露包むランタン

奈月遥

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Is it enough?

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 らんは久しぶりに大学に足を踏み入れた。
 別に赤点で呼び出しを食らった訳ではない。単位は全て取ったし、なんならS判定をもらった単位だってあった。
 だから、午前中から陽針ひばりが投げ付けられる天気の中で大学へとやって来たのは、全くもって嵐の私用だった。
 嵐は鞄からプレゼント用に紺のリボンがあしらわれた紙袋を取り出し、胸に抱く。
 しばし目を瞑って、臆病に跳ねる心音を宥めてから、嵐はエレベーターに向かって歩き出す。
 相手には先に連絡を取った。待ち合わせは、いつもの壁に囲まれた屋上中庭になった。
 灯理とうりは一緒に行こうかと言ってくれたけれど、今日は一人で会いに行くと決めた。その代わり、この後すぐに出発できるように準備を全部お任せしてある。
 思えば、れいの事務所でバイトを始めるその前からこの時を目指していたんだと、嵐は胸の少し上がくすぐったくなった。
 硝子張りで囲まれた中庭からは、窓越しに矢のような日射しが貫いてきてた。
 そこに、確かに、高い背をまっすぐに伸ばして、しんは待っていてくれた。
 入り口に背を向けて立っている先輩を目指し、嵐は止まりかけた足を叱りつけて進む。
「真先輩!」
 自動ドアが開き切るのももどかしくて、声を張り上げた。
 真が一度だけ肩を跳ねさせて、それからゆっくりと振り返る。
 嵐は、自分を見る真の表情をどう言い表せばいいのか、分からなかった。
 自分がどんな表情をしているのかも、よく分からなかった。
 そしてお互いの気持ちは、それよりもっと分からなかった。
 分からなくても、やっと全開に至った自動ドアを、さらに押し広げるくらいの勢いで足を踏み出した。
「あの、お待たせしました!」
 嵐は勢い任せに真への言葉を押し出した。
 真は眩しそうに目を細めて、柔く頷く。
「いいや。こっちこそ、夏休みなのに大学まで呼び出して、ごめんね」
 嵐は手を伸ばせば触れられるよりも二歩手前で止まった。距離感は間違えてないだろうか。少し不安が過ぎる。
 もう一歩近づいた方が真が安心するかもしれない、もっと離れた方が真は傷つかないかもしれない。
 どっちつかずで、足踏みすると、嵐のスカートの裾も一緒に揺れる。
 真は曖昧に笑って、泣き掛けているのを有耶無耶にして、とにかく直立不動でいた。
 言わなくても、お互いに分かっている。もう終わりになっていて、それは納得しているのを。
 でも終わった後の気持ちのカタチは、自分でもよく分からなくて、目の前にいてほしいとも願うし、目に触れたくないとも望んでしまう。
 なかったことにはできないだろう。
 ちくりと痛む針鼓はりこも。
 ほわりと安心できる心のぬくもりも。
 それから今までに、確かにあったことの全ても。
 そして、これからの関係だって亡くさなくてもいいだと、灯理は言ってくれたから。
 嵐は息を吸って、頭の中に積もる埃を払って言葉を拾い上げる。
「真、先輩。あたしは」
 真の目を、嵐は見れなかった。
 俯いて、足を見ながら、話す。
 礼儀を守れないのは、ちょっと許してほしいと思った。
「真先輩からこれからも勉強を教えてほしい、です。あたしは、先輩から教わったことで、すごく成長できたと、成長、できるって、思うから、どうか、見捨てないで、後輩として! これからも、えっと、その」
 どうしてほしいのかと要求するのは、憚られた。お願いをする相手は、灯理だけが良かった。
 だから嵐は結局何が言いたいのかを伝えられなくて、視線を彷徨わせる。
「嵐ちゃん」
 だから真の力強い声が降って来て、すぐに耳控みみひかえられて顔を上げた。
 真の微笑みの中で、透き通った瞳だけがもう、遠かった。
「嵐ちゃんの幸せを願っている。僕にはもう一番大事なところはどうにもならない。それでも、僕は僕に出来ることで君の幸せを支えたい。君はきっとすごい女性になるから、桐谷きりや真は、あの篠築しのつき嵐の先輩として指導してたんだって、自慢させてほしい」
 そんな都合のいいことがあるのかと、嵐は目淵まぶちが熱くなって、でも歯を食いしばってそこから雫が溢れるのを堪える。
 嵐は腕を突っ張って、手にした袋を真に差し出した。
「先輩、お誕生日おめでとうございます。日頃お世話になってるお礼です」
 かさり、と真の指が袋を浚った。
「ありがとう。かわいい後輩にプレゼントを貰えるなんて思わなかった。大切にするよ」
 傍目から見たら、失笑してしまうくらいの茶番だったかもしれない。
 子供が不格好に演劇をしているようだと、本人達だって思った。
 でも二人のこれからにとっては、けして蔑ろにできない儀式でもあったのだ。
 嵐は真の顔を見れないまま踵を返し、走り出した。
 真はこの期に及んでまだ直立不動のまま、黙ってその背中を見送った。
 嵐はエレベーターを待つのも拒んで階段を駆け下りる。
 その慌ただしい足音に踏みつけられた階段に、飛び飛びで雨点あめともっていく。
 嵐は大学を抜け出し、道路の前で顔を上げる。
 そして歩道にレンタカーを寄せて、ドアに寄りかかって待っていた人を見る。
 無造作に遊ばせた髪をした彼は道行く人に目を向けられながらも、一切気にせずに嵐をじっと見詰めていた。
 灯理は嵐が近付いているのにはっきりと知っていながら、呼ぶこともなく、歩み寄ることもなく、ただ待ってくれていた。
 嵐はとぼとぼと、雫焼しずやけて痒い目元を見られないように、俯き加減に灯理を目指す。
 腕を伸ばせば背中に回せてしまうくらいまで近付いた所では足を止めて、灯理の爪先を見詰める。
 じっと動かないまま、十秒か、もしくはもう少しの時間が経った。
「もういいのか?」
 それだけ待ってから、灯理は嵐に声を掛けた。
 もういいのかなんて聞かれても、嵐はどこまでやったらいいのか、どこからやっていけないのか、まだ分かってなかった。
 こんな難しい問題に比べたら、英語文化ⅠでS判定を取る方がずっと簡単だ。灯理は意地悪だと、嵐は拗ねて顔を背けた。
「じゃあ、もういいな」
 そう言って、灯理は嵐の肩を抱き寄せた。
 こつん、と嵐の頭が灯理の胸板にぶつかる。
「嵐の時間、もう後は俺が貰っても、いいな」
 灯理は道行く人が顔を赤らめて黄色い声を漏らすのも一切気にしないで、嵐の体をぎゅっと包み込んだ。
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