婚約破棄はokですが、復縁要請は却下します!

桃瀬ももな

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「……ふぅ」

馬車の心地よい揺れに身を任せながら、私はようやく眼鏡を外した。

レンズをハンカチで拭きながら、これからの計画を脳内で組み立てる。

まずは明日、泥のように眠る。

明後日は、読みたかった経済学の新刊を読む。

明明後日は、領地の別荘へ行くための荷造りをする。

完璧だ。

私の人生設計(ライフプラン)に、もはや『王子』という不確定要素(バグ)は存在しない。

「お嬢様、そろそろお屋敷に到着いたします」

御者の声で、私は現実に引き戻された。

窓の外を見ると、我がバルト公爵家の重厚な鉄門が見えてくる。

門番たちが慌てて敬礼するのが見えた。

馬車寄せに到着すると、すでに家令のセバスが待機していた。

白髪をオールバックにし、背筋をピンと伸ばした初老の執事だ。

彼は私が降りるための踏み台を設置し、恭しく手を差し伸べた。

「お帰りなさいませ、お嬢様。……予定よりも一時間ほど早いご帰還ですね」

「ええ、無駄な工程(プロセス)を全て省略(カット)してきましたので」

私はセバスの手を借りて馬車を降りる。

「婚約破棄の手続きは完了しました。これが成果物です」

私は懐から、ジェラルド殿下の署名入り書類一式を取り出し、セバスに手渡した。

セバスは片眼鏡(モノクル)を光らせ、書類にざっと目を通す。

「ほう……慰謝料、金貨三万枚。しかも即金および短期分割払い。……素晴らしい手際ですな。これほどの好条件を引き出せるとは」

「相手の知能指数が想定よりも低かったのが勝因です。交渉というより、赤子の手をひねるような作業でした」

「流石はお嬢様。旦那様もお喜びになるでしょう」

「お父様は?」

「執務室にてお待ちです。至急、報告せよとのこと」

「……こんな夜更けに?」

嫌な予感がした。

私の父、宰相でもあるバルト公爵は、私以上に「時は金なり」を地で行く男だ。

無意味な雑談のために娘を呼ぶような人間ではない。

「分かりました。着替える前に行きます」

私は重たいドレスを引きずりながら、屋敷の長い廊下を歩いた。

使用人たちが壁際に寄り、私の姿を見るとサッと頭を下げる。

彼らは知っているのだ。

この屋敷で一番敵に回してはいけないのが、公爵である父ではなく、経理と人事を握っている私であることを。

          ◇

「失礼します」

重厚な扉をノックし、入室する。

執務室の空気は冷え冷えとしていた。

書類の山に埋もれるようにして、父が座っている。

私と同じ、感情の読めない冷たい瞳。

父はペンを走らせたまま、顔も上げずに言った。

「早かったな、ニオ」

「定時退社は私の信条ですので」

「成果は聞いた。金貨三万枚。……悪くない」

「私の市場価値を考えれば妥当なラインです」

「ふん」

父はようやくペンを置き、私を見た。

その口元が、わずかに歪む。

ニヤリ、と。

悪魔が契約書を見せる時の笑みだ。

背筋に悪寒が走る。

「ニオ。お前、明日からの予定は?」

「白紙です。正確には、無期限の有給休暇を取得するつもりですが」

「そうか。それは都合がいい」

父は机の引き出しから、一通の封筒を取り出し、滑らせるように私の前に差し出した。

「業務命令だ」

「……は?」

「隣国のクリフォード王国で、明日夜会が開かれる。我が国の代表として、お前が出席しろ」

私は耳を疑った。

「お父様。私の耳が正常なら、『明日』と聞こえましたが」

「そうだ」

「隣国までは馬車で片道八時間かかります。今すぐ出発しなければ間に合いません」

「だから、こうして馬車を用意させている」

父は窓の外を顎でしゃくった。

見ると、私が先ほど乗ってきた馬車とは別の、長距離移動用の頑丈な馬車が、すでにスタンバイしていた。

「なっ……」

「お前が婚約破棄されることは予測済みだ。国内にいると、あの馬鹿王子が『復縁しろ』だの『やはり許さん』だのと騒ぎ立てて面倒だろう? ほとぼりが冷めるまで国外へ高飛びしろ」

