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大学から帰ってきた嵐は飛び付くようにして乱暴に玄関を開けた。
「あかりさーん!」
ただいまも言わずに同居人を呼んだら彼がどれほど渋い顔をして叱りつけるかも忘れて、嵐は勢いを殺さずに玄関に入る。
「めゃ!?」
そして玄関の段差につまずいて転んで倒れた。びたーん、と音が響くくらいに盛大に倒れた。
「いたいよぉぉお! あかりさーん! あかりさーん! あかりさぁん……」
嵐は起き上がる素振りも見せず胸を床に押しつぶして、それはもう悲哀と沈痛のにじんだ声で懸命に同居人を呼んだ。
しかし、嵐が転んだ音がしても、どれほど声を張り上げても一向に彼は姿を見せず、嵐の声も細々と尻すぼみになる。
もしかして、まだ帰って来てないのかもしれない。
そう思い至った時、嵐はぐしぐしと泣き始めた。
「あかりさん……いないの……いたいよぉ……あかりさんがいてくれないといやだよぉ」
悲痛な声がか弱く廊下に染み渡っていく。
勝手に転んだだけなのに、勝手に空気を淀ませる嵐の耳に、ガチャガチャと金属のうごめく音が届いた。
確認するまでもないが、それは玄関の鍵から零れている。
嵐は首だけを巡らせて振り返り、扉を見上げる。
「あのばか娘、鍵ちゃんとかけろって何回言わせたら気が済むんだ」
ぶつぶつとぼやきながら扉を開けたのは、嵐が待ち望んでやまない灯理だった。
「ん?」
「あかりさんっ!」
まだドアノブを手放していない灯理も、すぐに廊下に転がっている嵐を発見して、呆気に取られて動きを止め。
灯理が帰ってきたのを見た嵐は、体を起こしもせず、それはもう嬉しそうに瞳を輝かせた。
灯理がドアノブを手放すと、ゆっくりと軋みながら扉は閉まる。
嵐はその緩慢なドアの軌跡を視線で追った。
その気の抜けた顔を、パシャリと灯理がスマートフォンで撮影した。
「なんで今、写メ撮ったの!?」
「いや、あまりにも惨めに見えておもしろかったから、つい」
傍から見たら笑える格好でいるのを自覚していない嵐は、灯理の行動が脈絡なく思えて愕然としている。
灯理は悪びれてはいるものの、普通にスマートフォンをポケットにしまった。
「んでもって、そこに寝転がられてると邪魔なんだけど。なにやってんの、お前」
三和土に靴を履いたままの足を投げ出し腰から上が床を占領している嵐に、灯理は白い目を向けた。
しかし、嵐にとっては自分が起き上がるよりも大事な用事があった。
「あかりさん! 教えてほしいことがあります!」
ここ最近ではもう聞かなくなった丁寧な口調に、灯理の背筋に悪寒が走った。
灯理は自分の直感を信じ、踵を返して素早く玄関の扉を開けて体を滑り込ませ、外で出るのと同時に閉めた。
ガチャ、ガチャ、と二重施錠が外から掛けられる。
「なんで逃げますか!?」
飛び跳ねるように起きた嵐は、それまで床に這いつくばっていたのが嘘だったように、手早く鍵を内側から開けて、灯理の体に抱き着いて捕縛する。
「やめろ、はなせ! お前のみょうちきりんな恋愛事情に俺を巻き込むな!」
「そんなひどい! あかりさんしか頼れる人がいないんです、見捨てないで!」
夕忍び沈みゆく太陽から回折する光と外廊下に備えられたLEDの光が混じった暗がりに、嵐の柔らかな肢体に絡み付かれた灯理が必死に逃走を試みている。
だがしかし、本気で逃がすまいと力を籠める嵐と、さすがに女の子を手荒に扱って怪我はさせなされないと意識するでもなく力加減している灯理とで、絶妙に拮抗してしまっている。
「ままー、おにいちゃんとおねえちゃんがなかよしさんしているー」
「あら、ふふ、そうね。邪魔しないであげましょうね」
通りすがりの親子連れに指を差され微笑ましい目を向けられた二人は、ぴたりと動きを止めた。
「……嵐、とりあえず、部屋に入ろう」
「……そうですね」
やるせない気持ちをそれぞれの胸にしまいながら、二人はやっと帰宅の体裁を取ることができた。
「嵐、腹減った」
灯理はリビングに向かう途中で、先制して口を開いた。
