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time.29

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記憶障害について、一時期必死で調べた。
脳震盪、逆向性健忘、若年性認知症、記憶喪失、…

でも、結局のところよくわからなかった。

千晃くんの症状について、何も知らなかったこともあるけれど、
千晃くんが日常生活に困難を感じているようには見えなかったこともある。

千晃くんにとって、なくした記憶は最初からなかったもので、
無理に思い出させることのほうがよっぽど苦痛を感じそうだった。

千晃くんが海外の大学に留学することになって、
私の前から姿を消した時、
他のゼミ生と一緒に見送りに行った。

千晃くんは爽やかな笑顔で手を振っていた。

千晃くんにとって。
今日会ったばかりの人も、心ごと抱きしめてくれた私も、
同じなんだと思った。

「ここちゃん、大丈夫? ずっとぼんやりしてるけど」
「まりな先輩、そんなの今更ですよ」

両隣からの声にはっと現実に立ち返った。

そうだ。
これが周囲の評価につながるんじゃん。

「まりな先輩、香恋ちゃん。今日の私は一味違いますから、何でも要件言いつけて下さい」

佐倉ここ。やればできる子っ!

胸を張ったら、前方からシュート先輩の声と共に、大きな段ボール箱がどーんと机上に届けられた。

「よく言った、佐倉。この段ボールの資料、仕分けして倉庫に入れといて。俺これから担当先回ってくるから」

え、…。

シュート先輩がすっきりさっぱりみたいな感じで颯爽とフロアを出ていく。

え―――っっ‼

愕然と段ボール箱を眺めている私の横を、

「じゃあ、私はこれから新人研修合宿の打ち合わせなんでぇ。高野チーフ、行きましょう~~~」

香恋ちゃんが軽やかにすり抜けて、高野チーフと連れ立って行ってしまった。

「あ、…ええっと、…」

まりな先輩はちょっと困ったみたいに笑って、

「はい。飴あげる」

はちみつキャンディを差し出した。

…はちみつキャンディ。沁みる。

シュート先輩の資料を片付けて、自分の報告書も書き終わったのは、やっぱり定時をだいぶ過ぎてからだった。

シュート先輩は出先から直帰だし、まりな先輩ももういない。
フロアは人影もまばらになっている。

なのに。

高野チーフと香恋ちゃんはまだ打ち合わせから帰ってこない。
っていうか、打ち合わせって何?
いつまでかかるの?

そんな長時間一体何する必要があるんだし⁉

どうにもイライラが募り、無性に気になって仕方がないので、帰ることにした。

『そんな、寂しがるな』

高野チーフのバカ。

『今日は抱いて寝てやるから』

思わせぶりなこと言っちゃって。

イライラしながら買い物をしたら、知らず知らず、玉ねぎと人参と卵を買っていた。

『お前の『あい』のオムライス以上に価値があるとは思えない』

いいよ、もう。
今日もオムライスだから。
今日は最初からちゃんと「あい」って書くから。

そう思ったら、少しだけ落ち着いて、自宅アパートへ向かう足取りが軽くなった。

もはや「LOVE」って書いたら、どうだろう。

自分で想像して、自分の顔が赤くなったのがわかった。

いやいや、そんな。そんなそんな。
LOVEじゃない。LOVEではない。だって日本人だから。

買い物袋を振り回しながらアパートに入ろうとすると、

「ここちゃん、待ってたよっ‼」

建物の陰から突如現れたひょろりとした人影に両腕をつかまれて、思わず悲鳴を上げてしまった。
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