悪役令嬢の騎士

コムラサキ

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第五章:騎士学校・始動編

第33話 潜入任務

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 帳簿を〈盗賊組合〉の構成員に提出したあと、僕は束の間の平穏に戻った。

 市場の喧騒、雑踏を抜ける人波、石畳に並ぶ露店――それらが妙に現実味を欠いて見えるのは、どこか非現実的な潜入任務のなかにあったからなのだろう。

 周囲の気配を探る癖が抜けず、市場を行き交う人々に視線を走らせてしまう。頭では平常を装えと分かっているのに、身体は戦場の緊張を引きずっている。

 その落ち着かない日常も、長くは続かなかった。

 夕刻、訓練を終えて寮に戻ろうとしていたとき、名を呼ばれる。振り返ると、そこにいたのは軍服に身を包んだ士官だった。硬質な視線が僕を値踏みし、低く告げる。

「情報局からの召喚だ。すぐに来てもらう」
 抗う余地はなかった。彼の言葉には命令以外の意味がなかった。

 案内されるままたどり着いたのは王都の北区、重々しい石造りの建物だった。

 外観こそ質素だが、出入りする者は誰もが緊張に固められ、内部に漂う空気は研ぎ澄まされていた。

 廊下を進むたびに、衛兵の視線が鋭く背を射抜く。階段を下り、分厚い扉の前に立たされたとき、僕の心臓はさっきよりも早鐘を打ち始めていた。

 嫌な緊張感だ。

 しばらくして扉が開く。

 そこは暗い部屋だった。壁際に並ぶ書架には封印された書類の束。中央の机には地図と数枚の書簡が散らばり、重苦しい沈黙が支配している。

 その机の向こうに座っていたのは、情報局の高官と思しき壮年の男性。目元の皺すら冷徹に見えるその表情が、ゆっくりと僕を見据えた。

「――座れ」

 低い声に従い、椅子に腰を下ろすと、机の上に一枚の書状が滑らせて置かれた。封蝋には帝国軍の紋章が見えた。

「任務だ。騎士候補生として素晴らしい実績を持つ君に、〈商業連邦〉に関する調査に従事してもらう」

 その一言で、空気が変わった。組合を通じた裏の依頼ではない。軍からの直接命令。帝国の意志そのものだった。

「詳細は追って伝える。ただしひとつだけ覚えておけ――この件は帝都の安定に直結する。失敗は許されん」

 冷たい言葉が石壁に反響し、僕の胸に突き刺さった。

 僕は静かに頭を下げた。冷静を装っていても、内心では理解していた。すでに帝国と連邦の駆け引きは始まっているのだろう。

 そして、その最前線に自分が立たされることを。

 高官は書類の束から一枚を取り出し、僕の前に滑らせた。羊皮紙に描かれた似顔絵と数行の情報。異国風の装飾を施した帽子を被った中年の男性の顔。

「標的はこの男――ラドン・マーネス。〈商業連邦〉に籍を置く交易商だ。帝都に駐在している連邦商人のひとりにすぎんが、裏で武具や魔獣の取引に関わっている疑いがある」

 マーネス。もちろん、初めて耳にする名だったが、表情はどこか胡散臭く、絵姿からしても人当たりの良さそうな商人には見えない。

 高官は指先で紙を軽く叩きながら続けた。

「任務は三段階に分かれている。まず潜入だ。やつの周辺に近づき、接触の糸口を探れ。次に監視を行う。取引先や交友関係を洗い出し、帝都内に潜む協力者を突き止めろ。そして最後に交渉だ。条件が整えば、帝国に有利な情報を引き出し、連邦側の動きを抑制する」

 交渉。つまり、ただの調査ではない。時に情報を餌にし、時に裏切りを誘い、駆け引きを強いられるということだ。

「……僕ひとりで、ですか?」
 思わず問い返す。

 高官は首を横に振った。
 「いや。今回の件は帝国全体に関わる。お前だけではない。他の者にも任務を与えている。標的はひとりではなく複数。マーネスはそのひとりにすぎん」

 複数の商人。複数の潜入者。つまり帝国は、同時に複数の駒を動かし、連邦の網を切り裂こうとしている。

「それぞれは孤立して動く。お前が誰と連携しているか、あるいはどこで同じ情報を追っているかは、原則として知らされない……ただひとつだけ言えるのは――この網のどこかが破れれば、帝国全体が大きな代償を払うことになる、ということだ」

 言葉に込められた圧力は、明確な脅しにも等しかった。

 僕は羊皮紙を睨み、深く息を吐いた。潜入し、監視し、交渉する。失敗すれば自分だけではなく、帝国そのものが揺らぐ。

「――了解しました」
 絞り出すように告げると、高官は無言でうなずき、手元の書類を重ね直した。

 静まり返った室内の空気が、よりいっそう重く沈み込む。

 高官は机の引き出しを開けると、黒い革の小箱を取り出し、音を立てて机上に置いた。金属の留め具を外すと、中には数点の道具が収められていた。

「まず、これだ」
 取り出されたのは封蝋の押された羊皮紙。

 精緻な筆致で書かれた紹介状であり、帝都の交易ギルドに加盟している小規模商会の名が記されている。

「この商会はすでに我々の監視下にある。名目上はお前を臨時の代理人として登録してある。身元を疑われても、この紹介状を見せれば出入りに問題はないはずだ」

 続いて差し出されたのは、細工の施された指輪だ。

「帝都内の〈商業組合〉に登録されていることを証明する印章だ。お前が名乗る商会の代理人として正式に登録されている。会合や契約の場で求められるだろう」

 高官はさらに小箱の底から、薄い革の手帳を取り上げる。
 「これには商会の過去の帳簿を模した記録を仕込んである。使いようによっては、標的の信用を得るきっかけになるはずだ。だが、逆に不自然に使えば疑念を招く。扱いには気をつけろ」

 僕は無言でそれらを受け取り、ひとつひとつ確かめる。紙の手触り、蝋の匂い、刻印の重さ。どれも本物と区別がつかない。

「潜入のきっかけは、港の交易所で見つけられるだろう」
 高官は机の上に地図を広げ、いくつかの港湾倉庫に赤い印を記した。

「マーネスは近々、香辛料と薬草を扱う取引を予定している。そこに顔を出せ。代理人としての立場を利用し、自然な形で接触せよ」

 地図を見下ろしながら、僕は息を整えた。偽りの身分で、偽りの商会を名乗り、敵の懐に足を踏み入れる。

「最後に――」
 高官は鋭い視線をこちらに向けた。

「標的は只の商人ではない。背後には〈商業連邦〉そのものがいる。交渉に臨むとき、己の言葉が帝国の立場を左右することを忘れるな」
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