それは今日の食事当番への役割の促しであり――あわよくば、料理で訊こうとしていることを忘れてくれという儚い牽制だった。
「め」
対して、嵐はそれはもう不機嫌そうに唇をとがらせた。灯理が話を流そうとしているのに気付いている。
日頃からあれだけ餌付けで言いように誘導されてる癖に、今日ばかりはしゃんとしている嵐の脳みそだった。
灯理はリビングに着くなり、ソファに体を沈めて、テレビの電源を入れた。
どの局も変わり映えのしないニュースを流している時間なので、チャンネルも変えずに見入っているふうを装う。
「めぅぅぅ」
嵐は未声で唸る。
さっきも逃げようとしたし、今も話を聞く気はないと態度に出すし、不満が溜まる一方だ。
嵐はこっちを見ようともしない灯理の背中を睨みつけてから、キッチンに向かう。
調理器具を取り出し、ガスコンロの火を点ける音を聞いて、灯理はほっと安心した。
嵐はまだ料理の手際がよくないから、小一時間も作業をしていれば自然と无言になってしまうだろうと灯理は見積もっている。
その検討が甘かったと知るのは、たった十五分足らずで食事の用意ができたと嵐に呼ばれた時だった。
「……こう来たか」
灯理はテーブルに並んだ献立にげんなりとした。
白いほかほかのご飯は普段から炊飯器のタイマーを使っているから、二人が帰宅した直後に炊きあがっていた。
嵐の実家から送ってもらった朴葉味噌は飛騨高山の郷土料理であり、ご飯のお供としてとても美味しいのを灯理も認めている。嵐が食事当番の時は、これでおかずの拙さを誤魔化されるのは、最早定番だった。
だけど、そのおかずが焼いたウィンナーとスクランブルエッグ、そして千切ったレタスだけというのは、手を抜き過ぎだろう。
味噌汁ばかりはきちんと作られているのが、文句を付けようにも、嵐が料理が苦手だからという口実もあり、始末に悪い。
「でね、あかりさん、食べながらでいいから聞いてほしいんだけど!」
にこにこ笑う嵐の目が、ちょっと怖かった。嵐の人指し手が当たり前のようにテレビの電源を切り、聞かない振りを潰される。
灯理は観念した心を悟られないように、いただきます、と手を合わせ、朴葉味噌をご飯に乗せて頬張る。
それを気持ちゆっくり、出来る限り丁寧に咀嚼して、美味しいから味わっているんだという素振りを見せて、物惜しそうに飲みこんだ。
そして、頷きの代わりに溜め息を吐く。
それが降参の意味だと正しく理解した嵐は、やっとにっこりと目を細めた。
「キスっていつどこでしたらいいですか!?」
砲弾のように勢いよく放たれた嵐の台詞を耳に受けて、灯理は目から光を失わせた。
それから黙って食事を続ける灯理に対して、嵐は一方的に真との会話を説明する。
全てを聞き終えた灯理は、最後にゆっくりと味噌汁を飲み干して、重苦しく息を逃がす。
「嵐も味噌汁はうまく作れるようになったよなぁ」
「あたしの話聞いてますか、灯理さん!」
灯理は素直に抱いた感想を口にしただけなのに、嵐からは雷を落とされた。
まぁ、話を反らそうとした魂胆は見え見えだったので仕方ない。
灯理は自分の食器を流しに持っていき、いつも通りに食後のコーヒーの準備を始める。
コーヒーの苦味もなしに、この胸焼けするような相談事に乗れる気はしなかった。
「てかさ、ファーストキスの打ち合わせとかなに情緒もへったくれもないことやってんの、お前ら?」
灯理はコーヒーミルにスプーンから溢れるほどの豆を流し込んで挽きながら、心底呆れた上での感想を告げた。
しかし、嵐はやっと灯理が話を聞いてくれる気になったと、満面の笑みを浮かべている。
皮肉も通じず、むしろ怒らせて話をうやむやにするのも失敗して、灯理は項垂れながらエスプレッソマシンに挽いた豆を流し込み、水をセットしてコンロの火にかけた。
やがてこぽこぽとお湯が沸騰する音が泡ぐみ、すぐにエスプレッソが出来上がって、灯理のマグカップに注がれた。
灯理は嵐の座るテーブルの上を見る。そこには何もなかった。
あの食い気が何よりも優先される嵐が晩ご飯もそっちのけなのだ。
他人からしたら、どんなに意味不明で呆れ返るような内容でも、当人にとっては正しく一大事なのだと、灯理は把握している。
