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time.93

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「少しだけ、寄り道してもいい?」

ゆっくり歩きながら空を見上げていた千晃くんが、静かに足を止める。

街灯に照らされた樹木。眩しいビル明かり。
交差するヘッドライト。色とりどりののぼり旗。
湿った夜の空気。夜に溶けそうな千晃くんの声。

「…うん」

頷くと、千晃くんは私の手を引いて、表通りに向き直り、
手を上げてタクシーを停めた。

千晃くんが運転手さんに何事か告げると、タクシーは夜の街を滑るように走り出した。

対向車のライトに照らされて、千晃くんのきれいな横顔が夜に浮かぶ。
泣きたくなるほどきれいで、言葉が出ない。

ただ、手をつないでいた。

言葉よりも雄弁に体温が語る。
気持ちが一つに混ざり合う。

千晃くんがそっと私の頭を引き寄せて、肩口にもたれかからせてくれた。

千晃くんの匂いがする。
爽やかな。ほのかな。石鹸のような。
千晃くんの鼓動が聞こえる。
かすかに。だけど強く。優しく。

忘れないように。
失くさないように。

五感のすべてで千晃くんを想った。

タクシーはいつの間にか高速道路を降り、
見慣れない街を走っていた。

山道をぐんぐん登っていく頃には、
結構な寄り道のような気がしたけど、
時間の感覚はとっくになくなっていた。

だいぶ登った山道の先に小さな駐車スペースがあって、そこでタクシーが停まった。

千晃くんと一緒に車を降りると、外気が少しひんやりとしていて、一面真っ暗で何も見えなかった。

千晃くんのスマートフォンを懐中電灯にして、
真っ暗な林の中、石畳の道を歩いていくと、
突然、とても広く開けた場所に出た。

「…きれい」

山の向こうに光を散りばめたような夜景が見え、

「ここ。上見て」

言われて見上げた空には、満天の星が降っていた。

「…すごい」

無数に星が流れる宇宙の端っこに、千晃くんと2人ぼっちで立っている。

壮大で果てしなくて夢みたいで、無意識のうちに涙が出た。

「ここ」

頬に千晃くんの滑らかな手が触れる。
優しい指がそっと涙をぬぐう。

「…ありがとう」

千晃くんの甘くかすれた声が、静かに優しく心に満ちて、涙が止まらなくなった。

「もしもいつか、時間を超えられる未来が来たら、…」

千晃くんがささやいて、涙に濡れた私の頬に誓いのようなキスをした。

帰りのタクシーの中で、
傍らに千晃くんの温もりを感じながら、
しっかりと手をつないだまま、
いつしか泣き疲れて眠りに落ちていた。

そんなつもりはなかったのに、激動の一日に身体が限界を超えたらしい。

『…逢いにいく』

無数の星が降る丘の上で、千晃くんは確かにそう言った。

ゆらゆら揺れる意識の中で、その言葉を抱きしめていた。

夢と現実のはざまを漂いながら、身体全部で千晃くんを感じる。

千晃くんが滑らかな指で優しく私の髪を撫でて。
千晃くんが愛しさだけを浮かべた瞳で私を見ている。

何も知らずに千晃くんに溺れていた頃と、
同じ柔らかな吐息で。同じ潤んだ唇で。

あの頃よりも。もっとずっと。
甘やかな声で。愛しい温度で。

胸が痛くなるくらい、愛情のこもったまなざしで。

愛でる。慈しむ。
満ちる。溢れる。

『もしもいつか、時間を超えられる未来が来たら、逢いにいく』

千晃くんは約束をしない。
ずっと、も、将来、も、永遠、も存在しないって
分かっているから。

だから、千晃くんがくれた約束は。

「…愛してる」

千晃くんの心そのものだった。


「…行くのか?」
「お世話になりました」

ぼんやりと一枚膜がかかったような意識の向こうで、話し声が聞こえる。

「…いいのか?」
「俺は、また、…忘れてしまうから」

行かなきゃ。早く起きなきゃ。

焦りながら、夢の中では、
どんなに頑張っても手も足も動かなくて、声も出なくて、
膜の向こう側に進めない。

「お前、やっぱり記憶戻って、…」
「ここには、幸せでいてほしい」

夢だけど、夢じゃなくて。
目が覚める前から予感があった。

「あんたと一緒なら、きっと。どんな高いところからも飛べる」

重い瞼を無理やりに開けると、
チーフのマンションの部屋の中で寝かされていて、

千晃くんはもう、どこにもいなかった。
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