「それは感謝しますが、なぜ夜会に? 私は今、傷心(という設定)の身ですよ?」

「隣国のクライヴ皇太子をご存知か?」

「……『氷の皇太子』と呼ばれる、あの堅物ですか? 噂程度なら」

「彼が今、有能な事務官を探しているらしい。我が国との貿易協定を有利に進めるため、お前が彼に接触し、コネを作ってこい」

「お断りします」

私は即答した。

「私はニートになりたいのです。他国の政治に関わるなど、面倒ごとの極み。お断りします」

「そう言うと思った」

父はニヤリと笑い、一枚の紙を取り出した。

「これは、お前の『屋敷使用料』および『食費』の請求書だ」

「はい?」

「お前が王太子妃になることを見越して、公爵家は先行投資をしてきた。だが、それが破談になった以上、投資回収が必要だ。ニートになるなら構わんが、この屋敷に住むなら家賃を払え。月額金貨五十枚だ」

「ぼったくりです!」

「嫌なら働け。隣国での任務を遂行すれば、その報酬で家賃は相殺してやる。さらに、成功報酬として『猫付きの別荘』を用意してもいい」

ピクリ、と私の眉が動いた。

「……猫、ですか」

「ああ。最高級のモフモフだ」

「……種類は?」

「ラグドールだ」

「…………」

私は葛藤した。

自由か、猫か。

いや、ここでの『自由』は、家賃という鎖に繋がれた不自由な自由だ。

ならば、一時的な労働(隣国への出張)を経て、完全なる自由(猫付き別荘ライフ)を手に入れるのが、最も合理的な選択ではないか?

計算機が脳内で高速回転する。

チーン。

答えが出た。

「……承知いたしました」

私は不承不承、頷いた。

「その業務、請け負います。ただし、必要経費は全て公爵家持ちで。移動中の特別手当もつけてください」

「交渉成立だな」

父は満足げに頷き、すぐさま「出発せよ」と手を振った。

まるでゴミを掃くような扱いだ。

実の娘に対してドライすぎるが、まあ、私も父に対して愛情など期待していないのでお互い様だ。

「行って参ります」

私は執務室を出て、そのまま玄関へ向かった。

着替える暇もない。

ドレスのまま、長距離馬車に押し込まれる。

「出発!」

御者の掛け声と共に、馬車が走り出す。

ガタゴトと揺れる車内。

先ほどまでの「帰宅の喜び」は消え失せ、代わりに「これから八時間の移動」という絶望がのしかかる。

「……気持ち悪い」

出発して三十分。

私は早くも馬車酔いしていた。

王都の石畳を抜けると、道は舗装されていない砂利道になる。

振動がダイレクトに内臓を揺さぶる。

「うぅ……なんで私がこんな目に……」

キラキラした夜会?

ロマンス?

そんなものはどうでもいい。

今の私が欲しいのは、揺れない地面と、柔らかい布団だけだ。

「ジェラルド……貴様のせいだ……絶対に許さん……」

元婚約者への呪詛を呟きながら、私は青ざめた顔で窓枠にしがみついた。

夜明けと共に国境を越える頃、私はすっかりボロ雑巾のようになっていた。

眼鏡はズレ、髪は乱れ、ドレスはシワシワ。

これが「悪役令嬢」の成れの果てかと思うと泣けてくる。

だが、この地獄のドライブの先に待っていたのは、私の予想を遥かに超える「出会い」だった。

隣国クリフォード王国。

そこで私を待ち受けていたのは、噂通りの「氷の皇太子」と、彼を取り巻く「デスマーチ直前の労働環境」だったのだ。
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