口を付けたエスプレッソの苦味が、胸に蹲るやるせなさを踏みにじった。
「この家を空けろってんなら、ちゃんと事前に言えばどっかに避難してやるぞ。たまには実家に泊まって朱理の機嫌を取ってもいいしな」
重苦しい溜め息と共に、灯理は必要があるなら配慮くらいはすると告げる。
嵐はその言葉を受けて、重たそうに頭を傾けた。
「めゅ……でも、お家でそういうことするのって、なんだか、やらしくて、やだな」
「お前、その羞恥心をもっと別のところで発揮してくれね?」
嵐の恋愛相談に散々振り回されている灯理は、力なく項垂れる。
どうにも嵐とは恋愛に関する感覚が噛み合わなくて、灯理が当たり前だとか最善だとか考える答えを受け入れてもらえない。
そんなもどかしく道筋の見えない状況に、いつも灯理は頭を悩ませる。じわじわと苛潜む頭の奥が、いつになく重い。
「でも、人目に付くようなとこでするもんでもなくね」
「はい、それはそうだと思います」
うんうんと、嵐は灯理の意見にうなずいた。
これでも、日常生活の場で初めから一線を越えることに、言葉にしにくい怖さを感じているのだ。
「相手の家でも嫌なのか?」
「めー……めぃ……」
嵐はふらふらと頭を揺らして、想像してみた。
まだ行ったことのない、真の家で、唇を重ねる。彼は一人暮らしというから、家族を気にする必要もないはずだ。
でもその空想がはっきりと像を結んだ途端に、嵐は顔が火照り、知恵熱のように脳がオーバーヒートしてしまった。
「ああ、もういい。無理そうだな」
灯理は溜め息を苦いカフェインと一緒に飲み込んだ。
ある意味で一番簡単な解決法が早々に破棄された。ここから、嵐の理想を引き出して、それを実現させる案を提示しないといけない。
どうしても、何やってるんだろうな、というツッコミがセルフでちらつくから、無駄に気苦労が圧し掛かってくる。
「じゃ、どっかの個室に行くか、いっそ人気のない郊外にでも行くか、か」
この二つのシチュエーションなら、まぁ、キスシーンとして成り立つだろうと、灯理は自分を納得させる。ドラマとかでもよく見る現場だし、それっぽいところを地図アプリで探してやれば見付かるだろうとも思った。
「個室?」
「カラオケとか、観覧車とか?」
「観覧車だなんて、あかりさんて割とロマンチックなんですね」
「うっせ。相談乗ってやらねぇぞ」
「め! ごめんなさい!」
個室の方は嵐がいまいち気乗りしていなさそうだった。
それぞれの自宅も嫌がったし、逃げ場のない空間で情事に及ぶのを無意識に避けているのかもしれない。
灯理はいい加減、キッチンに立っているのも疲れてきたから、嵐と向い合せの椅子に腰掛ける。
「屋内が嫌なんだったら、外か」
「お外」
「公園だって、場所と時間を選べば人もいないだろうし、後は電車乗って行ける山とかもあるだろ。ああ、山じゃなくて、海とか河川敷とかもありか」
「おー」
海やら川やらと口にしたら、嵐が食い付いてきた。
実際、このマンションから少し歩けば中川も荒川もある。河川敷は広さも長さもあるから、朝夕のジョギングが盛んな時間帯さえ避ければ、人目に触れずにこっそりキスくらいは出来るだろう。
海はそれこそ、品川なんかに出ればすぐに建物の陰になって隠れられる。
「灯理さん的には、海ってどうですか?」
そこで俺の趣味を訊いてくるのかよ、と灯理は悪態をつきたくなったが、なんとか我慢した。
「無難っちゃ、無難じゃないか」
「んー、モエル?」
「お前、なんでたまに意味わかってなさそうなオタク言葉使うの?」
なんとなく、唯の影響だろうなとは思っている灯理だが、そこで決め付けて批難もできないのが灯理だ。
もう少し強硬に嫌がれば、嵐もここまで明け透けに何でも答えをねだったりはしなっただろうに。
「灯理さん的には、海はアリですか、ナシですか」
しかし嵐はともかく真へ早く返答をしたい気持ちしかなかったので、灯理に向かってテーブルの上に身を乗り出した。テーブルにべったりと胸を押し付けて上目遣いに灯理を窺う。
灯理は嵐が乗ったテーブルから顔を背けて、マグカップに口を付けたが、もう中身は残ってなかった。
「夕焼けの海とか、心に残るくらいにいい思い出になるんじゃないか」
