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嬉しいのか悲しいのかわからない。

「ふ、ふざけるなよっ、あばずれがっ!!」

緑川さんが怒りの捨て台詞を吐いてその場を立ち去るまで、
ずっと千晃くんの柔らかくて甘い唇が触れていた。

忘れたくて忘れられなくて。
何度も何度も夢に見た。

感触も温かさも、甘さも触れ方も、
全部覚えてる。

千晃くんの吐息。耳の後ろを撫でる指。
伏せた長いまつ毛。辿るように触れる唇。

私は全部覚えてる。
あの頃と同じ優しいキス。

大好きな千晃くんのキス。

だけど。

「…行ったよ」

優しい千晃くんの唇が離れた。

千晃くんは、私のことを思い出したわけじゃない。
彼氏のフリをして、ストーカー気質の勘違い男性から助けてくれただけ。

つまり。

単なる人助けで、
このキスは千晃くんにとって大したことじゃない。

ていうか。

意味はない。

「どうも、ありが、…」

お礼を言おうとしたら、不意に涙が零れ落ちた。

千晃くんだけど、千晃くんじゃない。

「…ここ?」

千晃くんが心配そうにのぞき込んでくるから、慌てて首を横に振る。

「や、…安心したら、急に、…」

口調が言い訳がましくなって、涙が次々溢れ出る。

そんな簡単に好きって言わないで。
そんな簡単にキスしないで。

千晃くんにとっては無意味でも。
私にとっては、…

千晃くんを見れなくて、視線を逸らせたら、その先に高野チーフの姿が見えた。

「あ、…」

肩で息をしている。髪が乱れている。
会社帰りの姿のまま。
急いで来てくれたみたいに。

湿り気のある一陣の風が夜の雑踏の中を吹き抜けた。

声を上げた私の視線を追って、千晃くんも降り向く。

視線が絡み合う。

沈黙は、にこやかなチーフの声で破られた。

「ああ、…どうも」

高野チーフは、何事もなかったかのように当たり障りのない挨拶をして、私と千晃くんの脇を通り過ぎた。

「…こんばんは」

千晃くんが返した律儀な声が、耳をすり抜けていく。

暮れ落ちた街の向こうに、チーフの背中が遠ざかる。

闇に伸びる人影。通りを横切る自転車。
点滅する信号機。
シャッターを閉める店舗。

瞬く間に、チーフの姿が離れて行く。

待って。

涙を拭って、千晃くんに向き直った。

いろいろ頭がぐちゃぐちゃだけど。

「助けてくれてありがとう!」

とりあえず、千晃くんに頭を下げて、駆け出した。
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