露包むランタン

奈月遥

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The distance to kiss

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 その日のらんは、一日の授業も終わり、友人と一緒に課題も仕上げてから余った時間でお喋りを楽しんでいた。
 もう大学でやることはないので、お喋りに満足したら帰るでもいいのだけれど、最近はその前にしんに連絡を取って都合が合えば二人の時間を少しでも作るのが日課だった。
「あ、嵐ちゃん、いた」
 しかし今日は連絡を取るでもなく、真に見つかった。
 金曜日のこの時間は、いつもこの教室にいるから、真もまずはここを覗いていなかったら連絡をしようというつもりだったのかもしれない。
「真先輩!」
 嵐は手を振って真を招く。
 真はその仕草に眦を下げて、ゆっくりと近付いてきた。
「ごめん、嵐ちゃんを連れていってもいいかな?」
 真はいつも、こうして一緒にいる友達に断りを入れる。それがとっても生真面目で、そんな礼儀正しいところも、嵐は大好きだった。
「もちろんですよー」
「ぐあ、今日はもうタイムリミットか。もうちょいで篠築しのつきに答え合わせしてもらえたのに」
「あとで私が見てやるよ。馬に蹴られて死にたかないだろ?」
「麻遊《まゆ》さんの言う通りだぞー。ぶっちゃけ、目の前でいちゃつかれてもいらつくだけだから、おとなしく見送っとけ」
「わぁってるよ」
 そして嵐を取り囲む友人達も、気前よく頼りの綱の知恵袋を差し出してくれるのだ。
 この牧歌的に平和なやり取りに嵐はいつだってにまにまと頬を緩めてしまう。
「ありがとう。嵐ちゃん、行こっか」
「はーい」
 嵐は真に手を取られて席から立ち上がり、そのまま二人連れ添って空き教室から出て行った。
 その背中を指笛で押されるのだけは、いつまで経ってもちっとも慣れなくて、嵐は恥ずかしさで俯き頬をほんのりと染める。
 ちなみに、腕を組んでいるところを以前にあずさに見られて、どんよりと暗い声で注意を受けてからは、学内では手を繋ぐまでに節度を保っている二人だった。主に行動を改めなければならなかったのは、嵐だけだけども。
「嵐ちゃん、ちょっと話したいことがあるんだ」
「め? なんです?」
「ん。誰もいないとこで話したいから」
 嵐は目を瞬かせながらも、真の手に従って付いていく。
 真は手近な空き教室を見付けて、そこに入る。
 備え付けになっている机の椅子を倒して横並びに二人は座る。それは当然狭くて、向き合うと自然に体がぴとっと触れ合うのを、嵐はひそかに楽しんでいる。
 嵐のなめらかな手は真に握られたままで、さらに真は反対の手も嵐の手に被せる。
 なんだろう、と嵐は真の二つの手に包まれた自分の手を見て、なんとなく、ぱん、と音を鳴らして自分の空いてた方の手も真の手の上に乗せてみた。
 二人の四つの手がミルフィーユみたいに重なって、じんわりと掌与たなたえ合っている。
 もう随分と気温も高くなっているから、すぐにじんわりと火食ほばんで汗の湿り気がみんな一つに溶かしてしまっているようにも思えた。
 なんとなくそれが幸せで、嵐は無邪気に笑い、一番上になった手のひらで、真の手の甲を擦る。
「嵐ちゃん、その、話をしてもいいかな?」
「めぅ! ごめんなさい」
 真は話しづらくて、口を開くタイミングを見失っていたらしい。
 嵐は慌てて、きりりと表情を引き締めて真の顔に視線を向けるけれど、そうして視界に真がいっぱいになると途端に胸が温まって、またふにゃと相貌を崩してしまう。
 真は始めの頃こそ、こんな嵐の態度に当てられて言葉も出せずにその愛らしさを愛でていたのだけれど、最近はようやく慣れてきたのか、しっかりと目に焼き付けながらも会話を途切れさせることはなくなった。
「嵐ちゃん、その、驚かせてしまうかもしれないけど、お願いがあるんだ」
「はい? なんでも言ってください」
 それは嵐の本心だった。真のお願いと聞いたら、なんでも叶えようと奮起する。
 そんな嵐の心情は勿論、真にも筒抜けなのだけれども、それでも真は言いにくそうに口元をむずがらせている。