なんでこんなこと言わなきゃならないんだと辟易とする灯理に対して、嵐はにへらと緩み切った笑顔を見せて悦んでいた。
「あかりさーん!」
ただいまも言わずに同居人を呼んだら彼がどれほど渋い顔をして叱りつけるかも忘れて、嵐は勢いを殺さずに玄関に入る。
「めゃ!?」
そして玄関の段差につまずいて転んで倒れた。びたーん、と音が響くくらいに盛大に倒れた。
「いたいよぉぉお! あかりさーん! あかりさーん! あかりさぁん……」
嵐は起き上がる素振りも見せず胸を床に押しつぶして、それはもう悲哀と沈痛のにじんだ声で懸命に同居人を呼んだ。
しかし、嵐が転んだ音がしても、どれほど声を張り上げても一向に彼は姿を見せず、嵐の声も細々と尻すぼみになる。
もしかして、まだ帰って来てないのかもしれない。
そう思い至った時、嵐はぐしぐしと泣き始めた。
「あかりさん……いないの……いたいよぉ……あかりさんがいてくれないといやだよぉ」
悲痛な声がか弱く廊下に染み渡っていく。
勝手に転んだだけなのに、勝手に空気を淀ませる嵐の耳に、ガチャガチャと金属のうごめく音が届いた。
確認するまでもないが、それは玄関の鍵から零れている。
嵐は首だけを巡らせて振り返り、扉を見上げる。
「あのばか娘、鍵ちゃんとかけろって何回言わせたら気が済むんだ」
ぶつぶつとぼやきながら扉を開けたのは、嵐が待ち望んでやまない灯理だった。
「ん?」
「あかりさんっ!」
まだドアノブを手放していない灯理も、すぐに廊下に転がっている嵐を発見して、呆気に取られて動きを止め。
灯理が帰ってきたのを見た嵐は、体を起こしもせず、それはもう嬉しそうに瞳を輝かせた。
灯理がドアノブを手放すと、ゆっくりと軋みながら扉は閉まる。
嵐はその緩慢なドアの軌跡を視線で追った。
その気の抜けた顔を、パシャリと灯理がスマートフォンで撮影した。
「なんで今、写メ撮ったの!?」
「いや、あまりにも惨めに見えておもしろかったから、つい」
傍から見たら笑える格好でいるのを自覚していない嵐は、灯理の行動が脈絡なく思えて愕然としている。
灯理は悪びれてはいるものの、普通にスマートフォンをポケットにしまった。
「んでもって、そこに寝転がられてると邪魔なんだけど。なにやってんの、お前」
三和土に靴を履いたままの足を投げ出し腰から上が床を占領している嵐に、灯理は白い目を向けた。
しかし、嵐にとっては自分が起き上がるよりも大事な用事があった。
「あかりさん! 教えてほしいことがあります!」
ここ最近ではもう聞かなくなった丁寧な口調に、灯理の背筋に悪寒が走った。
灯理は自分の直感を信じ、踵を返して素早く玄関の扉を開けて体を滑り込ませ、外で出るのと同時に閉めた。
ガチャ、ガチャ、と二重施錠が外から掛けられる。
「なんで逃げますか!?」
飛び跳ねるように起きた嵐は、それまで床に這いつくばっていたのが嘘だったように、手早く鍵を内側から開けて、灯理の体に抱き着いて捕縛する。
「やめろ、はなせ! お前のみょうちきりんな恋愛事情に俺を巻き込むな!」
「そんなひどい! あかりさんしか頼れる人がいないんです、見捨てないで!」
夕忍び沈みゆく太陽から回折する光と外廊下に備えられたLEDの光が混じった暗がりに、嵐の柔らかな肢体に絡み付かれた灯理が必死に逃走を試みている。
だがしかし、本気で逃がすまいと力を籠める嵐と、さすがに女の子を手荒に扱って怪我はさせなされないと意識するでもなく力加減している灯理とで、絶妙に拮抗してしまっている。
「ままー、おにいちゃんとおねえちゃんがなかよしさんしているー」
「あら、ふふ、そうね。邪魔しないであげましょうね」
通りすがりの親子連れに指を差され微笑ましい目を向けられた二人は、ぴたりと動きを止めた。
「……嵐、とりあえず、部屋に入ろう」
「……そうですね」
やるせない気持ちをそれぞれの胸にしまいながら、二人はやっと帰宅の体裁を取ることができた。
「嵐、腹減った」
灯理はリビングに向かう途中で、先制して口を開いた。
それは今日の食事当番への役割の促しであり――あわよくば、料理で訊こうとしていることを忘れてくれという儚い牽制だった。
