」

 その後もイザベルはせがまれ続けた。干からびていた大地に水が染み込んでいくように、ユリウスは嬉しそうにイザベルが紡ぐ己の愛称に耳を傾けていたのだった。

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