露包むランタン

奈月遥

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Zenithy

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 灯理とうりは朝起きてスマートフォンで時間を確認して、少しばかり焦った。
 目に入ったのは一と〇が三つ並んだ数字で、他人様の家に泊まっているのにこんな遅くまで眠り続けた事実に灯理は顔を青褪める。
 自宅と同じように目を開くと同時に夢海ゆめみから飛び出して、最低限の身支度だけは済ませて居間へと顔を出す。
 そこにはらんの父親だけが座っていた。地方公務員である嵐の父も昨日から盆休みに入っていると聞いている。
「おはようございます。すみません、いつまでも寝てしまっていて」
「おお、灯理君、おはよう。いやいや、東京からの運転で疲れたんだろう。まだ休んでいてもいいんだよ?」
「いえ、もう目が覚めてますから。あの、嵐は?」
「ああ、嵐なら少し散歩に行ったよ。今、うちの人が庭で洗濯物を干しているから、そこに行くといい。すぐ分かるから」
 散歩に行ったのに庭に出れば見つかると言われて、灯理は首を傾げる。家の周りだけを歩いているんだろうか。
 どちらにしろ嵐の母にも起きた挨拶を済ませておこうと思い、灯理は玄関で靴を拾って、履き出し窓から外へ出る。
 物干し竿が立っているだけでいっぱいになるような小さな庭だが、都会で生まれ育った灯理にはそれだけでも新鮮だった。
 嵐の父親に言われた通り嵐の母がシーツを干しているのを見付けて、灯理は草が足の裏に返す感触を踏み締めながらそちらに近寄る。
「おはようございます。すみません、寝坊しました」
「あら、おはよ。だいじょうぶよ。嵐なんて、ひどい時はお昼過ぎても寝こけてたこともあるんだから」
 灯理は突然明かされた嵐の普段の様子に苦笑いを浮かべる。
 今のところそこまでの寝坊を見たことはないが、寝惚けて抱き枕にされたことは何度もある。休みだと気が緩むのか、起きるのが遅くなるのは今も昔も変わってないのかもしれない。
〈Zenithy, great mountains full my sight〉
 灯理の耳に、微かな嵐の声に木霊のように添音そおとが重なって聞こえた。どこから届いたのかと灯理は首を巡らせて探すが、どこにもそれらしき人影はない。
〈Zenithy, great mountains look down everylife〉
 嵐の歌が旋律に乗って紡がれ続ける。
 それは空から降ってくるようで、灯理は二階の窓に目を向けたけれど、その硝子はぴっちりと閉じられていた。
「嵐が歌ってるのは、あそこよ?」
 くすくすと嵐の母は笑いを喉で転がしながら人差し指で宙を示した。
 灯理は素直にその先に視線を向けるが、そこには一つの山がすぐ近くに鎮座しているだけで、その裾になる林の中にはやはり人影の一つもない。
「えっと……?」
〈I am very very small, I think so standing here〉
 嵐の声が伸びやかに広がり、さっきよりも確かな耳応みみごたえをもって灯理に届く。
 それは山から吹き下ろされる風のように灯理の髪を撫で付けて吹き去ったように思えた。
 そのかぜを懸命に耳で探れば、確かに、嵐の母が指差した先の方角にあるような気がする。
〈But I think also, my soul is able to full over this view, like a zenith〉
 その歌は、自分はここにいると宣言するようでもあり。もしくは大きな存在へ、上位の存在へ呼び掛けるようでもあり。
 どちらにしろ、命を膨らませて、広げて、高々を掲げるように、歌に乗せていた。
「はい」
「え?」
 嵐の母はいつの間に家に入ったのか、持って来た望遠鏡を灯理の手に握らせた。
 困惑する灯理に嵐の母は口を挟まずににっこりと佇んでいる。
 灯理は望遠鏡なんだから覗けばいいのかと、その先を嵐の母が指差した山に向けて接眼レンズを目に当てた。
「あの裏山、すぐそこから道が延びてるんだけど、中腹辺りにちょっと高台で開かれてるとこがあるから」
 嵐の母の声に誘導されながら灯理は慣れない望遠鏡を揺らして位置を探る。
 ランタンの作業で近くのものをルーペで拡大してみるのは慣れているけれど、こうして遠くのものを見つけてピントを合わせるのは、なかなか上手くいかない。
〈In zenithy,〉
 嵐の声を側に感じて、望遠鏡を振る。
〈trees,〉
 また遠くに行ってしまった。望遠鏡の筒に指を沿わせて、ピント調節の螺子を確かめる。
〈warms,〉
 嵐の囁きにピントを合わせようとして回しすぎたのか、狭い視界の全てがぼやけた。
〈rivers,〉
 川の水が跳ねたような感触が異産ことむした。望遠鏡を落としてしまわないように、指にもう一度力を込める。
〈rabbits,〉
 嵐の声が飛び上がる。右手を望遠鏡から外して、ズボンで汗を拭った。陽針ひばりは今日も刺すように痛く、でも東京と違って雲がかげつち景境かげさかう度に肌に触れる気温が和らぐ。
〈grasses,〉
 草で戯れる風虫かざむしの声が耳に触れて、嵐の歌がひろえないのがもどかしい。
〈stones,〉
 蹴った石が跳ね返るように添音そおとが後ろから小突いてくる。
〈clouds,〉
 雲の切れ目からかげきらついて、瞳を刺した。咄嗟に瞼を閉じて瞳が焼かれるのを防ぎ、そうして振り出しに戻させられる。
〈birds,〉
 鳥みたいに空から見下ろしたら、もっと早く嵐を見付けられるのだろうか。
 いつまでも姿を見付みつれない焦れったさで、益体のないことも頭を過ぎる。
〈and you,
 Hear my song〉
 でも、嵐が灯理に歌声を差し伸べてきてくれた。
 偶々か、執念か、それともご褒美か。
 望遠鏡のピントが、山肌の露わになった地面の上に立ち、右手を差し伸べて、左手を胸に添えて謳う嵐の姿を捉えた。
 嵐はあそこから山間に歌声を響かせて、ここまで歌の響乃ゆらのを溶け込ませているんだ。
〈I want to drop my song into everylife, everything, and everysight〉
 嵐が命を斬るように、歌声を鋭く、細く、世界に貫通させる。
 あれはまだ灯理と嵐が出会ったばかりの頃、電車で歌う嵐に静かにするように注意したことがあった。
 でもあんなのは、嵐にとっては囀りにもならない、それこそ口ずさんだ程度のものだったのだと、今、灯理は分からされて圧倒される。
〈I want to give my love to〉
 嵐が本気で届けようとすれば、歌声は山と山を跳ね返って膨らみ、その間の全てを包み込んでしまうんだ。そんなにも包容力のある女性なのだと、今初めて思い知らされた。
 都会で暮らしていた嵐は紛れもなく慣れない土地でいさよわしく生きていたに過ぎなかったのだ。
〈I want to be lady standing in front of great mountains〉
 こんなにも命が大きく、人に霊響たまひびかせて押し出されるように涙を流させる女性と比べて、自分はどれだけの価値を世界に示せているのだろうかと。
 灯理はあまりに遠くに感じる嵐に途方に暮れてしまった。
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