「め」
対して、嵐はそれはもう不機嫌そうに唇をとがらせた。灯理が話を流そうとしているのに気付いている。
日頃からあれだけ餌付けで言いように誘導されてる癖に、今日ばかりはしゃんとしている嵐の脳みそだった。
灯理はリビングに着くなり、ソファに体を沈めて、テレビの電源を入れた。
どの局も変わり映えのしないニュースを流している時間なので、チャンネルも変えずに見入っているふうを装う。
「めぅぅぅ」
嵐は未声で唸る。
さっきも逃げようとしたし、今も話を聞く気はないと態度に出すし、不満が溜まる一方だ。
嵐はこっちを見ようともしない灯理の背中を睨みつけてから、キッチンに向かう。
調理器具を取り出し、ガスコンロの火を点ける音を聞いて、灯理はほっと安心した。
嵐はまだ料理の手際がよくないから、小一時間も作業をしていれば自然と无言になってしまうだろうと灯理は見積もっている。
その検討が甘かったと知るのは、たった十五分足らずで食事の用意ができたと嵐に呼ばれた時だった。
「……こう来たか」
灯理はテーブルに並んだ献立にげんなりとした。
白いほかほかのご飯は普段から炊飯器のタイマーを使っているから、二人が帰宅した直後に炊きあがっていた。
嵐の実家から送ってもらった朴葉味噌は飛騨高山の郷土料理であり、ご飯のお供としてとても美味しいのを灯理も認めている。嵐が食事当番の時は、これでおかずの拙さを誤魔化されるのは、最早定番だった。
だけど、そのおかずが焼いたウィンナーとスクランブルエッグ、そして千切ったレタスだけというのは、手を抜き過ぎだろう。
味噌汁ばかりはきちんと作られているのが、文句を付けようにも、嵐が料理が苦手だからという口実もあり、始末に悪い。
「でね、あかりさん、食べながらでいいから聞いてほしいんだけど!」
にこにこ笑う嵐の目が、ちょっと怖かった。嵐の人指し手が当たり前のようにテレビの電源を切り、聞かない振りを潰される。
灯理は観念した心を悟られないように、いただきます、と手を合わせ、朴葉味噌をご飯に乗せて頬張る。
それを気持ちゆっくり、出来る限り丁寧に咀嚼して、美味しいから味わっているんだという素振りを見せて、物惜しそうに飲みこんだ。
そして、頷きの代わりに溜め息を吐く。
それが降参の意味だと正しく理解した嵐は、やっとにっこりと目を細めた。
「キスっていつどこでしたらいいですか!?」
砲弾のように勢いよく放たれた嵐の台詞を耳に受けて、灯理は目から光を失わせた。
それから黙って食事を続ける灯理に対して、嵐は一方的に真との会話を説明する。
全てを聞き終えた灯理は、最後にゆっくりと味噌汁を飲み干して、重苦しく息を逃がす。
「嵐も味噌汁はうまく作れるようになったよなぁ」
「あたしの話聞いてますか、灯理さん!」
灯理は素直に抱いた感想を口にしただけなのに、嵐からは雷を落とされた。
まぁ、話を反らそうとした魂胆は見え見えだったので仕方ない。
灯理は自分の食器を流しに持っていき、いつも通りに食後のコーヒーの準備を始める。
コーヒーの苦味もなしに、この胸焼けするような相談事に乗れる気はしなかった。
「てかさ、ファーストキスの打ち合わせとかなに情緒もへったくれもないことやってんの、お前ら?」
灯理はコーヒーミルにスプーンから溢れるほどの豆を流し込んで挽きながら、心底呆れた上での感想を告げた。
しかし、嵐はやっと灯理が話を聞いてくれる気になったと、満面の笑みを浮かべている。
皮肉も通じず、むしろ怒らせて話をうやむやにするのも失敗して、灯理は項垂れながらエスプレッソマシンに挽いた豆を流し込み、水をセットしてコンロの火にかけた。
やがてこぽこぽとお湯が沸騰する音が泡ぐみ、すぐにエスプレッソが出来上がって、灯理のマグカップに注がれた。
灯理は嵐の座るテーブルの上を見る。そこには何もなかった。
あの食い気が何よりも優先される嵐が晩ご飯もそっちのけなのだ。
他人からしたら、どんなに意味不明で呆れ返るような内容でも、当人にとっては正しく一大事なのだと、灯理は把握している。
口を付けたエスプレッソの苦味が、胸に蹲るやるせなさを踏みにじった。
