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time.28

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「…ここ?」

立っていられずにしゃがみこんだ私の後ろから、風を縫って優しい声が届いた。

近づく気配。迫る足音。差し出された手。

「…手、つないでやろうか」

涙の膜の向こうに千晃くんがいる。

時間が戻ったのかと思った。
千晃くんがそこにいて、私を呼んで、救いの手を差し伸べている。

「…千晃くん」

千晃くんの滑らかな手に触れて力強い腕に引き寄せられて、
ほのかな石鹸の匂いがする胸の中に包み込まれた。

「…大丈夫」

千晃くんの甘い声が頭上から降り注ぎ、身体を巡って落ち着きをもたらす。

どうか神様。
時間を止めて。

何万回願っただろう。

願いが叶って、時間が止まったのかと思った。
奇跡が起きて、千晃くんが戻ってきてくれたのかと思った。

目をつむる。

耳を鳴らす強い風もすくみ上る高さの外階段も、もう怖くない。

「…ここ」

千晃くんに抱えられながら、外階段から7階フロアに戻った。

「ここ、って言うんだね」

敷き詰められた絨毯。皮の匂い。
一面ガラス張りの窓から降り注ぐのどかな日差し。

(株)トイ・プードル本社7階。役員執務室階。

「あ、…はい」

現実に戻った。
願いは叶わないし、奇跡も起きない。
千晃くんが私の名前を認識しただけだった。

「高いところ、ダメなの?」

千晃くんは私が落ち着くのを待って、まだ手をつないでくれていた。

「…はい」
「そ、っか」

千晃くんが私の手の甲を親指でそっと撫でた。

「…ここ」

目を上げると、千晃くんの澄んだ瞳が揺れていた。

「俺、時々、どうしようもなく、…」

ゆらゆら揺れる瞳に、私が映っていた。
そのきれいな瞳は、私だけを映していた。

「…焦る」

焦る?

千晃くんがふっと自嘲するような声を漏らした。

「ごめん。変なこと言って」

千晃くんが私から瞳をそらして、寂しそうな笑みを浮かべた。

「もし、必要な時があったら連絡して」

千晃くんの手のぬくもりが離れて、代わりにメモを握らされた。

「くれぐれも、気を付けて」

何か言うよりも早く、フロアに可愛らしい高音が響いた。

「千晃くんっ。ここにいたんだ! パパがお昼一緒に食べようって」

こっちをうかがうように見ている心菜さんの視線に射られて、心臓が不規則に脈打つ。

なんだか、いけないことをしていたような罪悪感に駆られた。

「ああ、うん、心菜ちゃん。今行く」

千晃くんは心菜さんに向き直り、私から離れていった。

…心菜、ちゃん。

2人寄り添って役員室に消えていく。
部屋に入る前に、一度、千晃くんと視線が交差した。

千晃くんの寂しそうな笑みが頭に焼き付いて離れない。

願いは叶わないし、奇跡も起きない。
幻かもしれない。だけど。

もしかして。
もしかしたら。

千晃くんの記憶の片隅に、ほんのほんの少しだけ。
私が残っているのかな。
そんなこと、あるわけない、かな。

握っていた手を開くと、メモに電話番号が記されていた。

変わってない。

そう思って、そんな自分が悲しかった。

千晃くんの番号を目と指が覚えている。
忘れたくて忘れたくて連絡先からは消したけど、
頭からも心からも消えていない。
全然、忘れられてない。

千晃くん。
必要な時、っていつ?
焦る、ってなに?

聞きたいけど、聞けない。

涙が出るほど懐かしい千晃くんの筆跡を握りしめた。
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