 真は自分の心を落ち着けようとしているのか、軽く瞼を閉じて、一つ呼吸を置く。
「キス、してほしいんだ」
「……きす」
 重荷を降ろすように、真が告げた言葉を、嵐はそのまま繰り返す。
 真ん丸に見開かれた愛鏡まなかがみが、羞恥心で顔を背ける彼氏を映し出す。
「キスって、Kissですか」
「ああ、うん、口付けの意味ですね」
「接吻とも言いますね」
「はい、その通りです」
 真がおかしな声音の敬語で嵐の確認に応える。
 それでやっと、嵐も事態が飲み込めたのか、沸騰した血が顔まで昇ってきて湯気を吐いた。
「えっと、それは今ここでですか?」
 嵐は尻すぼみになって問いかけた。キスをするだなんて、付き合っている癖にこれっぽっちも想定していなくて、これだけ真がお膳立てをしても不意打ちにしかならなった。
「ううん、いや、今してもらえるなら、してほしいけど、そうじゃなくて、その、キスをしたいので、嵐ちゃんの気持ちの準備をしておいてほしいというか、そのいつキスするか打ち合わせたいというか」
 真は真で、まるで言い訳をするかのように早口でまくし立てた。
 嵐の恋愛偏差値がとてつもなく低いことなどとっくに覚っているので、こうして前振りをする決断をしたのだが、その癖に前振りで慌ててしまっているのは、嵐に引き摺られすぎなのではないだろうか。
 嵐は思いがけない情報をぶつけられて脳が飽和して、ふらふらと体を揺らす。
 狭い机の間の椅子に腰掛けて身を寄せ合っているから、嵐のなだらかな肩がぽすぽすと真にぶつかった。
「えっと、それはつまり、あたしが真先輩がキスしてもらう日にちと場所を決めればよいのでしょうか」
「はい、その通りでございます」
 キスの打ち合わせをするのも、そしてお互いに堅苦しい敬語でやり取りするのも、傍から見たらとてつもなくおかしな状況だ。
 まぁ、そんなことに当人達は気が回らないし、人目に付かないようにしたのでツッコんでくれる友人もいないしで、ぬるま湯のような空気のまま事態は進行していく。
 嵐は体の火照りを逃がそうと、ふー、ふー、と粗く蒸気でも混じっていそうな息を吐いた。
 それで幾分か、心が冷やされて、思考の靄が晴れていく。
 とりあえず、キスをするのはいい。むしろ、真とキスできるのは、嬉しいことのはずだ。
 それから、そのタイミングを自分が決めていいというのも、助かるはずだ。話に出るだけでこんなに慌てて気持ちが暴れ出すのだから、いきなりされたら気絶してたかもしれない。
 もしかしたら、真はそこまで見越して、こうしてまずは打ち合わせを設けてくれたのかもしれない。そうだとしたら、嬉しい。
 真はいつも人一倍の優しさで、恋愛ではもたもたと時間をかかってしまう嵐のペースを大切にしてくれた。だからきっと、この嬉しさは勘違いにしなくていいはずだ。
 と、ここまで思考した段階で、嵐の低速処理な脳の恋愛野はフリーズして、くたりと頭を真の胸に預けることになった。
「嵐ちゃん!? 大丈夫!?」
「だいじょばないかもしれないです……」
 嵐は弱々しく、日本語として明らかに間違った言葉をこぼす。
 目が回って転げ落ちそうな体を繫ぎ止めようと、真の体に腕を回して、その服が皺になるくらい強く、ぎゅっと指が掴む。
 真の大きな手が嵐の黒髪に触れて、頭の形に沿ってさらさらと撫でつけてくれる。
 こうして真にあやされていると、心が穏やかに癒されていくのを感じた。
「めぅぅ。真先輩、考える時間をくださいぃ」
 この場では結論付けられないと、早々に嵐はお情けをねだる。
 真はくすりと笑って、勿論、と大らかに頷いた。
「一日でも一週間でも一年でも、十年かかったとしても、ちゃんと待ってるから、安心して。あ、でも、十年かかると、さすがにちょっとさびしいかもね」
 そんなふうに、真はおどけて言ってくれた。
 嵐はそれが申し訳なくて、それに自分もそんなに長く我慢なんて出来なさそうなのも直感していた。
「十年もは、待たせないです。ぜったい」
「そっか。じゃあ、僕も待っていられそうだ」
 嵐は、本当に優しすぎるなぁ、って思いながら、ぐりぐりと頭を真のお腹に擦り付けた。
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