「この家を空けろってんなら、ちゃんと事前に言えばどっかに避難してやるぞ。たまには実家に泊まって朱理の機嫌を取ってもいいしな」
重苦しい溜め息と共に、灯理は必要があるなら配慮くらいはすると告げる。
嵐はその言葉を受けて、重たそうに頭を傾けた。
「めゅ……でも、お家でそういうことするのって、なんだか、やらしくて、やだな」
「お前、その羞恥心をもっと別のところで発揮してくれね?」
嵐の恋愛相談に散々振り回されている灯理は、力なく項垂れる。
どうにも嵐とは恋愛に関する感覚が噛み合わなくて、灯理が当たり前だとか最善だとか考える答えを受け入れてもらえない。
そんなもどかしく道筋の見えない状況に、いつも灯理は頭を悩ませる。じわじわと苛潜む頭の奥が、いつになく重い。
「でも、人目に付くようなとこでするもんでもなくね」
「はい、それはそうだと思います」
うんうんと、嵐は灯理の意見にうなずいた。
これでも、日常生活の場で初めから一線を越えることに、言葉にしにくい怖さを感じているのだ。
「相手の家でも嫌なのか?」
「めー……めぃ……」
嵐はふらふらと頭を揺らして、想像してみた。
まだ行ったことのない、真の家で、唇を重ねる。彼は一人暮らしというから、家族を気にする必要もないはずだ。
でもその空想がはっきりと像を結んだ途端に、嵐は顔が火照り、知恵熱のように脳がオーバーヒートしてしまった。
「ああ、もういい。無理そうだな」
灯理は溜め息を苦いカフェインと一緒に飲み込んだ。
ある意味で一番簡単な解決法が早々に破棄された。ここから、嵐の理想を引き出して、それを実現させる案を提示しないといけない。
どうしても、何やってるんだろうな、というツッコミがセルフでちらつくから、無駄に気苦労が圧し掛かってくる。
「じゃ、どっかの個室に行くか、いっそ人気のない郊外にでも行くか、か」
この二つのシチュエーションなら、まぁ、キスシーンとして成り立つだろうと、灯理は自分を納得させる。ドラマとかでもよく見る現場だし、それっぽいところを地図アプリで探してやれば見付かるだろうとも思った。
「個室?」
「カラオケとか、観覧車とか?」
「観覧車だなんて、あかりさんて割とロマンチックなんですね」
「うっせ。相談乗ってやらねぇぞ」
「め! ごめんなさい!」
個室の方は嵐がいまいち気乗りしていなさそうだった。
それぞれの自宅も嫌がったし、逃げ場のない空間で情事に及ぶのを無意識に避けているのかもしれない。
灯理はいい加減、キッチンに立っているのも疲れてきたから、嵐と向い合せの椅子に腰掛ける。
「屋内が嫌なんだったら、外か」
「お外」
「公園だって、場所と時間を選べば人もいないだろうし、後は電車乗って行ける山とかもあるだろ。ああ、山じゃなくて、海とか河川敷とかもありか」
「おー」
海やら川やらと口にしたら、嵐が食い付いてきた。
実際、このマンションから少し歩けば中川も荒川もある。河川敷は広さも長さもあるから、朝夕のジョギングが盛んな時間帯さえ避ければ、人目に触れずにこっそりキスくらいは出来るだろう。
海はそれこそ、品川なんかに出ればすぐに建物の陰になって隠れられる。
「灯理さん的には、海ってどうですか?」
そこで俺の趣味を訊いてくるのかよ、と灯理は悪態をつきたくなったが、なんとか我慢した。
「無難っちゃ、無難じゃないか」
「んー、モエル?」
「お前、なんでたまに意味わかってなさそうなオタク言葉使うの?」
なんとなく、唯の影響だろうなとは思っている灯理だが、そこで決め付けて批難もできないのが灯理だ。
もう少し強硬に嫌がれば、嵐もここまで明け透けに何でも答えをねだったりはしなっただろうに。
「灯理さん的には、海はアリですか、ナシですか」
しかし嵐はともかく真へ早く返答をしたい気持ちしかなかったので、灯理に向かってテーブルの上に身を乗り出した。テーブルにべったりと胸を押し付けて上目遣いに灯理を窺う。
灯理は嵐が乗ったテーブルから顔を背けて、マグカップに口を付けたが、もう中身は残ってなかった。
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